しかし、と、は己を立て直す為に思考を切り替える。
――何があったんだろ。
 陸遜へのメールは簡素に過ぎて、その理由を窺わせる片鱗もない。
 そも、宛にはその簡素なメールすら届いておらず、何とはなしにいじけたものすら感じてしまう。
 よもや、と考えてしまうのは、悪い癖だろうか。
――バレたことに気が付いた、とか。
 負の思考に陥り易いのは自覚のあるところだが、さすがに今回は即座に否定が出来た。
 その手のプログラムなりがあれば話は変わってくるのだろうが、IPアドレスを見比べられたと、完に気付ける筈はない。
 考えられるとすれば、偶々同じタイミングで完も自分のミスに気付き、慌てて連絡を絶ったという場合くらいか。
 ならば有り得ると、考えてしまう自分には憂鬱になった。
 頼りにしている完相手ですら、こうも容易く疑ってしまう。
 疑心暗鬼にも程があると腹立たしくなるが、では今すぐ前向きに、ともいかないのが道理というものだった。
 こちらではともかく、あちらの世界でもこうなのだから、それは生き難いに決まっている。
 ぼんやり思い返すだけでも、人々の直情径行、情熱大陸的な行動の数々が浮かんでくる。
 と言うか、実際問題それしか浮かんでこなかった。
 正体の定かでない疲労を感じていると、それまでに合わせて口を噤んでいた陸遜が、ぽつりと漏らす。
「……もしや」
 重々しい口調に、陸遜も同じことを考えたのかとはっとする。
「完殿は、これを機に互いの仲を深めるべきと、敢えて連絡を絶たれたのではないでしょうか」
 違っていた。
 これは場を和ませる為の新手のギャグかとも思ったが、陸遜の口から『なんちゃって』的な語句は遂に発せられない。
 完全に正真正銘心の底から本気なのだと覚って、正体の定かでない疲労が加速かつ倍加する。
「……えーと」
 黙したままの返事を待つ陸遜に根負けし、疲労困憊ながら会話の続きを模索する。
「……互いの仲を深めるためー……にー……完が連絡を絶ったとして、ね?」
 どうすると、と問い返すと、陸遜は、待ってましたと言わんばかりにずいと顔を寄せてきた。
「実は、かねてからお願いしたいことがあったのです」
 本当に、かねてから延々考えていたのだろうと窺わせるような、しっかりした腰の入れようだった。
 元よりこんな機会を狙っていたのだろう。
 軍師たる者、こうでなくてはいかんのだろうな、と感心するような軽蔑するような、蓄積された疲労もあって、何だかどうでも良くなった。

 は、陸遜を連れて細い路地を進んでいた。
 普段から、街中できょろきょろするなと言い含められているせいか、陸遜が不用意に辺りを見回すことはない。
 ただ、よくよく見ていると視線が落ち着きなく揺れているのが分かって、やはり未だ慣れないのかと却って微笑ましい。どことなくふてぶてしいものを感じさせる陸遜だけに、時折垣間見せる怯えたような表情は、むしろに好感を与えるのだ。
 言えば不貞腐れるに決まっているので、敢えて言わない。
 良くも悪くも年下の男の子然とした陸遜は、にとっては二度目の体験であるが故に、ある程度は扱いやすいようにも思える。
 趙雲の時は、初回ということもあり、ただただ振り回されるばかりだった。
 そんな風に思い出すのは、この道がある意味、と趙雲の転機になった道だったからだろうか。
 あまり外に出たがらない趙雲を、それでも運動不足、訓練不足の解消にな.るだろうからと、半ば無理矢理連れ出した。
 最初は気乗りしなかった風な趙雲だったが、久し振りの長物を手にして昂揚したのか、その後は唐突にイベントへ同行すると言い出したのを思い出す。
 あの時は、色々とナニがアレだったと思うのだが、今また繰り返さねばならぬ状態とあって、頭が痛い。
 今、この道を歩いているのは、陸遜の願いからだった。
――私も、趙雲殿と同じことをしてみたいのです。
 かねてから考えていたという願望は、とりあえず叶えられなくもない辺りが巧妙に悪辣な類のものだった。
 河原に連れ出すくらいは、どうということもない。
 問題は、イベントにも連れて行けという陸遜の主張をどう宥めるかに掛かっていた。
 あの趙雲でさえ、たった一度のイベントで、軽微とはいえ着実に色恋沙汰の絡んだ問題を起こしたのだ。愛想はより良く、好奇心は甚だ強い陸遜を連れてイベント参加など、恐ろしくて仕方がない。
 杞憂で済むならそれに越したことはないが、実際は、不安になるなと言うのが無理な話しだった。
 服を買いに行っただけで、店員とはいえ女性に囲まれてしまった経験からして、杞憂で済む確率はかなり低い。
 本来ならば黙ってスルーしたいところだが、趙雲の行動を把握した陸遜は、既にイベントの存在を知っている。
 連れて行かない訳にはいかないのだ。
 少なくとも、陸遜が許してくれる筈がない。
「……ほら、着いた」
 セメントで固められた石段を登ると、強い風に煽られる。
 土手という壁に堰き止められていた風は、河原の中を奔放に吹き荒れていた。
「ちょっと、風、強いね」
 何の気なしに隣の陸遜を見ると、こちらがびっくりする程驚いている。
 ぽかんと開いた口の大きさに、何でそこまでと引く思いだ。
「り、陸遜?」
 袖口を摘まむと、我に返った陸遜がの方に振り向く。
 二三度瞬きをして、小さく深呼吸すると、ようやく落ち着いたように照れ笑いを見せた。
「急に広い所に出たので……少し、眩暈を起こしたようです」
 にとっては見慣れた風景も、陸遜からすると想像の範疇を越えるのだろう。
 どうにも理解が出来ないが、最初から生まれ育った世界が違うのだ。安易に理解できる方がおかしいのかもしれない。
 陸遜は、の傍らを離れ、河原に続く階段を下りていく。
 一度、踊り場に当たる部分でを振り返った。
 どうにも心細そうな表情に、優越感じみた胸の高鳴りを感じ、いささか自己嫌悪に陥る。
 趙雲の時も、こうだった。
 陸遜は、勿論趙雲とて、の所有物ではない。
 それでも、頼られているという事実は、気持ちをむやみに浮き立たせる。
 同じ過ちは繰り返したくないと、は自身を戒めた。
 河原に降りると、陸遜は辺りを大きく見回した。
「……あれ、川、ですよね」
 当たり前の話だが、陸遜にとっては当たり前ではないのだ。
 神妙な面持ちを作り、軽く頷く。
 陸遜は、川岸近くまで足を進めると、恐る恐る覗き込んだ。
 油や塵が浮いた川面を、訝しげに見詰める陸遜の横に、は並び立つ。
 何が面白いのか分からないが、あまり綺麗でない川を見られるのは、何とはなしに恥ずかしい。あちらの世界の川は、澄んでこそいなかったが、こんな油やゴミはさすがに浮いてはいなかった。
 陸遜が黙っているので、も口を開けずに居る。
 どうしたものかと困惑していると、陸遜がぽつりと零した。
「……火を……」
「かけるなよ」
 間髪入れずに突っ込むと、陸遜が目を丸くした。
「……今、私は何か言いましたか?」
「……イヤ、あの……火を……って」
 陸遜の顔が赤くなる。
「……いえ、あの、油のようなものが浮いていたので」
 浮いているから何だと言うのか。
 呆れたと態度で示すに対し、陸遜は大袈裟なくらいに手を振った。
「いえ、いえ、本当に……あの、考えてみただけですから」
 余計に悪くないだろうか。
 第一、誰に対して火攻めをする気だったのか、その辺りから問い詰めたい。
 油が浮いているから火を点けよう、では、どこの放火魔か。
「いえ、ですから、点けたら点くのだろうかと、思っただけですから!」
 本当に放火魔レベルだった。
 陸遜の持ちネタとして『放火魔扱い』があるが、こうなるとあながち間違っている気がしない。
 と言うか、ままだ。
「……もう、今日からコンロ弄るの禁止ね」
「違いますったら!」
 顔を真っ赤にして慌てている陸遜に、もいい加減に弄るのをやめることにした。
 改めて、どこに居ても軍師なんだなぁ、と思う。
「……陸遜、帰りたいと、思わない?」
 突然の問いに、陸遜の頬にあった赤みが、すっと引いていく。
「……が、共に帰って下さるなら」
 そうじゃないと言い掛けて、やめた。
 陸遜にとって、己が元の世界に帰ることは、を連れて帰ることと同義なのだ。
 に選択の余地がないのではなく、選択肢そのものが元からない。
 それを責めても意義はなく、意味もなかった。
「一つ、訊いてもいい?」
 の言葉に、陸遜はわずかに戸惑い、しかしはっきりと頷く。
「どうして、私を連れて帰りたい?」
 質問自体に然したる意味はなかった。
 単に、何でもいい、何かを問うてみたかっただけだ。
 帰る帰らないの終わりのない連鎖から、抜け出したかった。
 陸遜は、の目を見据えて口を開く。
「連れ帰らずにおくことを、考えられないからです……が居ない天を、私が最早認められないからです」
 思った以上に、否、遥かに確固とした返答が、に叩き付けられた。
 勢い良く氷水を浴びせ掛けられたような衝撃に、心臓が竦み上がる。
 を見詰めていた陸遜の目が、悲しげに揺れて逸らされた。
 出すべき答えを、陸遜は既に決めていて、はずっと迷っている。
 にとって、決め付けてくる陸遜に非があり、自分に非はないと思っていた関係だった。
 いきなりだ。
 それが崩れる。
 選択があると思っていたこと自体が間違いであり、の迷いは悪であり、陸遜の決定こそが最善なのだと、何故か無性にそんな気がした。
――いや。イヤイヤイヤイヤ。イヤ。
 そんな訳はないのだが、そんな筈はないのだが、突如湧き上がった罪悪感はどうしても消えない。
――何だ、コレ。
 べっとり貼り付いた宛名シールを、爪の先で剥がしているような苛立ちに胸が焼ける。
 何でそんな風に思ってしまったのか、意識の底にきっかけを探るも見付からない。
 極め付けに不快な感情の正体が、焦燥だと気付くのに然程時間は掛からなかった。

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