接岸し、船が軽く揺れる。
「おぉっと」
 倒れないように足を踏ん張ると、背後から手が伸びてきて後ろに倒された。
 どすん。
 後頭部に軽い衝撃があり、頭上から満面の笑みを浮かべた孫策が覗き込んでいた。
 子供のような無邪気な笑顔に、少し引け目を感じる。
 何でこんなに可愛く笑っちゃうかな、この男は。
 おりゃあ、と掛け声をかけて、孫策の腕を振り解く。予想外の行動だったか、思ったより呆気なく振り解けた。
 くるりとターンをして孫策に向き直ると、やはりきょとんとしていた。
「孫策様、どうも有難うございました。私は仕事がありますので、これで!」
 わざと大きな声を出して、思い切り他人行儀にすると、孫策はむっとしたのか顔を顰めた。すかさず、眼前で手を合わせ『ごめんねっ』と囁いた。
 孫策に悪気がないのは分かるのだが、ないからいいかと言えばそんなことはない。には仕事があるのだ。
 呆気に取られる孫策を尻目に、はここでの直属の上司になる馬良の元に走る。
 何をすればいいのか指示を仰ぎ、とりあえず自分の荷を車に積むように言われた。下っ端とは言え文官、やることは多くてもまずは屋敷に着いてからだ。
 人に手伝ってもらいながら荷物を積み込むと、行列に並ぶ。嫁が孫家の娘とあって、嫁取りの行列は相当に長い。用意された馬も馬車もきらきらしく豪華な飾りが施されている。港には雅楽隊が並び、雅な音楽を奏でていた。
 ふと視線を感じて目を遣ると、年の頃15〜6の女の子が、をじっと見つめていた。大きくなったら相当な美人になるだろうな、と思われる女の子は、だがまだあどけなさを充分に残しており、美しいと言うよりは可愛いという方がしっくりしていた。
 目が合うと、女の子は大きな目を見開いて、ぷいっとそっぽを向いて駆け出した。
「おねーちゃん、だいじょーぶ! 勝ってる、勝ってるよ!」
 大声で喚き散らしながら走っていく。
 周囲の人間は、皆呆然と見送っている。
 誰だ、あの子は。
 そうして、ふっと周りを見渡すと、呉の人々がを見ながらひそひそと噂話をしている。蜀の人間を見ていたのかと思ったのだが、何か違う感じだ。
 どうも歓待しているという雰囲気ではない。嫌悪ともまた違う。どう言うのがしっくりくるかと言えば、拍子抜け、が最も近いような気がする。落胆だろうか。
 理由が定かでないので、首を傾げるしかない。
 呉に来るのは初めてだ。初めての土地でこうもじろじろと見られることになろうとは思わなかった。
 居心地悪く行列に並んでいると、背の高い男がぶらぶらとやって来た。を見て、近付いてくる。
 え、まさか私の所に来るのか、と首を傾げていると、本当に目の前で止まった。
「あんた、殿?」
 馴れ馴れしい口の聞き方に一瞬戸惑うが、はい、と頷くとふぅん、と返してきた。
「孫策殿の話とは、ちょっと違う感じだね」
 は?
 目を見開くと、の表情が可笑しかったのか、くすっと鼻で笑われた。
「あのさ……孫策殿がね、あんたのこと、『すっごく可愛くて美人で頭が良くて、中原一歌が上手い女』って江東中に言い触らしててさ。だから俺も、どんなヒトが来るんだろうって興味があってね」
 見に来たってわけ、と言うなり、今度は遠慮なくくすくすと笑い出した。
「いやぁ、あばたもえくぼって言うけど、ねぇ?」
 男の失礼な物言いも、の耳には入っていない。ぴきぴきとこめかみに血管が浮き上がり、笑顔は固まって口元がひくひくとひくついている。
ー」
 間の悪さでは一等賞と、この時の中で決定した。孫策だった。
「お前、歩いてくつもりかよ。俺が馬に乗せてやるから……凌統、お前何でここにいるんだ?」
 まだ笑っていた男は、にちらりと目をやってから、孫策に向き直って拱手の礼をした。
「いえね、孫策殿の大切なヒトってのを、是非拝んでおきたいと思いましてね」
 孫策は、おざなりにふぅんと相槌を打つと、もう興味はないと言わんばかりにに向き直った。
「な、、俺の馬に……」
 覗きこんだ顔を、がしっと掴まれる。間近いの顔は、最早笑顔を取り繕うのを止め、怒気を露にしていた。
「……何つった?」
「お?」
「人のこと、何つってたんだ、アンタは?」
 怒っているのに、口元は笑っているのが怖い。怖いが、孫策はの言葉遣いが、白風の時と同じような粗雑なものに戻ったのが嬉しくて、ついにっかりと笑ってしまった。それがいけない。
 ぶつん。
 孫策の笑顔は、の堪忍袋の緒をぶった切ってしまった。貼り付けていた笑顔さえ掻き消え、無表情に孫策を見返す。ふい、と踵を返すと、何処ぞへ向けてすたすたと歩み去ってしまった。
「……あらら」
 居合わせただけの凌統も、さすがに気まずくなって冷や汗を垂らす。
「怒らせちゃいましたかね」
 申し訳ないことをしちゃったかな、程度に反省してみせる。孫策も、一瞬真顔で渋い顔をしてみせるも、まぁだいじょーぶだろ、とあっさり立ち直った。
 行列が動き出し、孫策も凌統もそこから離れた。
 それほどたいしたことではない、と二人ともそう思っていた。

 行列は滞りなく進み、呉の主たる孫堅の構える広大な屋敷に迎え入れられた。
 何時の間にか列に戻ったも、粛々とした面持ちで門を潜る。背後の方で、ずぅん、と重い音がした。が思わず振り返ると、行列が中に入りきったと門扉が閉められているところだった。
 は後ろの方に並んでいたとは言え、荷を乗せた車などが続いていたから門からは結構離れていた。それであの音の大きさ、ということはよっぽど頑丈で硬い、重い扉なのだろう。
 何の為にそんなに頑丈な門なのか。
 理由は一つしか思い当たらない。
 外敵を防ぐためだ。
 戦をしている国なんだ、と、は些細なことで改めて実感させられた。

 ぴりぴりしている。
 とりあえず宛がわれた室に篭って、は荷物の整理をしているところだった。
 何も手につかない。苛立っているからだ。
 自分でもそれが分かって、は自分で自分の頬をばしばし叩いていた。
 熱を持って、表面がひりひりするようになっても何か落ち着かない。心臓が早い鼓動を打っている。
 一人になって緊張から解き放たれた途端、嫌なことを思い出してしまっていた。
 何となく、が本当になった。
 がっかりした視線は、評判倒れと落胆しているからだと知れた。
『孫策殿の話とは、ちょっと違う感じだね』
 男の声が蘇って、はぶんぶんと首を振った。だが、耳の奥で記憶は勝手に再生を始める。
『『すっごく可愛くて頭が良くて、中原一歌が上手い女』って』
『どんなヒトが来るんだろうって興味があって』
『あばたもえくぼって言うけど、ねぇ』
 じわっと涙が浮いた。
 孫策が勝手に言い触らして、呉の人が勝手に期待していただけだ。が応えてやる義理も義務もない。
 けれど。
 自分が綺麗だったら、本当に美人だったら、少しは言い返すこともできたのに。
 何も言えなかった。
 ぐいぐいと涙を拭うと、擦れた目元が熱くなってまた涙を誘う。
 ちょっとは自信がついたと思ったのに、何処に消え失せてしまったのだろう。
 望んで叶うなら、もう少し綺麗に生まれてきたかった。そんなのは、女の子だったら大なり小なり胸の内に密かに隠し持っている願望ではないだろうか。
 望んで叶うものではない、だったらわざわざ口にしてくれなくたっていいではないか。綺麗じゃないなんて、当の本人が一番良く分かっているのだから。
 深く息を吸い込んで、腹の底から息を吐く。だが、腹の中でぐだぐだと煮詰まっている感情はまったく静まってはくれなかった。
 は、荷物の整理を放り出して、脇にある牀の上によじ登った。文官の衣のままだったので、夜着に着替えなくてはならない。が、着替える気になれない。何もかもが面倒だった。
 何だよ、チクショウ。
 耳の奥から、また声が蘇る。
『おねーちゃん、だいじょーぶ! 勝ってる、勝ってるよ!』
 誰なんだろう。
 あの子くらい可愛ければ、世の中相当楽に生きていける気がする。加えて、まだ幼いといっていいほど若い。ちょうど此の世の全てが自分のためにあるような錯覚が出来る年頃だ。
 いいな、とは羨望の溜息を吐いた。
 ごろりと寝返りを打つ。疲れているのに、眠くならない。眠いのかもしれないが、意識が冴え冴えとして、また記憶が嫌な思い出ばかりを再生するものだから、涙がこみ上げてきてしまう。
 牀の上に起き上がり、また涙を拭いた。
 鼻水がだらだら出ている。顔が綺麗どころの話ではない。
 現代から持ち込んだ、貴重なポケットティッシュで鼻をかむ。ちん、と大きな音がして、鼻がすっきりした。気持ちも少し落ち着いて、はふはぁ、と息を吐き出した。
 いいもん、伯約は綺麗だって言ってくれるもん。孟起だって、好きな顔だって言ってくれたもんね。
 二人とも、遥か遠くの蜀にいると言うのがネックだが。
 趙雲はそばにいるけれど、劉備の警護で蜀にいるよりも気が抜けないはずだ。甘えることはできない。
 とて、仕事で来ているのだ。
 しっかりしなければ、と再度気合入れに頬を叩く。ばしっ、と大きな音がして、手の平と頬の皮膚がじぃんと痺れる。
 牀から降りて、荷物整理を再開させる。
 明日から、それこそ慣れぬ仕事でてんてこ舞いになるはずだ。私事は今の内に片付けておかないと。それくらいしておかないと、あんまり情けないではないか。
 その時、扉の外から呼びかける者がいた。
 王埜だった。
 蜀の同僚で、と最も年の近い……言ってしまえばと同じ下っ端の青年だ。それだけに気安い。
 扉を開くと、困ったようにを見下ろす。どうしたのかと聞くと、呉のお偉いさんがを呼べと言っているらしい。
 劉備たち一行の到着を祝う宴会は、お偉いさん達を歓待するものであって、たち下っ端までは対象に入っていない。それを呼べということは如何いうことなのか。
 孫策だな、とは溜息を吐いた。父親が主催の宴で、よくもまぁ我侭が言えるものだ。
「……これでいいかなぁ」
 宴用の華やかな衣装など持ち合わせていない。少し皺が寄っているが、仕方ない。それでも確認してしまうのは、やはり気が引けるからだ。
「もし行きたくないなら、断ってこようか」
 は、王埜の心遣いに感謝しながら断った。今日行かなければ明日になるだけだ。それに、王埜の立場も悪くなりかねない。
 と王埜は連れ立ちながら、晩飯は美味かったの船の揺れはこりごりだのと他愛のない話をした。
 蜀の人々は皆情が厚く親切だ。
 気の張らない言葉で、さり気なく を励ましてくれる。
 頑張ろ。
 途中の廊下で、気をもみながら待ちわびていた年かさの文官に拱手の礼を取る。王埜は気の毒そうに を見遣り、足を止めた。自分はここまで、ということらしい。先導する文官に続きながら、見送る王埜にこっそりと手を振り、 はしゃんと背を伸ばした。

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