迷子になった。
 迷子の子供でも、それだけは分かる。



 いい天気だった。
 長閑に、かっぽ、かっぽと馬の蹄の音が聞こえる。
 かっぽ、かっぽ、かっぽれかっぽれあーまちゃーでかっぽれ。はあ、しかし。
 こんなにのんびりしていていいのかと、は密かに危惧をしていた。
 同乗している馬超は、気にした様子もない。
 妙にご機嫌なので、何だか不安になる。
 そっと振り仰ぐと、馬超が背中から抱き締めてきた。
「……孟起、痛い」
 鎧を着込んでいるのを忘れてぐいぐいと力を篭めてくるので、上着越しに金具が食い込んでくるのだ。
 すまん、と耳元で囁いて力を抜いてくれたが、腕はしっかりの体に巻きついている。
 何となく、子供がお気に入りの人形を抱っこしているみたいだ、と思った。
「このまま趙雲の屋敷に行く。とりあえずの荷物を纏めてしまえ。室は、すぐに用意させるからな」
 突然、馬超がそんなことを言い出した。
 は?
 思わず唖然となる。
 唖然となるに気が付いた馬超は、口を尖らせた。
「何が不服だ。足りないものはできるだけ早く揃えさせる。別に身一つで来ても構わんのだぞ」
「何で私が馬超のところに行かなならんの」
 沈黙が落ちた。
 また、かっぽ、かっぽと馬の蹄の音が響く。
「……趙雲は、お前を諦めたのだろう。だから、お前は俺のものだ」
「何それ」
 馬超の物言いに、はカチンとくるものがあった。に選択権がない、ということにも腹が立った。
 物とは何だ、物とは。
「私がいつ孟起の物になったって。私は私のもんだい」
 それに、帰ったら孔明様に申し上げて、何処かに室か屋敷を借りるんだもん。
 がそう言った瞬間、馬超は思い切り口をひん曲げた。
「何故だ。うちに来ればいいだけの話だろう」
「だから、何で孟起のお屋敷に行かなくちゃいけないんだって」
 も馬超も、徐々にヒートアップしてきた。声が大きくなってくるのに、二人とも気が付いていない。
「俺が引き留めたんだ、趙雲はお前を帰そうとしていただろう!」
「それとこれと如何いう関係があんのよ、私は一人で住むって言ってんでしょうが!」
「お前みたいな馬鹿な女が、一人でいられるものか! いいから、俺のところへ来い!」
「行かねーって言ってんでしょうが!」
 ぎゃあぎゃあ、本当にかしましい。馬の歩みはのんびりとしたままで、野原を抜け、森を抜け、街の門を潜ってなお、二人は言い争い続けていた。

 結局趙雲の屋敷に行く前に、城内の諸葛亮の執務室へと向かうことになった。
 城の廊下では、さすがにお互いに黙っていたが、これは城内だからという気遣いではなく、そこまでの道中ですっかり喉が枯れてしまったからに他ならない。
 諸葛亮の執務室に辿りつくと、すぐに諸葛亮の元へと案内された。
 首を傾げながら中に入ると、何故か馬超まで着いてくる。
 何で着いてくるんだろうと見上げると、むっとして睥睨してくる。
 どうやらが屋敷を借り受けるのを阻止しようという腹らしい。
 が馬超の屋敷に行ったところで、馬岱が何かと横槍入れて、きっと馬超の思うようにはならない。それでどうしてここまで拘るのか、には不可思議だった。
 諸葛亮はまだ書簡の束を始末しているところだった。うず高く積まれた書簡は、卓の上だけでなく横に設えられた棚や黒塗りの箱にも満載されており、諸葛亮の多忙さを物語っているように見えた。
 出直そうかとも思ったが、が口に出す前に諸葛亮が顔を上げた。
「これは馬将軍、私に何か御用ですか」
 先制の一撃だ。用がないなら帰れと言わんばかりである。実際、その通りだと思われたが。
「……俺はの付き添いだ」
 馬超が言いにくそうに口篭る。諸葛亮はあまり得意ではなさそうだった。
 とて、諸葛亮と話をするのは、実は苦手だった。話が出来ないからではない。逆で、話をし過ぎるのだ。
 聞き上手といえばそれまでだが、気がつくといらぬことまでつらつらと話してしまっている。姜維などは『丞相と楽しそうにお喋りされてましたね』などと能天気に笑っているが、それにお愛想で笑い返しながらも、の腕にはいつも鳥肌が立っていた。
「そうですか」
 改めてに向き直る。まるでが戻ってくるのが分かっていたと言わんばかりの落ち着きぶりに、 は逆に落ち着かないものを感じていた。
「あの……すいません、帰れなくて……戻ってきてしまいました」
 詳しく語ると、馬超に責めが行きかねない。諸葛亮の許しを得て帰ろうとしていたを、強引に引き戻したのだ。
 諸葛亮は分かっていますと言いたげに、無言で軽く頷いた。
「馬将軍、帰ってきて早々に申し訳ないが、殿がお呼びです。他の将軍も既にお集まりです。軍議の間に向かっていただけますか」
 馬超が、一瞬何か言いたげに口を開いた。が、結局何も言えずに頷くと、に気遣わしげに視線を送って、退出していった。
 室の中にはと諸葛亮二人きりになった。
「え……と……あの、孔明様」
 ただでさえ厚かましいという気持ちが先立つ上に、以前に劉備が勧めてくれたものを断った前歴がある為に、なかなか言い出せない。
「……それは構いませんが……今しばらくは、趙将軍のところにおられた方が良いのではないですか」
 まだ何も言っていない。
「どうしてもということであれば、私が時折使う別宅があります。そちらを使われるといいでしょう」
 だが、の言いたいことには的確に答えているようだ。
 諸葛亮のこういうところが、少し苦手だ。
「えーと……私としては、どこか、納屋とかでいいんですが……」
 狭いほうが落ち着く。日本人の悲しい性だと思う。
 諸葛亮は困ったように首を傾げた。
「貴女をそのようなところで寝泊りさせたなら、殿がどれほどお怒りになりますか。私を困らせるおつもりでないのなら、ご了承いただけませんか」
 脅し付だ。はうんと頷くしかない。
「どうして、そうしようとお思いになったのです」
 一瞬は口篭った。諸葛亮の黒い目が、を覗き込んでくる。
 分かってて、なお言わせようというのだろうか。言葉に直さねば、ならないのだろうか。
 この人は、怖い。
「……ちゃんと、考えなくちゃと思ったんで。どちらかに決めなくちゃって、だから、二人から離れていた方がいいんです」
 諸葛亮は、ただ声もなくを促す。だから、それはどうしてなのだ、と。
「子龍と一緒にいる時は、ホントに子龍が好きだと思ったんです。でも、こっちに来て、ちょっとした行き違いがあって……孔明様は、知ってるんでしょう? 孟起が、私を敵の間者だと思い込んで、殴る代わりに……それは、誤解だってすぐに分かってくれたけど、でも、私イヤじゃなかったんですよ。自分でも、信じられない……そんな、好きな人がいて、何でたいした抵抗もなく……気持ちいいと思ったかもしれない、ちゃんと覚えてないけど、でも、私は孟起が嫌いになれなかった。だから、思ったんです、私、孟起のことも好きになったのかって」
「でも」
「同時に思ったんです、本当にそうなのかって。ひょっとして、私、ただ浮かれているだけなんじゃないかって。子龍も、孟起も、あんなに……こんな言い方、変かもしれないけど……綺麗、ですよね。私、あんなに綺麗な人知りませんでした。そんな人達に思われて、ただ浮かれちゃっただけなんじゃないのって。私にとっては、もう青天の霹靂というか、初めてだったし、好きなんだって思い込んじゃっただけで……二人同時に好きでいられるって言うことは、もしかして二人とも好きでもなんでもないってことなんじゃないのかって、そんな風に考えたらいてもたってもいられないって言うか、そう、物凄く……どうしていいか分からない、焦るというか、一人でいたいって……子龍の屋敷も、孟起の屋敷も……私、『うち』って思えないんですよ。ここは、私が居ていいところなんだろうかって、居たら駄目なんじゃないかって……人の、ホントにちっぽけな言葉でも、いちいち動揺して、びくびくして、そこら辺中に聞いて回りたい……っていうか……居てもいいのって、子龍に聞いたらたぶん当たり前だろうって言ってくれると思います、でも、言ってもらえたら安心するかって言ったらきっと、安心できないと思います……もう、どうしようもなく、ここは私の居る場所じゃない、ちゃんと帰る場所も、遣り残してきたこともあって、帰らなくちゃいけないと思うんだけど、じゃあ帰りたいかって言ったらそうとも言い切れなくて……何か、何もかも半端だというか、焦るというか、どうしたらいいのか分からなくて、だから」
「一人に、なりたいのですね」
 諸葛亮がの言葉を決定付けた。
 は、一気に溢れ出た言葉にようやく一区切りをつけられて、酸素が足りなくなって熱くなった脳の為に呼吸することが出来た。
「……こういう風に考えるのはイヤなんですけど……何だろう、触られたり……ただそばにいるだけで、もうこれでいいじゃないかって……このままでいいじゃないかって思って、何だかそういう自分が卑怯で……たまらないというか、居た堪れないというか、ちゃんとしなくちゃいけないって思うのに、ちっとも思い通りにいかなくて……好きで、いてもらえる資格がないような気がして」
 自分が、汚く思えるんですよねー、と、他人事のようには纏めた。
 ふつり、と声も音も途絶えた。
「……後で、誰かに送らせましょう」
 諸葛亮は、筆を持ち直した。
「手入れは欠かしていないはずですから、眠るだけなら、今宵からすぐにでも。趙将軍には、後で連絡をしておきましょう」
 馬将軍は、どうせ後でこちらにいらっしゃるでしょうから、その時にでも。
 諸葛亮のやることには卒がない。
「……すいません」
 また、しゃべり過ぎた。
 の胸に後悔の念が浮かぶが、今更発した言葉が消えてなくなるわけでもない。
 ぼんやりと、書架に積まれた竹簡の束を見ていた。
「もし、何でしたら、試してみますか?」
 諸葛亮が立ち上がった。
 蝋燭の灯りが揺らめいて、諸葛亮の白い服の上に微細な模様を描いた。幻想的で、は一瞬夢でも見ているのかと思った。
 内緒話をするように、羽扇をそっとの耳に寄せる。
「私が、貴女に触れて、どうなるのか……その結果如何で、貴女の悩みが一つ、減るのではないですか?」
 何を言っているんだろう、この人は。
 がまず思ったのはそんなことだった。
「また悩みが増える気もしますが」
 思いがけず口から飛び出した言葉に、諸葛亮は意外そうに眉を上げ、愉快そうに笑った。と言って、声をたてて笑ったわけではなかったが。
「……姜維に送らせましょう。そろそろ戻ってくる頃でしょうから。隣の部屋でお待ちになっていて下さい」
 が頭を下げて退室すると、書架の影に隠れた続き間から、月英が現れた。
 眉間に皺を寄せ、少し不安げに諸葛亮を見ている。
「私がお送りしてもよろしゅうございましたのに」
 諸葛亮は、月英に微笑みかけると再び卓に着いた。積まれた竹簡に手を伸ばす。
「貴女には、私の執務を手伝っていただかねば困ります。これから、少し騒ぎになりますしね」
 そう言って、竹簡に見入り始めた諸葛亮を、月英はじっと見つめた。
「……私、先程のお二人の姿を見て……嫉妬、いたしましたわ」
 はしたないと思われますでしょう、と僅かに頬を染めて恥らう月英に、諸葛亮は穏やかに笑いかけた。
「それは……申し訳ありませんでしたね。貴女に辛い思いをさせるつもりではなかったのですが」
 諸葛亮は竹簡を置き、月英に寄り添った。
「あの方は、何と言うかとても……興味深いのですね。戦を知らぬ世の女性とは、かくも純粋で誇り高く……そして何と下らないのかと……私のような者でも、あの方を傷つけ、踏み躙ってしまいたいと思わせるような……不思議な嗜虐心を煽る、可哀想な方だと思いますよ」
 月英は、諸葛亮の言葉に不安を隠せず、それでいてすっかり納得してしまっていた。
 何の支えも武力も持たず、それでもただ一人であろうとする強さは、月英にとっても理解の枠を越える。糸の上に立つ危なげな様は、月英でさえ、時折何かに突き上げられるような衝動をもよおさせるのだった。
「……何も起こらないといいのですが」
 月英の手に己の手を重ね、諸葛亮はふと遠い目をした。
 予言めいたその言葉に、月英の不安はただ増すばかりだった。

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