分かってしまえば呆気ない。
周瑜の副官が黒幕で、埋伏の毒だった。
噂の張本人が動かないのも道理で、副官相手では下手に動けもせず、また副官の立場故に、相手もあまり身動きが取れずにいたのだ。
周瑜の名を出して真実味があったのは、周瑜の副官が出張ってきては『周瑜の代理だ』と名乗ったからで、先程の襲撃に加わっていたのは、どちらかと言うと譜代の家臣を重用しがちな孫家に不服を持っていた連中だったようだ。を連れ去るか殺すことによって、周瑜を陥れようという算段だったらしい。
周瑜の腕では、本気で挑んでも殺すことは叶わないかもしれない。暗殺しようにも隙がない。が、策に嵌めることによってその立場を危うくすれば、それは死に勝る効果が望めるのだ。
の存在は、実に美味しい、利用せずには居られないものだった。
ただ、欲を出したことがの命を思いがけず引き延ばさせた。とっとと殺してしまえば、計略の発動を防ぐことは出来なかったかもしれない。
唯才を掲げる曹操に、手土産にでもしたかったのだろうか。今となっては結論は出ない。李然は、やはり優秀な男で、殺さずに捕らえることは叶わなかったのだ。
周瑜も凌統も、またも泥だらけで酷い有様だった。周瑜に限って言えば、泥が返り血を誤魔化してくれていたので良かったかもしれない。
孫策の馬は何処かに逃げてしまったし、周瑜の馬は李然に殺されてしまっていた。
は捻挫を忘れて駆けたもので、更に酷く捻って腫れ上がっているという具合で、全身打撲で馬上も覚束ない。
周瑜は返り血がの装束を汚すのを嫌い、馬上に上がろうとはしないし、周瑜が騎乗しないのに地位も年も下の凌統がいけしゃあしゃあと馬上の人になるわけにも行かず、周瑜が馬を引き、凌統がをおぶって歩くというおかしな道行きになった。
誰もが黙りこくっている。
は疲れきっていたし、周瑜も数年の付き合いになる副官を斬って捨てたのだ。陽気な気分になれようもない。自然、凌統も無口になった。
突然、何処からともなく蹄の音が響き、凌統は新手かと身構える。周瑜もまた、古錠刀真打を抜いた。
「っ! 周瑜ー!」
白馬は、孫策を乗せていた。
「おお、無事だったか! 心配したぜー!」
こいつ、と馬を指して、だけが戻ってきたから、何かあったんじゃねぇかと思ってな、と孫策は不必要なほど明るく笑った。
凌統の前で馬を止めると、身軽く降りて、当たり前のようにを抱き上げる。
明るい笑顔が、途端に曇った。
「……凌統、お前何してたんだよ」
「俺のせいですか! 俺の!」
責任転嫁も甚だしい、少なくとも凌統のせいであるわけがなかった。
凌統の部下の機転で、近場の商人から馬を買い上げ走って移動していた凌統を乗せると、更に凌統の駿馬に乗って追いかけ買い上げた馬と交換した。その乗継がなければ、逃げられるか殺されるかしていてもおかしくなかったのだ。
周瑜とて、危ういところを飛び込んできた凌統の無双に助けられ、李然と一騎打ちに持ち込めたのだ。
労を労われこそすれ、お叱りを受けなければならない覚えは一向にない。
「まぁいいや。お前等、後から来い。俺とは、急ぐからよ」
意味不明の言を説明すらしないまま、孫策はを自分の馬に乗せて駆け去ってしまった。
愕然として遠くなる後ろ姿を見送る凌統に、周瑜は気の毒そうに目を向けた。
「……お前の功績は、私が認めている。私個人への叱責は免れまいが、お前には何の罪もない。恩賞がなくとも、私が何か見繕って代わりとするとしよう」
恩賞なんざ、端から目当てじゃありませんけどね、と凌統はぶすくれた。
「俺とでよろしければ、同乗していただけますか。俺の服なら、返り血もそうは目立たないでしょうし」
追っかけてやる、と息巻く凌統に、周瑜は苦笑して髪をかき上げた。
「乗れ、」
港に戻ると、甘寧が待ち構えていた。
孫策はを抱えたまま、甘寧の示す船にさっさと乗り込む。
「お気をつけて、大姐!」
「早く帰ってきてね、大姐!」
二喬が手を振るのを、意味も分からず振り返す。
「え、何?」
いいから、と甘寧は船に駆け上がると、覇江を高々と掲げた。
「いっくぜぇ、野郎ども! 血反吐はいても構わねぇ、死ぬ気で漕げよ!」
おおお、と低く唸る声が沸き上がる。
船は、岸を離れて遠ざかっていく。
遠くに、凌統と周瑜が二人乗りした馬が見えた。
「え、何……何?」
うろたえるに、孫策はにかっと笑いかけた。
「呂蒙がよ……お前を一度、蜀に帰してやれって親父に進言してよ。陸遜とか、諸葛瑾とかもな、一度帰してやるのが情と言うもんだとか言い出してよ。それで親父も折れたって、こういうわけだ!」
へ、とは間の抜けた声を上げた。
「呂蒙が、首をかけてもとか言いやがるし、陸遜は陸遜で、は約束を破る女じゃない、って言い出してな。諸葛瑾も、何であれば弟に約定を取り付けるからっつって。ま、一番は俺が保障するって言ったのがでかいんだけどな!」
脇で聞いていた甘寧が、何言ってやがる、孫権様が頭下げたのが決まりだったんじゃねぇかと暴露して、孫策と喧嘩になりかかる。
「まぁ、な、権も、それから権の後ろに控えてた周泰も、えれぇ迫力でよ。親父も、さすがに我がまま言えなくなったんだろうよ」
ざまぁみろ、と父親を詰る孫策だったが、何処か親愛の情が篭った眼差しで、遠くなる呉の岸辺を見ている。
「でも、早めに戻って来いよ? 太史慈が、お前に渡したいものがあるって言ってんだからな?」
が首を傾げる。何を、と問うが、孫策は笑って答えなかった。
船は、ぐんぐんと物凄い勢いで進む。
「今の内に、手当てしとけ」
孫策の言葉を受け、錦帆賊の中から男達が飛び出してくる。
袋の中から薬草や小瓶を取り出すと、手の平の上で混ぜての切り傷に塗りたくった。その間に、別の男が手際良くの捻挫の辺りに揉み潰した薬草を貼り付け、布で固定していく。
どんな効能があるのか、膿んだような熱を含んだ痛みが、徐々に引いていく。
「歌ってくれよ、姐さん!」
錦帆賊の男達が、わっと賑やかに沸き立つ。
甘寧が、少し気遣わしげに視線を向けるのを、は微笑みで応えた。
「よっし、歌え、!」
孫策の肩に担ぎ上げられ、悲鳴を上げるに船上の皆が笑う。
「歌ってくれ、姐さん!」
「楽しい歌! 何か、ぱっと盛り上がる歌!」
「歌ってくれ、姐さん! 何でもいいんだ、何か楽しい歌を!」
その分、俺達は船をかっ飛ばしてやる。蜀だってどこだって、赤兎馬よりも早く漕いでみせますぜ。
錦帆賊の男達は、そう言ってに歌を強請った。
赤兎馬よりとは、豪気だなぁとは笑った。
疲れていたし、傷だって痛いし、何よりまだ混乱していたけれど、は風切る船と、自分を慕ってくれる男達の優しげな眼差しがただ嬉しかった。
「じゃあ、歌おう」
どおおおおおおおおおおおおおおおおっ……!
歓声が沸く。どよめきとなって、空気を震わせた。
の明るい歌声が、艪を漕ぐ手の調子とぴったり重なる。船は、ぐんぐんと速さを増して進んだ。
蜀の船が見えてきた、と見張り台に立つ男が叫んだ。
「ああ?」
予定よりもずいぶん早い合流だ。それもそのはずで、蜀の船は何もないところで何故か停泊していたのだ。
向こうもこちらの船に気が付いたのか、甲板が騒がしくなっている。
「殿!」
姜維の声が、風に乗って届いた。
「伯約―――っ!」
が手を振ると、甲板にいた人々がこちら側に集まってくる。
中に、趙雲も居た。
船が近付き、顔の判別も付くようになると、孫策は徐に船縁に上った。を抱えたままだ。
まさか、と青褪める。嫌な予感が当たり、孫策はを抱えたまま、蜀の船に飛び移った。
転覆まではいかないが、孫策が勢い良く船縁に降り立ったことで、蜀の船はぐらりぐらりと大きく揺れた。
「……な、なんてことすんの、あんたは―――っ!」
の罵声も、孫策は気にしない。
「おら、いったんお前に返しておくぜ」
珍しくも目を丸くしたまま呆気にとられる趙雲の腕に、を預ける。
「さて、と」
孫策は、再び船縁に上った。
帰るのか、とは孫策の背を見つめた。孫堅と、相当遣り合ったのではないだろうか。自分を帰す為に。帰したくなかったろうに。
の胸が、痛んだ。
「甘寧―――っ!」
接舷するつもりだったのに、その必要を失い呆れ顔でいた甘寧が、あぁ、と顔を歪めて応える。
「親父によろしく言っといてくれ―――っ!」
じゃあなー、と手を振る孫策に、甘寧は今度こそ本気で呆れ返った。
それは蜀の面々も同じことで、厚かましくも居候する気満々の世継の笑顔を、ただ呆然として見つめるしか出来なかった。
「何してんだよ、ほら、早く船出せ」
不思議そうに催促する孫策に、怒鳴りつけてやろうと口を開きかけただったが、体がぐらりと揺れて気合が抜ける。
何だと顔を上げると、趙雲が大笑いしていた。
ここまでげらげら笑っている趙雲を、は初めて見るかもしれない。
ぽかんとしていると、釣られたように孫策が笑い、劉備が笑い、尚香が笑い春花が笑い馬良が笑い……皆が皆、大笑いし始めた。
もまた、趙雲に振り落とされないようにしがみ付き、笑い出した。
「……帰ろう、子龍、一緒に帰ろう!」
が蜀の方を指差す。
合図を受けたかのように、船はゆっくりと動き始めた。
「お頭ぁ、まぁたねぇーっ!」
が手を振ると、甘寧は苦笑いしながら手を振り返してきた。
「その馬鹿、蜀で預かっといてくれ! 何なら、返してくれなくてもいいぜーっ!」
甘寧の言葉に、姜維は、それだけは御免被りますと真顔で呟いた。
終