川面を渡る風は、あくまで爽やかだ。
 幅広の大河は波の少ない海を行くが如しで、変わることのない景色の連続にはっきり言えば飽きた。
 腰の痛みも熱っぽい飢餓感も消え失せ、体が正常に戻ると余裕が出てきた。最初は物珍しかった船旅も大事無く進み、大事無く進むのに未だ呉に着かない。川を下っているのにこれだけ時間が掛かると言うなら、帰りはどれだけ時間が掛かるのだろう。
 早くもホームシックに掛かりつつあるだった。
 甲板でぼんやりと水面を見下ろしていたの肩を叩く者がある。
 孫尚香だった。
「暇?」
 わくわく、と如何にも何かを期待している顔に、は苦笑を浮かべる。
「……昨日の続き、ですよね?」
「そう!」
 にっこりと笑って頷くと、尚香はの手を引き割り当てられた船室に向かう。お茶の用意を言いつけながら歩く尚香の足取りは軽い。
 よっぽど楽しみなのだろう。
 この世界、意外なことに(と言っていいかどうか)娯楽が少ない。身分が高く、お金に困っていないような連中は雑技団を抱えていたりするのだが、蜀は質実剛健を旨としているお国柄だけに……率直に言うと金がないからだが……そんなものを雇っている余裕はない。
 呉は豊かな国と聞くから、尚香には退屈なのではないか。
 もそうだが、劉備も同じ心配をしたらしく、もし時間が空くようなら尚香の話し相手になってくれるようにと頼まれていた。自身は暇と言うわけではなかったが、劉備の依頼とあってはむげにすることも出来ない。
 自分が何の役に立てるかと心配だったが、杞憂に終わった。
 簡素な卓に差し向かいで腰掛け、お茶が運ばれてくるのと同時に、尚香は目をきらきらさせて身を乗り出した。
「ね、続き!」
「ええと、何処までお話しましたっけ……大きな鳥が現れたってところでしたっけ?」
 尚香はこくこくと頷くと、胸に手を当てて押し黙る。
 無言の催促に、は小さく笑いつつ、こほんと咳払いして真顔に戻った。
「『……シンドバッドが振り返ると、そこには巨大な鳥がシンドバッドに向けて翼を広げ、まるで威嚇するかのように高らかに一声鳴きました……』」

 の知っている様々な物語や神話は、この世界の人たちには『娯楽』に値するようだ。話を聞かせるだけで、目を輝かせて聞き入ってくる。
 例え作り話であってもそれは変わらない。
 これだけ熱心に聞いてくれると、こっちも話し甲斐があるなぁ。
 が知っている話は、ここではだけが知っている。それは、にとって『自分の価値』に繋がる。単純に嬉しかった。
「ずるいではないか、尚香!」
 突然、劉備が飛び込んできた。驚きの余り、が飛び跳ねる。
「話を聞くときは、共にとあれほど申したではないか!」
「えー! だって、劉備様と一緒に聞いてると、何時までも続きが聞けないんだもの!」
 夫婦喧嘩に突入する。
 は置いてけぼりを食らい、二人の間でおろおろとするばかりだ。
 どちらを止めるべきか、と頭を悩ませていると、甲板の方が騒がしくなった。
「船、船がこちらに向かってきています!」
 呉の旗印を着けていると続き、三人は互いに顔を見合わせ、慌てて甲板に出る。
 遠見の者がどんな視力をしているのか分からないが、から見た時は小さな黒い点にしか見えなかった。それがみるみるうちに近付き、呉の一文字を染め上げた赤い旗が見える頃には、船の先端で仁王立ちする、既に懐かしいとさえ思える男の姿が視認できた。
「孫策。様」
 取ってつけたように様付けをし、これから気をつけなければ、とは意を新たにした。尚香はともかく、他の家臣の手前、呼び捨てにするわけにはいかない。
 早く慣れなきゃ、と思っているうちに、船が間近に近付いてきた。後10メートルくらい、という所で孫策がぴょんと跳ねた。
 げ。
 が驚き固まっている前で、孫策は達の乗る船の縁に、ひらりと舞い降りた。
 ……いや、そんなこったろーとは思ったんですが。
 身体能力が全然違うのだ。の常識と照らし合わせる方が間違っている。
 孫策は、甲板をぐるりと見回しを見つけると、満面の笑みを浮かべて飛び掛る。
 げ。
 怯んで固まっているの体が、孫策が飛び降りる寸前に消失する。
「お」
 とん、と軽く降りた孫策が、不機嫌そうに顔を上げる。
 を胸に抱きとめた趙雲が、やはり不機嫌そうに孫策を睨みつける。
「……何でお前がいるんだよ」
「殿の護衛を申し付かりました故」
 冷たい空気が流れ、は再びあわあわと慌て始める。
 趙雲の腕から逃れようとするのだが、意外にも趙雲は手に力を込めるばかりでを離してはくれない。いつもであれば、薄く笑ってすぐさま解放してくれるので、こんな態度は珍しいと言える。
「呉の嫡男が直々にお出迎えとは、かたじけのうございます」
「おう、有難ぇってんならを返せ」
 ひぃ。
 言葉に棘がある。常の趙雲からは考えられない、挑発じみた態度と好戦的な物言いに、は背筋が凍りっぱなしだ。孫策は、挑発も挑戦も大喜びで受けるタイプだ。何も初っ端からわざわざ争わなくてもいいではないか。
 冷戦は続く。
「嫌です」
「言うようになったじゃねぇか」
「黙っていても、良いことなどないということが分かりました故」
 沈黙が落ちた。
 殴り合いになるんじゃないか。
 はおろおろと二人を見比べる。趙雲と孫策は無言のまま見つめあい、そして……。
「くっ」
「……ふ」
 笑った。
 趙雲は声もなく、孫策はげらげらと笑っている。
 何なんだ、この青春熱血ドラマは。
 唖然として二人を見ているに、尚香は如何にも気の毒そうに目を向ける。
 ここしばらくと色々な話をしている尚香には、がやたらと小難しく考え、思いつめる傾向があることが分かっていた。もう少し単純に物を考えればいいのに、と思ったことも多々ある。けれど、それがのいい所でもありの誇りとなっている感もあるので、どう諭したものか考えていた。
 呉の連中は、荒っぽいわよ。
 が酷く傷つかなければいいけれど、と、尚香はこっそり溜息をついた。
 孫策の船は反転し、主のないままたち蜀の一陣と合流して呉に向かう。
 しばらくして陸地が見えてきた。
「呉だ」
 誰彼ともなく甲板に立ち、遥か遠くに見えてきた港に目を向ける。
 はしっかりと仕事をしなければと決意を新たにし、孫策はそんなを悪戯っぽく見つめた。
 趙雲は、少し離れた場所から二人の姿を見つめ、何か良からぬことがあるのでは、と埒もない不安に駆られた。
 そして、それは事実となる。

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