風呂から上がると、洗面台で服を洗う。
コインランドリーにでも行ければいいのだろうが、二人同時に精液塗れになった以上、それも叶わない。
目線を上げると、鏡にバスローブ姿のが映る。
その背後に、べったりと引っ付いた陸遜の姿もあった。
同じく、白のバスローブ姿だ。
「……ねえ、陸遜」
「何ですか」
顔も上げずに答える陸遜に、も手を止めずに話し掛ける。
「何、してんの」
「補給です」
さいですか。
おんぶでどうやって(そも何を)補給するのか分からないが、陸遜がそうだと言うならそんなものなのだろう。
自分の恋愛観をこれ以上なく的確に言い当てられてから、は少しぼんやりしている。
空想としても滑稽で、如何にも夢物語じみていた。
互いに一目惚れし、神に約定された番いとして愛を育み、どんな邪魔が入っても最終的には皆に祝福され、純潔のまま相手に嫁ぐ。
こんな条件を揃えて恋愛出来るなら、即映画化決定だろう。
つまり、こんな条件で恋愛しようなど、土台無理なのだ。
阿呆過ぎる。
誰が相手だとして、成立する訳がない。
――もて過ぎて、脳味噌が海綿体化してたんだろか。
ふと、腰に当たるものを思い出す。
陸遜のものは、元気なままだ。
これが補給の印じゃなかろうなと、下らないことを考える。
「……何で、あんなことになったん?」
何とはなしに、先程の話を引っ張り出した。
意図はない。
会話の繋ぎ程度のつもりで口にしただけのことだ。
それが、地雷原の始まりだった。
「完殿と、接吻しました」
の手が止まる。
蛇口から流れる水の音だけが響いた。
「………………何て?」
「完殿と、接吻しました」
一言一句、言葉の調子も早ささえ変わらず、陸遜は答える。
の思考が止まった。
陸遜の言葉を理解しようとして、出来ずに固まる。
何故が硬直した理由は明らかだろうに、陸遜は知らぬ素振りで話を続けた。
「が駄目なら、自分ではどうか、と。それで、あの場で試しました」
――えー。
正直な感想だった。
他に何も浮かばない。
「……それで?」
いい話題転換も出来ない以上、話を促すより手立てがない。
陸遜が顔を上げた。
鏡越しに見える陸遜は、至極複雑そうだ。
先刻の完とダブる。
「……上手く、いきませんでした……」
それは分かっている。
上手くいっていたとしたら、そもそもはここに来ていなかっただろう。
ならば、何をこそ聞きたいのだろう。
「……上手くいかなかったんだ」
おうむ返しに返して、ふと、あることに気が付いた。
「上手くいかないと、あんな風になる……?」
小骨が引っ掛かるような違和感がある。
何故だろうと考えて、思い出した。
「私の時は、そんなことなかったよね?」
以前、陸遜が『力』を得ようとして叶わなかったことがある。
けれどもあの時、陸遜は打ちひしがれてこそいたが、倒れ込むようなことはなかった。
何が違うというのか。
陸遜が『力』を得る為の条件と思しきものは、二つある。
内の一つが、陸遜に対する好意だ。
「完は」
喉が絡んだようになって、言葉が出ないのがもどかしい。
「……完は、陸遜のことが好き、なのかな」
好意はあるだろう。
なくて、あそこまで面倒を見られるものか。
ただ、キスは単なる好意で行えることではない。
少なくとも、完はそうした道徳観念の持ち主だと、は信じている。
しようと持ち掛け、したのであれば、完は陸遜のことが好きなのだ。
そして思い出す。
やはり、あのメールは完が出したものだったのか。
IPアドレスの一致は、ない訳ではない。だが、可能性を考えれば限りなく低い話だ。
完らしからぬ破綻した文章も、嫉妬に任せて書き殴ったのだとすれば容易に説明が付く。
もしその通りだとすれば、完は、毎度毎度さぞ嫌な気持ちにさせられてきたことだろう。
陸遜はへの好意を隠さないし、は一方的に追い回されているばかりという態度を貫きながら、浮付いた態度を変える様子もない。
堪らなかっただろうと思う。
しかし、の鬱々とした予想は、あっさり覆された。
「違うと思います」
否定する陸遜の言葉に、微塵の揺らぎも感じられない。
「どうして?」
何故言い切れる。
「以前、話したことがありましたね? に触れた時、が私のことを考えているかどうか分かると」
あった。
けれども、それがどう繋がるかが分からない。
「……これは、言ってなかったことなのですが」
いささか言い難そうに前置きをした陸遜が語るには、だ。
「私は、が……いえ、接吻した相手が何を考えているのか、おおよそですが、分かるようなのです」
つまり、陸遜はキスした相手が喜んでいるのか悲しんでいるのか、喜怒哀楽に毛が生えた程度の差異ではあったが、察することが出来るらしい。
例えば、が恥ずかしいらしい、困っているらしいと何となく分かる。
気になっていることがあるようだと分かって、それとなく伺ってみると、ああ腹が空いていたか、トイレに行きたかったのかと得心していた。
それらが積み重なり、陸遜は、のみに関しては相当細かく分類出来るところまできている。
「……あの、あのさ、陸遜、それってさ……」
最低ではないか。
陸遜は、わざとらしくけほけほと咳き込んで見せた。
「それはさておき」
「陸遜」
「さておきですよ、」
陸遜が以外に触れたのは完が初めてであり、完に触れるのもまた、初めてだった。
故に、確とした自信は持てないものの、ある程度の推察は出来る。
「完殿は、私のことなど目もくれていません」
「でも」
では、どういうことだ。
「仔細までは分かりかねます……ですが、完殿が私に対して色恋に関する感情をお持ちでないのは、恐らく確かです」
「だから、何で」
「弾かれましたから」
陸遜が完に触れた瞬間、熱く焼けた鉄の塊を無理矢理飲み込まされたような、吐き気を伴う激痛に襲われた。
猛烈な眩暈がして、気が付いた時には目の前にが立っていた、という訳だ。
「と……その、した時に、こんなことは一度もありませんでした」
なかったでしょう、と問われれば、確かにそうかもしれない。
少なくとも、脂汗に塗れて顔面真っ青の陸遜というものを見たことはなかった。
「私が感じたのは、拒絶です。嫌悪と言ってもいいくらいの、完全な」
何に対してかまでは、生憎と定かでない。
「ですが、私が弾かれたのは、紛れもない事実ですし」
何故、こんなにも言い訳がましいのだ。
が振り返ると、陸遜はわずかに目を逸らし、戻す。
さり気なさを装っていたが、逸らしたことに変わりはない。
これは、あれだろう。
「後ろめたい?」
びく、と陸遜の体が震えた。
後ろめたいらしい。
でないと駄目だと言っていたのは、陸遜本人だ。
それを、誘われたからとほいほい乗ってしまったら、後ろめたいに決まっている。
陸遜が完の誘いに乗った理由は分からない。
愛されたいという精神的充足を求めてなのか、新たな『力』の源の確保の為か、それとも他の理由によるものなのか。
どれであっても、どれでもなくとも、後ろめたく感じる必要は本当はない。
世界の中に一人きりだという実感は、時に刃となって心を切り裂く。
心細さが極まる時、掴まることの出来る藁は多い方がいいのが道理だ。
そのことを、は誰よりも知っている。知らしめられている。
「私が怒ると思った?」
「……怒って、ないのですか」
複雑な表情をしている。
怒っていないと言えば、興味がないと言って拗ねるのだろう。
怒った、と言えば、怒らせたと言って凹むのだろう。
――面倒臭い子だなぁ。
思春期だから、仕方がないか。
「ムカついてる、かな」
「怒ってるんじゃありませんか」
そうなのだが、それでも『怒っている』とは勝手が違う。
もやもやするというか、ただ、いい気持ちでないのだけは確かだ。
腰に当たる感触は、一向に離れる気配がない。
むしろ、最初の時よりずっと強く押し付けられている気がする。
「……私は、でも、完が陸遜のことを嫌っているとは、どうしても思えないよ」
ぽつりと呟くと、陸遜は反論したげだったが、結局しなかった。
「そうでしょうか……」
「うん。だから、嫌われてるからああなったんだっていうのは、違うと思う」
詰まるところ、どういうことなのだろう。
完と同じIPアドレスから届いた中傷メールの数々、完が連絡をするなと言ったこと、陸遜が倒れたこと、これらは何か関係があるのだろうか。それとも、ないのだろうか。
分からないことが多過ぎる。
とりあえず、は自分に分かったことを陸遜に教えてやることにした。
「あのさあ、陸遜」
「はい」
声音から、何か言われると察したらしい陸遜が、わずかに気色ばむ。
回された手に手を重ね、は陸遜としっかり目を合わせた。
「私は、どんなことがあっても、陸遜を拒絶したりはしないよ?」
例えどんな無茶をしようと、されようと、は陸遜を見捨てるつもりはない。
しかいないから、ではある。
けれど、決して嫌々やっているのではない。
義理が絡む面も確かにあるけれども、基本的には陸遜を守りたいからだ。
愛ではないかもしれないが、好きだという気持ちに偽りはない。
「……はい」
陸遜の声は震えている。
「はい……」
俯いた陸遜の顔は、自身の姿も邪魔して、鏡越しにも見えなくなった。
気が付くと、腰に当たる感触がなくなっている。
――え。
どうも、萎えたらしい。
いいこと言ったつもりのだったが、一気に複雑な心境に駆られる羽目になった。
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