未熟な魔術師はただの詐欺師。
 優柔不断と意志の弱さが失敗の素だと何時分かるだろう。



 深く考えていなかったが、姜維はやっぱり馬で、当たり前のようにを馬に乗せた。
 貴人のように馬車を用意しろとは言わないが、別に歩いてもいいんじゃないだろうかとは密かに思った。
 それにしても、またしゃべり過ぎた。
 ブログに書き込むノリで、いやそれにアルコールを足してご機嫌、へべれけにでもなったかのようにべらべらと、よくもまあ喋ったものだ。
 諸葛亮を相手に物を話すのは、下手な薬をやるより危険かもしれない。
 薬と言っても、サプリメントくらいしか飲んだことはなかったので、良くは知らなかったが。
殿」
 背後の姜維が突然話しかけてきた。はい? と首を後ろに向けると、姜維は物凄く困ったような顔をしていた。
「あの……もう少し、後ろへ……それでは馬の首が絞まってしまいますし……」
 危ないでしょうと言われ、は膝に篭めた力をふっと抜いた。
 途端に上半身がぐらりと揺れ、危うく馬から落ちそうになった。
「おお」
 再び膝に力を篭める。馬の首にしがみつくようにして、何とか落馬をこらえた。
「あの、ですからね、殿」
 困っているのが声だけでも分かった。
 は、うむーとうなると、ほんの三センチほど後ろに下がってみた。
「……」
「……む?」
 押し黙った姜維に、が疑問の声を放つ。
 もういいです、と溜息を吐きつつ、姜維は馬の歩みを遅くさせた。
 姜維には申し訳なかったが、諸葛亮の『試してみますか』との言葉が、に要らぬプレッシャーをかけているのだ。不用意に人と触れ合うのは御免被りたかった。
 ぱか、ぱかと蹄の音が響く。
「……そういえば」
 沈黙に押し負けたのは、やはりの方だった。
「伯約殿が助けてくれたんですってねぇ。お礼が遅れて、すいませんでした」
 どうも有難うございました、と言うの言葉に被せるように、姜維が慌てて言葉を紡ぐ。
「いえ、本来ならばもっと早くにお助けせねばならなかったのですが……申し訳ありません
でした。丞相に命じられていたにも拘らず……私の未熟故です、どうかお許しを」
 が振り返った。目が、少し強張っているように見えた。
 姜維は、何かあったかとを見つめる。はその視線を避けるように再び背を向けた。
「……いや、孔明様、やっぱりご存知だったんだなぁと思って」
 はっと息を飲んだ。の肩が落ちたような気がした。
 例えどんな言い訳をしようと、諸葛亮が、自分の都合のみでの命を危険に晒したのは事実だ。
「あぁ、いや、そういうんじゃなくて……ホントに、あの人には何でも分かっちゃうんだなぁと思って」
 姜維の腹の裡を見透かしたように、が苦く笑う。
 振り返りこそしないが、姜維には目に見えるようだった。
 姜維は、腕を伸ばしての腰を抱き寄せた。
「おお?」
 背中に、どすんと固い感触が当たる。姜維の胸当てだろう。綿甲なので痛くはなかった。
 見上げる姜維の顔が、少し強張って見える。
 その強張りに威圧されて、は何も言う気力がなくなった。
 趙雲のように背中から優しく包み込むようでもなく、馬超のように力強く抱き締めてくるのでもなく、生真面目にただ添えられた手は、姜維の性格を指し示しているようだ。
 それにしても、蜀は貧乏だというのに、皆やたらめったら体格がいい。馬超や姜維など、他所の国から来た者だけでなく、居並ぶ武将、文官、誰にしても皆、よっぽどいいものを食っているとしか思えない。
 建物の荘厳さといいこの血色のよさといい、が知っている三国志の知識とは、かなりかけ離れているのかもしれない。そもそも、姜維が関羽や張飛、馬超と並んでいるのが既におかしいのだ。
 まあいいや、でも、敵国エンディングとかじゃないといいなぁ。
 未だにゲームだ、という意識が付き纏っている。
 の焦りは、案外こんなところから発しているのかもしれなかった。

 姜維の案内で、屋敷の中を一通り回る。趙雲や馬超の屋敷とは比べるべくもないが、諸葛亮の別宅もなかなか広い。家人は通いの者しかいないということで、今は誰もいなかった。
「室は、こちらお使い下さい。食事は、丞相からこちらを、と」
 姜維がぶら下げていた包みを解くと、中から銀の丸いドーム状のものが現れ、それを退けるとささやかながら心尽くしの料理が盆いっぱいに載っていた。
 そう言えば、お腹がすいた。
 姜維が湯を沸かすというので、も後に続いた。
 外まで出て行くので如何したのかと見ていると、火のついた薪を手にすぐに戻ってきた。どうやら、隣家に火を借りに行ったらしい。
 まず家の中の灯り取りに火をつけてから、手際よく竈に薪をくべ、水の入った鉄瓶を乗せる。姜維が火吹き竹でふうふうと吹くと、火はあっという間に強くなり、鉄瓶が震えてちきちきと鳴った。
「上手ですなぁ」
 何の気なくが呟くと、姜維は頬を染めて俯き、火に向き直った。
 こういうことも、当たり前に出来なくてはいけない。姜維の手つきややり方を、は一生懸命に覚えようとした。姜維は居心地悪そうだったが、は敢えて気にしないようにした。
 茶葉がないので、白湯で申し訳ないと姜維が頭を下げた。
「いやいやそんな、食事の用意をしていただけただけでもう」
 は手を振って応える。それより、姜維が湯飲みを二つ持ち出したのが目に入った。
 おや。
 何となく不思議に思ったが、姜維は器用に鉄瓶と湯飲みを手に持ち、先程の部屋に戻っていく。も慌てて後を追う。
 ふと銀盆を覗くと、箸が二膳添えられている。料理の量から言っても予備というわけではなく、と姜維の二人分と言うことらしかった。
 あれ。
 何となく疑問に思いながら、とりあえず差し向かいに腰掛け、奇妙な食事が始まった。
 姜維が湯飲みに白湯を入れようとするのを、がこれぐらいはやらせてくれと取り上げた。姜維もまた、不思議そうな顔をしている。
 いただきますと手を合わせると、姜維もを真似て手を合わせた。
 食事は冷めていても美味かったが、会話がほとんどない。
 何か話すことはないかと思うのだが、何も思いつかずには食事を掻き込んだ。
「……あの」
 姜維が突然、控えめに切り出してきた。
「これは、なかなかいけます」
 何かの肉を素揚げにしたのに、たれをかけたものを指しながら、あまり美味くもなさそうに言う。
「あぁ、それ美味しいですよね。何の肉かな」
「さぁ……豚……ではないかと……」
「あ、豚。なるほど、豚ですよね」
 会話が途切れた。
 ぷ。
 どちらともなく吹き出してしまった。
 しばらく顔を見合わせて、くすくすと笑いあう。
「変! 変ですよねえ、もう」
「……変ですね」
 姜維は、ようやく緊張が解れたように口元に笑みを浮かべた。そうしていると、可愛い系のアイドルのようにも見える。ただ、知的な目元の落ち着きが、姜維をお軽く見せはしなかった。
殿」
 姜維が、再び控えめに切り出した。
殿は、何故私のような年下の者に、そのような丁寧な物言いをなさるのです?」
 え、とは言葉に詰まった。
「えー……」
 理由を考えたが、特にない。強いて言うなら、にとっては皆『格上』の存在だというだけだ。
「ですが、馬将軍や趙将軍には、対等の物言いをなさっているようですが」
 馬超や趙雲に対等の口を聞くが、姜維には丁寧な言葉遣い(多少おかしくはあったが)をしてくる。諸葛亮ならいざ知らず、新参者の姜維には面映いばかりで、どうにも居心地が悪い。
「えー……でも、子龍はうちに居候してた頃の名残で……今更だし。孟起は、馬鹿なんですもん」
 ば、と言いかけた姜維が、あんぐりと口を開けた。
「伯約殿は、お幾つでしたっけ」
「十九になりました……殿は」
「女に年聞いちゃいけません」
 すらりと答えても良かったのだが、何となくはぐらかした。
 敬語は改まらなかったが、なんとなく打ち解けた気がする。
 ご馳走様で再び手を合わすと、姜維も慌ててそれに習う。不思議そうな顔をしていた。こちらでは、知られていない風習なのかもしれない。仏教は、まだあんまり浸透してないのだろうか。
「では、私は外に居りますので」
 姜維は立ち上がると、卓の横に掛けていた槍を手に立ち上がった。
「……何ですと?」
 何でまた外に、と問うと、やはり不思議そうな顔をして見返す。
殿の警護を申し付けられておりますので……明日には、きちんと警護の者達に塀の外を守らせます故、今宵は、未熟ながら私が」
 どういうことだ。
「い、いらないですよ、何を言ってんですか、忙しいのに」
 構わずに帰って下さいと言うと、姜維は困ったように眉を寄せた。
「ですが、私も丞相のご命令ですので」
 二人分の食事は、どうやらこの為で、姜維も納得尽くなのだ。知らないのはだけだったらしい。
 諸葛亮の、それでは無碍にするわけにもいかない。姜維の様子だと、徹夜する気満々のようだ。
「じゃあ、私が先に起きてるから、私が寝る時に交代してもらって……」
「……殿、警護の意味をお分かりになってらっしゃいますか」
 ええと。
 は唸り声をあげた。
 腕組みして頭を悩ませている。どうも本気で悩んでいるらしい。
 変わった人だ。姜維はどうにも理解できずに首を傾げた。

 結局、は室に入らず、庭に面した廊下で上掛けを体に巻きつけ、眠りについた。
 起きていると駄々をこねていたのだが、疲労が溜まっていたのか、姜維がしばらく空に在る月を見上げている間に寝付いてしまっていたのだ。
 そうして眠っている姿を見ていると、昨日気を失って倒れていた姿と重なってしまう。
 姜維は意識して顔を逸らした。
 死への恐怖から失禁して倒れたの手首に、縄目で擦られ赤くなったあざがくっきりと浮いていた。
 その、倒錯じみた媚態。決してのせいではないと分かっていながら、姜維は雄の本能を押さえることが出来なかった。
 昨晩、姜維は自室に戻り、の姿を瞼の裏に思い浮かべて熱を放出した。
 手の平から零れ落ちるほどの大量の熱の残滓に、姜維は戸惑いと戦慄を感じて我知らず震えた。
 のことを想っていたというわけではない。
 欲望の捌け口、僅かな時間とは言え、ただそれだけの存在としてを脳裏で穢した。
―――孔明様、やっぱりご存知だったんだなぁと思って―――
 もしの言うとおりならば、今宵、姜維に与えられた任は罰なのだろうか。
 修行と言うなら、これほど厳しい修行はございませぬな、丞相。
 ちらりとに目を遣って、固く瞼を閉じる。一度穢した女の姿は、妄想を伴って姜維を責めた。
 姜維が唇を噛み締めたその時だ。
「……っ、ぅ……」
 の唇が激しく痙攣し、奥歯ががちがちと鳴り始めた。
 様子がおかしい。
 一瞬躊躇したが、の元に駆け寄り、遠慮がちにその肩を揺すってみた。
「……殿……殿?」
 がちがちという音は更に激しく大きく鳴り響いた。歯が欠けてしまうのではないのかと思うほどだ。
殿!」
 いよいよ尋常ではない様に、姜維の額に汗が浮く。
「ぅ、あぁああぁっっっ!?」
 突然悲鳴を上げて仰け反るに、姜維も心底脅かされた。
 脂汗に塗れ、息を弾ませて怯えるの目に、姜維の昴龍顎閃の刃先がきらめいて映る。
「きゃあああああっ!」
 姜維を突き飛ばし、その勢いでも転がった。
「ぅ、あ……あ……?」
 体を小さくして、がたがたと震えていたの目に、徐々に正気が戻る。
「あ……え……伯約殿……」
 それでもまだ歯の根が合わず、カチカチと小さな音がしている。
「どう……なされたのです……」
 酷く怯えているに、姜維は恐る恐る近付く。の肩が撥ねた。
 姜維はようやく理解した。
 は刃が怖いのだ。恐らく、殺される寸前の記憶を夢に見ていたのだろう。
 姜維は、昴龍顎閃を置き、に近付いた。そっと、汗で額に張り付いた髪を払う。
「大丈夫……もう、大丈夫ですから」
 如何したものかと悩み、の体を緩く抱き締めた。
「……ご……ごめ……なさ……私……何で……」
 姜維は、諸葛亮の真の意図を知った。だが、今宵はともかく、明日からは如何するというのだ。明日からは姜維も忙しくなる。趙雲も馬超も、蜀の人間は皆巻き込まれる予定なのだ。
 以外は。
 未だ震えているを抱き締めながら、姜維は良い手立てを思いつくことも出来ず、困惑した。

 夜はまだ長く、夜明けはひたすら遠いのだ。今夜がそうならば、明日からはなお。
 震えるの眦から涙が零れた。姜維はただ、自分の無力を呪った。

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