己が翻意の理由を突き止めること自体は、然程難しくはなかった。
 要するに、が異様に流されやすい迄の話である。
 洗脳されやすい、と言い換えても良い。
 陸遜の確固たる意思表示を繰り返し聞かされることによって、気持ちが揺らいでいるのだ。
 ただでさえ、は迷っている状態だ。
 迷っている、ということは、戻っても良い、と考えているが居る訳である。
 多数決の問題ではないが、陸遜一人との半分が、『戻る』ないし『戻っても良い』と考えている次第で、意識調査的には過半数の割合で『戻る』ことを希望している、と判断されるパーセンテージとなる。
 そのことを、はようやく認識した、ということだろう。
 敢えて目を逸らしていただけで、何を今更と思わないでもない。
 けれども、では陸遜と共に戻ると決心が付いた訳でもない。
 の半分は、あくまで『戻っても良い』であって、積極的に戻ろうとは考えていないのだ。
 戻っても良い理由として、皆にきちんと別れを告げていないとか、嫌いではなかったからとか、そんな曖昧な条件が列挙する。
 戻らなくてはならないと思う理由には、あまりに乏しいと言えよう。
 では、戻りたくない理由を挙げるとすれば、こちらは如何にもはっきりしている。
 殺され掛けたこと、戦をしていることの二点だ。
 食の問題や己の無能さについてはさておき、この二点に関しては、誰に対しても共感を得られるに違いない。
 問題は、戻りたくない理由に関して、にその実感がほとんどないことにある。
 殺され掛けたとはいえ、殺された訳ではなく、戦をしているとはいえ、戦を目の当たりにした訳ではない。
 特に前者は、こちらに戻ってより急速に記憶が薄れ、得た恐怖もかなり希薄なものになってしまっていた。夢だったと断言されれば、もしかしたらそうだったのかもと思える程度には、漠然とした記憶と化している。
 何もかもがぼんやりで、いい加減過ぎて、あまりのだらしなさに焦るのだ。
 自分は、もしかしたら(もしかしなくとも)相当図太いのかもしれない。
 凌統辺りに話して聞かせたら、さもありなんとばかりに同意されそうだ。
 既に懐かしささえ覚える人の名に、唐突に人恋しい気持ちが湧き上がる。
 あの人達と居たのは夢だったのではないかと思うと同時に、夢などにしたくないという未練がましい執着心が焼け付くように渦を巻く。
 かつて、陸遜に対し『夢に出来るかと思った』と本音を漏らした。
 そして今、もし陸遜が居なかったらと考えるとぞっとする。
 夢にしたくなかったとしても、夢とせざるを得ない現実に、苦しくて切なくて泣き喚いていただろうと思えてならない。
 徹頭徹尾、自分は身勝手なのだという結論だけは変わらなかった。
 深い溜息が日常茶飯事になるこの頃だ。
「お待たせしました」
 陸遜が、嬉しげに駆け寄って来る。
 電車に乗っていた時には青白かった顔色が、嘘のように晴れやかだ。
 最早目新しくさえなった赤い装束は、初めて見る人にとっては異様に出来の良いコスプレ衣装に見えたことだろう。
 久し振りに呉の装束をまとった陸遜は、心なしか浮足立って見える。
 本物の陸遜だということがばれてはいけないと、口酸っぱく言い聞かせた成果だろうか。
 ならば着るなという話なのだが、趙雲が着たと聞いて引き下がる陸遜ではない。
 武器だけはどうにか置いて来させたが、その手元不如意さが、却って落ち着かなくなる原因かもしれなかった。
 趙雲を連れてきたイベントから、久し振りというには間の空かない、すぐというには日の経ち過ぎたイベントに、今度は陸遜を連れて参加している。
 は半ば自棄になっていた。

「おはよう、ございます……?」
 元気の良い挨拶が、尻すぼみになっていくのをは肩身狭い思いで聞かねばならなかった。
 自身のスペース前は元より、ジャンルスペースが目に入る辺りからどうしようもなく目立っていたのを、は疾っくに自覚している。
 趙雲も目立ったが、陸遜は来ている服の色からして更に倍増し目立つと言って過言でない。
 要らん愛想を振りまいて、目が合う相手相手に微笑み掛けるから余計だ。
 の隣のスペースは、前回と同じサークルだった。売り子嬢(恐らくは一人サークルと目されるので、書き手と言うべきかもしれない)も同じだ。
 前回と同じく、目を丸くして陸遜を見ている。
 リアル趙雲の次はリアル陸遜な訳で、それは目の一つも丸くして当たり前だろう。
 申し訳なさが極まり過ぎて、嫌な汗が滲む。
 それでも、済ませて置かねばならない仁義というものがある。
「……お、おはようございます。あの、実は、ちょーっと事情がありまして、今日は欠席、ということになりますんで……」
 前回と同じ轍を踏むことはないと、が気付いたのは前日の話だ。
 連れて行かなくてはいけないとしても、わざわざ陸遜の目の前で、趙雲受けの同人誌を売ることもない。スペースを空けてしまうことに罪悪感はあったが、優先順位を考えれば自明の理で、どうにも譲れるものではなかった。
 陸遜も、イベントが行われることはともかく、何をするところなのかはよく理解できなかったようで、怪訝そうにはしていたけれども、基本、に口出しする様子はない。
「え。……あ、え、そう、ですか……」
 売り子嬢は、と陸遜を交互に見比べる。
 視線が針のむしろに感じられ、の汗は止まらない。
「……ええ、あの、申し訳ないです。で、あの、もしお友達とかいらっしゃるようでしたら、うちの椅子、使っちゃって構いませんので、ええ」
 言いながら、椅子の上に置かれているイベントや印刷所のチラシを纏める。
 世情関係なく山積みされるチラシの山を、今日程憎いと思ったことはない。
 早く片付けて立ち去りたいのに、大小変形交えたチラシを揃えるのに四苦八苦する。
 纏めて棄ててしまおうにも、纏めなければゴミ捨て場まで運ぶことも難しい。
 隣の売り子嬢が、見かねたように立ち上がるのが目の端に止まり、焦る。

 陸遜が、極自然に前に乗り出し、の手からチラシの束を取り上げる。
 その手の中で、ギザギザの角で円を描くチラシ達が、まるで手品のようにすぅっと纏まった。空いた机の端でとんとんと揃えると、あたかも最初からそうであったかのように、ぴしっと纏まった紙束が出来ている。
 どこからともなくどよめきが起こる。
 聞こえた様子もなく、陸遜は残りのチラシを纏めると、二つ合わせて自分の腕に抱えた。
 あまりに見事な手際の良さに、が声を失くして突っ立っていると、陸遜は可笑しそうに目元を緩ませている。
「……これ、どうしますか」
 問われ、も我に返る。
「あ、捨て、に行く」
 ぎこちない返事に、陸遜は手元の束に目を落とす。
「捨ててしまうのですか……何だか、勿体ないですね」
 辺りがざわめいた。
 不快なものでない。むしろこれは、『萌え』から来るだろう。
 今の一言で、陸遜は、『如何にもイベント慣れしていない、けれどもちょっと気の利く男の子』という売り文句をゲットしたに違いない。
 それが至高と冠して問題ない『陸遜コスプレイヤー』の所業だとしたら、例え生まれる前から生粋の蜀ファンであろうとも、心動かぬものではない(多分)。
 ただでさえ目立つところに、より一層目立つことをしてどうする。
 八つ当たり気味に眉を吊り上げると、は陸遜の手を引き移動を開始する。
 が陸遜の手を取った途端、またも辺りがざわめいた。
 こちらは、残念ながら萌えではない。
 隠しようもなく不快感を露にした、『どよっ』としたざわめきだった。
――すいません、すいません、すいません……!
 何に謝っているのかも定かでないまま、は陸遜の手を引き会場を突き進む。
 陸遜は、何を考えているのかの為すがままだった。
 会場を突っ切って、建物の外にあるゴミ捨て場に辿り着くと、係員がちらりと目を向ける。
 大抵、愛想がいいとは言い難いのが常だが、陸遜が微笑みながら両手でチラシの束を差し出し、『お願いします』と明朗快活に頼むと、初老の男性係員はたじろぎながらも受け取った。
 何故か頬が薄ら赤い。
 見るだに奇異な状況に、何だこれと半目になる。
 声だけ聞くと、むしろ男らしい声だと思うのだが、見た目は美少女と言って差し支えない。それが、いわゆるギャップ萌えとかいうものに繋がってしまっているのだろうかと、は唐突にうろたえた。
 密かに辺りを見回せば、陸遜に集まる視線は限りなく多い。
 元より一軍の将の為にあつらえられただけあって、装束の華麗とも言うべき見事さが中身を引き立て、人目を奪うに至るようだ。
 これは早く帰った方がいいと直感的に覚り、陸遜の手を引こうと振り返る。
 そこに、完の姿があった。
 皆が皆、見惚れた視線を陸遜に向ける中、一人困惑する完の表情が浮き出すように目立つ。
 が完を見ていると、それに気付いた完が目を逸らした。
 ずきり、と胸が痛みを訴える。
 目も合わせられぬような後ろめたさがあるのかと、苦い思いが過ぎった。
 けれども、すぐには気が付いた。
 完の表情は、後ろめたい感情を持ち合わせた者がする類のそれではない。
 それが証拠に、不安そうに辺りを見渡すと、迷いも見せずに目線を戻してきた。
――早く、帰りな。
 完の唇が、そう呟いたように見えた。
 が陸遜をちらりと見遣ると、大きく頷く。
 そう言えば、完はしばらく連絡をするなと釘を差していたのだ。
 あれは、メールや通話のみならず、直接話し掛けることも含んでのことだったのだろうか。
 考える余地もなく、は急かされるように陸遜の手を掴んだ。
 はっきりそうだと言われた訳ではない。
 見当違いも甚だしいかもしれない。
 けれども、の心臓は痛みを伴う程に早く打ち、何かを警告する。
 完に対する疑念は、完の目を見た瞬間に吹き飛んでいた。
 否、むしろ、疑念を凌駕する予感めいた悪寒が、に即座の行動を促しているのだ。
 頭の中に何故か、『森のくまさん』が流れ始める。
 弾むような明るいメロディとは裏腹に、どことなく暗く粘着質なものが感じられた。
 頭の中で繰り返されるフレーズに追われるように、は陸遜の手を引き会場を抜け出す。
「……?」
 振り返らずに居たので分からないが、陸遜の声は不審に満ちている。
 それはそうだろう。
 説明しろと言われても、出来る自信がまったくない。
 何となく嫌な予感がすると言っても、陸遜は納得できないだろう。
 ともかく早く帰ろうと、この埋め合わせはどうとでもしようと出来得る限り急ぐ。
 広い会場を小走りに走り抜け、人込みを抜ける。
 ここはこんなに広かっただろうかと、苛立ちが募る。
 歩いて歩いて、やっとの思いで更衣室前に辿り着き、もようやく足を止めた。
「着替えて来て」
 間髪入れずにぴしゃりと言い放つと、陸遜は不思議そうに首を傾げる。
「……来たばかりではないですか?」
「うん、でも、もう帰るから……帰ろう、ね」
 の様にただならぬものを感じたか、陸遜もそれ以上を問わなかった。
「では、着替えてきます……少しだけ、待っていて下さい」
 急ぐからと言外に含まれて、は唇がわずかに緩むのを感じた。
 それで、初めて自分が極度に緊張していたことを覚る。
 急ぎ足の陸遜が更衣室に消えるのを見届けると、一気に体の力が抜けた。
「……何だったんだ……」
 思わず漏らすも、我ながらよく分からない。
 それにしても、と苦笑が零れた。
 別に完は、逃げろと言った訳ではない。追い掛けて来た訳でも、勿論ない。
 何で突然蘇ったのが、『森のくまさん』なのか。
 柱にもたれると、独特の冷たさがの頭を更に冷やしてくれる。
 色々考え過ぎて、神経質になっていたせいかもしれないと、そんな風に考えた。
 更衣室から、陸遜の姿が跳び出してきた。
 余程慌てさせたか、ジャケットは片腕を通しただけ、シャツもボタンの幾つかが止まっていない。
 悪いことをしたと思いつつ、微笑ましさに顔が緩むと、柱の影から滑り込むようにして立った気配を感じる。
 何気なく振り返ると、意図せず顔が強張った。
 相手側も、これ以上なく不機嫌な顔をしている。
 そんな顔をされる義理はないが、される理由もないとは言えない。
 そこに居たのは、以前趙雲に住所と電話番号を訊ねた、あの女性スタッフだった。

← 戻る ・ 進む→

Divide INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →