最後の最後でどんでん返し。
世界のルールは皮肉屋が作っている。
が目を覚ました時、朝の清い透き通った光が部屋の中に差し込んでいた。
腰の辺りがだるく、起き上がるのが面倒だった。まだ眠かったし、もう一眠りしたい。
だが、孫策の見送りに行くと決めたのだ。起きなくては。
起き上がると、足の間に滑る感触がある。
「あ」
突然、昨夜の記憶が蘇った。
周りを見回すが、孫策の姿は既にない。
だるいはずだ、と腰を抑えて、自分が裸のまま眠っていたことにようやく気がついた。
他に誰もいなかったが、顔を赤らめてパジャマを拾い上げる。袖を通すと、ようやく一心地ついた。
牀から降りると、腿の奥から何かが滑り落ちてくる。
孫策の残滓だ、とすぐに気がついた。
したんだな、と思うと、頬が熱くなった。すぐさま趙雲や馬超のことを思い出し、落ち込んだ。春花の言うとおり、あまりに自覚がない。
だが、相手は孫策であり、趙雲であり、馬超なのだ。
自分が抱かれている相手は、自分にとっては過去の人であり、有り得ない相手なのだ。
いやいや、言い訳はよそうぜアニキ。
ハンドタオルで腿の奥を拭う。ぬるぬるとした半透明な液体がこびりついていた。汚いとは思わなかったが、こんなものが子種になるのかと思うと不思議な気がする。
後で洗おうと牀の隅に隠し、戸を開けて春花を呼んだ。
体を清め、文官の衣装に袖を通す。昨日城に上がった時も、まだ正式には文官ではないからと遠慮したのだが、今日は孫策との別れの日だ。
蜀の人間になろう。蜀の人間になって、呉の孫策と別れるのだ。
そうして初めて、孫策と本当に別れられる気がした。
が文官の衣装を纏っているのを見て、春花が感激して辺りを跳ね回る。
「髪、髪を結いましょうさま!」
春花はを椅子に座らせると、自分は何処からか台を持ってきて、器用にの髪を結い上げた。ちょっと待ってて下さい、と叫ぶと、何処かへ飛び出して行く。
呉の一団がいつ出立するか分からないので、できれば早めに出たい。
春花がなかなか帰ってこないので、は少し焦れた。
「お待たせいたしました!」
駆け戻ってきた春花の手には、艶やかな緑の細紐に白を中心とした花が美しく纏め上げられていた。
春花は手早くの髪にその花を飾りつけ、を立たせたり屈ませたりして出来映えを確認した。
満足そうに微笑む春花に、は気恥ずかしそうに俯いた。こんな飾りはついぞつけたことがない。
「……似合うかなぁ……」
「お似合いです!」
大丈夫、とてもとてもお綺麗です、とまくし立てられ、却って信じられない。それでも、春花があんまり綺麗に出来たので、もう表に出ていただきたくないなどと言い出したので、慌てて屋敷を飛び出した。
表門にいた家人に、馬の準備をお願いしているところに、姜維がやってきた。
の出で立ちを見て、大層驚いている。
馬から下りて、改めての姿にまじまじと目を見張る姜維に、は恥ずかしくなって身を縮こまらせた。
「う、やっぱ、何か変かな」
うろたえるに、今度は姜維が慌てる。
「あ、いえ、文官の衣装に袖を通されているのは、初めて拝見しましたので……失礼しました」
よくお似合いですよ、と例の清冽な笑顔を浮かべる。
途端、逆にもっと恥ずかしくなってきた。
「あ、あの、伯約殿は、どうしてここに?」
姜維も動揺していたらしく、珍しく『そうでした』などと言って改めて姿勢を正した。
「丞相から、呉の使節団のお見送りに殿をお連れしろと……準備を整えるのにお時間が
かかると思ったのですが、もうご用意が済んでいるとは」
時間が余ってしまったようだ。
それならお茶でも、と姜維を誘うが、姜維はを馬上に誘った。
「よろしければ、私にお付き合い下さいませんか」
連れて行きたい場所があると言う。に否やはなかった。
姜維の前、という位置は変わらないが、は今日は横座りに座らされている。髪に挿した花が、姜維の顔に当たってしまうのだ。
お陰で姜維の顔が近い。落ちないように、姜維がしっかりの腰を抱えているので、自然姜維の肩にもたれるような形になる。
ちょっと奥さん、カップルみたいですよ……。
さまよわせていた視線をふと上げると、姜維の頬が赤く染まっているのが見えた。姜維がちらりとこちらを見て、また恥ずかしそうに前方に戻した。
姜維も、恥ずかしいのか。
天邪鬼が発動して、は少し冷静を取り戻した。力を抜いて姜維にもたれると、姜維が腰に回した手からも力が抜ける。
やっぱり。
無理に間を保とうとしていたので、姜維も支えるのが大変だったようだ。
甘える、というのとはまた違うのだろうが、時には肩の力を抜いてあるがままを受け入れることも大切なのかもしれない。
何ともならない時は何ともならないのだ。ただ流される方がいいこともある。
中出しはマズイけどナ!
何時如何なる時もツッコミは忘れない。独自の、精神バランスを上手に保つ秘訣だった。
馬は、山道を分け入っていく。蜀は山間部にあるので、城の門を抜ければたいがい山道だ。何処に行くのか見当もつかない。とは言え、それほど時間があるとも思えないので、遠くではないだろう。
の予想通り、突然視界が開けたところで、姜維は馬を止めた。
「……うわ」
果てなく広がる空と、雄大な大地。山が幾重にも連なり、遠くへ行くほど蒼く霞む。下の方には、所々に薄く白い霧がかかっているのが見え、ゆっくりと流れていった。
「すごい、綺麗」
ぽつりと漏れた言葉は、短いが故に真実だった。
言葉を尽くしても、この景色を人に伝えることは出来まい。
「これが、蜀です」
姜維が、まるで景色に威圧されて声を出すことが躊躇われるように、小さく囁いた。
「覚えていて下さい、これが、蜀です。我らの国です」
これが、蜀。我らの国。
口の中で繰り返す。
これが蜀。私達の国。これが蜀。
どきどきした。
胸が高鳴る。
「私、この国、大好き……」
姜維が、趙雲が、馬超がいる国だ。
「私、頑張る。蜀のために、何か……出来ないかもしれないけど……でも、何かできるように、頑張る……ちょっとでも……少しでも……」
うわ言のように、熱っぽく話し続けるに、姜維は微笑んだ。
顔が近い。
自然に、口付けた。
触れるだけで、じんわりと灯が点るような温かさがあった。
「綺麗です」
ね、綺麗だよね、と笑いながら答えると、姜維が微笑んでの体を抱き寄せた。
「……先程……申し上げたかったのです。とてもお似合いです。とても……綺麗です。貴女が……」
とても、好きです。
どきどきした。
姜維が馬を駆けさせる。時間より、やや遅れてしまった。
姜維の手を借りて馬から下りると、馬超が不機嫌そうにやってきた。二人で馬に乗っているのを見ていたのだろう。険しい視線で、と姜維を交互に見ると、無言での手を取り馬岱のところに引きずっていく。
残された姜維は、小首を傾げて二人を見送る。口元に淋しげな笑みが浮かんだが、すぐに打ち消して持ち場へと走る。
趙雲は、少し離れたところでそれらを見ていた。
にも、困ったものだ。苦く笑い、将の顔に戻る。
ようやく呉の使節が帰ってくれる、と気が抜けがちだ。魏の謀略がないとも限らない。まだまだ気は抜けなかった。
馬岱がを誉めそやすので、馬超はますますむっとして口をへの字に曲げた。
あまりに不機嫌なので、が恐る恐る手を伸ばすと、馬超は視線を明後日の方へ向けてしまった。
「従兄上は、照れていらっしゃるんですよ。気になさらないで下さい」
馬岱が口を出すので、馬超は更に仏頂面になった。
本当は、諸葛亮のところに行かねばならない。だが、不機嫌な馬超を置いていくのも躊躇われる。
「後で、また来るね」
「来んでいい、姜維とでも仲良くしてろ」
憎まれ口まで叩いてくる。
「……じゃあ、もういいよ」
もむっとして、さっさと背を向ける。今度は馬超が慌て出した。
「……」
「後で来るからね!」
お前の言うことなんか聞くかー、と舌まで出して駆け去って行く。
後には、呆然とした馬超が残された。
「……幾つなんだ、あいつは」
「お若くて、宜しいではないですか」
お嫌なら私が、と馬岱が言いだしたので、馬超の機嫌は急降下していった。
は桟橋のそばを、人ごみを掻き分けながら諸葛亮を探していた。こちらの方にいると聞いてきたのだが、出航前の喧騒の中では、なかなか見つけられない。
不意に、人の波が途切れた。
空いたスペースの中央に、孫策が立っている。
姿形が変わったわけでもないのに、人に付き従われた孫策は、呉の嫡男として堂々とした威厳を放っていた。
その孫策が、こちらをじっと見ている。
昨日の今日で、の中には気恥ずかしさが湧き上がるのだが、孫策には照れた様子もない。微笑を浮かべ、優しげな目でを見ている。
孫策がゆっくりとこちらに歩み寄って来て、一瞬逃げ出したくなって辺りを見回すが、結局一歩も動けないままだった。目の前に孫策が立ち、じっと見下ろしている。
「……いつもと、違うカッコだな」
にっこり笑うその顔が、いつもの笑顔と何処か違う。呉の孫策に戻ったのだ。白風ではなくなったのだ。
自然に、拱手の礼をしていた。
「……やっぱ、一緒に行く気には……なってねぇよな」
黙って頷く。
「そっか……」
力のない声だった。の胸が痛むような、小さな声だった。
「じゃあ、先に行って待ってるぜ」
顔を上げ、にっと笑って寄越す。ぎこちないと思うのは、気のせいだろうか。
早く来いよな、と言い捨てて、孫策はくるりと背を向けた。
行くわけがない。
はここで、蜀で生きていくと決めたのだ。
孫策の背が小さくなっていき、人ごみに紛れて見えなくなった。
最後まで孫策を見送って、もまた背を向けた。
これでお別れだ。
何時までも元気で。どうか幸せに。
そう思った。
この時は。
「……何ですと?」
ようやく諸葛亮を見つけ、拱手の礼を取った途端、はとんでもない話を聞かされてしまった。
「ですから」
諸葛亮は優雅に白扇を煽ぎながら、取り澄ました顔で同じ事を繰り返した。
「殿が嫁取りの挨拶に向かう時に、随行して下さるようにと申し上げました」
それは、つまり、
「ええ、呉に行っていただくと言うことです」
まだ殿には荷が重いかと思ったのですが、何せ孫策殿と尚香殿のお二人からのたっての願いとあっては、と諸葛亮はわざとらしい溜息を吐いた。
「そ、孫策……様も、知っていたということ……ですか?」
何時だ。何時知った。それが問題だ。
「昨日、昼頃にはお伝えしておきましたが」
大層喜んでおられました。貴女にも早くお伝えせねばと思っていたのですが、如何せん何かと忙しく、遅くなったことをお許し下さい。
諸葛亮の言葉に、のこめかみに次第に血管が浮き上がる。諸葛亮の忙しさは端から先刻承知の上だ。報告が遅くなっても、それはしょうがない。
問題は、諸葛亮ではなく孫策の方だ。
そりゃ、お喜びになったかもしれませんね、ええ。
そんなこととも知らずに、まんまとヤられちまった訳ですね、ワタクシは。
「出立前に、孫策殿にご挨拶しておくと良いでしょう。後程、殿と尚香殿にも挨拶を」
「……孫策……様、には、先程ご挨拶……しましたが」
様、の言葉が喉に引っ掛かる。あの野郎、と腸がぐつぐつと音を立てて煮えくり返っていた。
諸葛亮が、じっとの顔を覗き込む。
「……言い足りないこともあるしょう、もう一度ご挨拶に行ってらっしゃい」
せっかくの諸葛亮の心遣いだったが、会いに行ったものか会わずに済ませたものか、果たしてどちらがいいものなのか分からない。
まんまと騙されて、盛り上がるだけ盛り上がってしまったのはの迂闊と言うより他ない。激しい自責の念がの脳内で渦を巻き、周りに負のオーラを放っていた。
立ち竦んだまま、う、う、と苦悶の声を漏らすの背後に、能天気にしがみつく馬鹿が現れる。
「よっ、、出立の日、何時になるって?」
身一つでかまわねぇから早く来いだの、やっぱり面倒だから一緒に行くかだの、好き勝手に浮かれている。
誰あろう、孫策だった。あまりの間の悪さに、諸葛亮も眉間を押さえる。
の肩がぶるぶると震え、何やら呟いているのが孫策の耳に入った。
「あん?」
口元に耳を寄せると、が再び口を開いた。
「……お前が孫家の長男でなかったら……六回ぐらいぶっ飛ばしてやるのに……!」
ぼそぼそと呟く声には殺気が満ちていたが、孫策は堪えきれずにぶはっと吹き出した。
「な、何だそれ、何で六回なんだよ、すげー面白ぇー!」
げらげら笑い、遂には腹を抱えてうずくまってしまった。呼吸がままならないらしく、ひぃひぃ言っている。
の視線は異様に険しい。上目遣いに諸葛亮をちらと見ると、諸葛亮は『いけません』とばかりに首を横に振った。
蹴りたい、この馬鹿たれを今すぐ蹴りたいんだよぅ!
諸葛亮が再び首を振り、『いけません』とを戒める。
孫策はまだ笑っている。
「何してるのかしら」
川に迫り出すように設えられた高台の上で、尚香は劉備と共に騒ぎを見物していた。
数歩後ろに下がった位置にいる趙雲には見えないが、想像は容易かった。
にも、困ったものだ。
苦笑した趙雲の顔が、柔らかな笑みに変わり、傍らに立つ女官たちをうっとりとさせた。
孫策ら呉の一行の出立まで、今少しの時があった。
騒ぎは、まだ続きそうである。
終