しがみ付くようにして、馬に乗っている。風景が、びゅんびゅんと音を立てて後ろに吹っ飛んでいく。
 馬の平均時速は何キロだったか。
 60くらいだったかな、とはぼんやりと考えた。
 風が頬を冷たく引っ掻いていく。暑いはずの気温は、風が何処かに持ち去ってしまったようだ。
 いつもなら、これほど激しく、早く揺られては、悲鳴の一つも上げるところなのだが、何故か今は
まったく恐怖を感じない。
 もっと早くてもいい。
 は、冷たく冷え切った拳を握りこんだ。皮で出来た手綱は、ごわごわしていて、生きていた時に生えていた体毛が刺さっているかのようにちくちくした。
 離したら、の体は後ろに持っていかれて、最悪死ぬかもしれない。いや、きっと死ぬだろう。これだけの速度から振り落とされて、満足に受身もとれない自分が五体満足でいられるとは思えなかった。
 でも、もっと早くてもいい。
 もう少しだけ。
 もう少しだけでいいから、お願いだから。
 何をしたいのか分からない。けれど、手綱を引いて馬の足を止める気にだけは、なれなかった。
 馬は、緩やかな坂を駆け上がる。潅木が徐々に背を高くして、何時しか景色は雑木林のように
なった。
 山を登っているのか、丘を登っているのか、単なる坂道なのか、既に判断は付かない。
 木と木の間から、船の白い帆が見えた。
 あれらに、皆が乗っているのだ。
 そう思うと、矢も盾もたまらない。
 身を反らし、体を高くしてもっと船を良く見ようとした。草むらが繁って、良く見えない。人が乗っていると判断が付く程度の遠さだ。
 だが、趙雲の姿なら見分けられるかもしれない。
 派手だし、緑を地とした蜀の中で、何故か青を基調としている彼だから。
 船に意識を向けすぎて、急なカーブに気がつけなかった。
 無茶な体勢を取っていたせいで、の体は呆気なく宙を舞った。
 ああ、早速やっちゃった。
 無茶をするなとか、確か言われた気がする。
 派手な音を立てて、の体は草むらに落ちた。幸い、夏の暑さが草の繁茂を助け、の体は奇跡的に多少の打撲と擦り傷だけで済んだ。
 それでも、落馬の衝撃に息が詰まり、急勾配を転がり落ちる自分の体を留めることはできなかった。
 湿った泥と、よく伸びた草が網の役目を果たし、の体はしばらくして止まった。
 身を起こすと、崖っぷちぎりぎりだった。後1、2メートル滑っていたら、崖から落ちていただろう。
 己の幸運に浸っている余裕は、にはなかった。
 船は進んでいるのだ。しかも、異様な速さで。
 痛みを堪えて立ち上がり、手近な木の幹にしがみ付く。
 前に捻った足首を、また捻ってしまったらしい。痛みが、首筋の辺りを刺すかのように響いた。
 それで、船は。
 首を巡らすと、やはり痛みが走る。
 いいから、船は。
 船は、こちらに向かってくるところだった。
 はほっと安堵し、少しでも船に近付こうと前に進んだ。足が痛い。
 そんなことは、どうでもいいから。
 趙雲の姿を探す。船室に入っているなどとは、思ってもみない。
 居るはずだ、とただ目を細める。
 見えるはずだ。分かるはずだ。その為に駆けてきたのだから。
 一隻目の船には、それらしき影は見えない。
 見損なったのかと心臓が痛むが、二隻目が視界に入ってくる。
 そちらかもしれない。目を凝らす。
 居ない。
 泣きたくなって、胸を押さえる。
 居るはずだ。乗っていなければおかしいのだから。船を間違えたろうか。いや、あんなに真新しい船が、三隻も連なって航行するはずがない。あれは、蜀へ帰る船だ。
 三隻目。
 ああ。
 の目から涙が零れた。
 やっぱり、見損なうはずがない。
 船の先端に、趙雲が槍を手に立っている。
 戦の時も、きっとこんな風に胸を張って、周囲の尊敬の念を一身に集めているに違いない。
 かっこいいなぁ、と見惚れた。風を切って立つ姿は、川面の光の反射を受けて、眩いほどだった。豪竜胆の赤い房に、趙雲の白と青の鎧が良く映える。
 の足が、趙雲に向けて一歩を踏み出す。また一歩。更に一歩。
 草むらの中に足を踏み入れると、大地の感触が消えた。
 前のめりに落ちる体が、突然落下を止めた。
「……何を、しているんだお前は!」
 苛立ちを含んだ声は、周瑜のものだった。
 何、と聞かれても、どう、とも答えられない。
 ただ、船を、見送りたかったのだと、思う、けれど。
「子龍!」
 船に向け、自分でも驚く程の大きな声が出た。
「子龍! 子龍っ、子龍っ!」
 もがく体を、周瑜は必死に抱き留める。
 落としてくれていいのに、とは唇を噛み締めた。目も眩むほど高いというわけではない。たかだか、5、6メートルの、岩がごつごつしているのが見えるけれど、それだけの。
「子龍―――っ!」
 の声に、ようやく趙雲が振り返る。
 呆然としているようにも見える。
 着いて来ちゃったよ。私、着いて来ちゃった、ごめんね。
 趙雲と目が合ったことで、の体から力が抜ける。周瑜は、やっとの思いでを引き上げた。
 眼下に、蜀の船が行く。腕の中ではが泣きじゃくり、甲板では趙雲がこちらを恐ろしい形相で睨み上げている。
 周瑜は、趙雲を一瞥すると、を肩に抱え上げて崖を這い上がる。滑ってままならないが、草の根が強く繁茂しているので、足場さえ間違えなければ一人を抱えても何とかなりそうだった。
「何ということを仕出かすのだ、お前は」
 呆れて物が言えないのを、敢えて口にしている風に周瑜は零す。
「危ないとは、思わないのか。寄りにもよって、この時勢に」
 周瑜が崖を登り切る寸前、勢い良く冷たい風が湧き上がった。周瑜は、読んでいたかのように首を反らして皮一枚でかわす。
「こんなところに、のこのこと」
 崖から這い上がった周瑜は、周りを取り囲む男達に呆れたような視線を向ける。
「……だから、こんなことに巻き込まれる」
 二人掛かりで飛び掛ってくるのを、瞬時に抜き払った古錠刀真打で薙ぎ払う。ほぼ同時に一撃で二人が打ち倒された事実に、男達の包囲がやや緩んだ。
「恐れてはならぬ! 美周カの首を取れば、報酬は望みのままぞ!」
 飛び出し、叱咤する男を見て、周瑜は溜息を吐いた。
「やはり、お前か、李然」
 聞き覚えのない名だった。
 李然と呼ばれた男は、周瑜に向けてにやりと笑った。
「潮時です、周瑜様。俺も、そろそろ故郷が懐かしい。その女を連れ帰り、錦を飾らせていただきとうございます」
「私の副官まで勤めたお前が、よもや埋伏の毒だったとは。心変わりは、遂にしなかったと見える」
 愚かしい、と周瑜は吐き捨てた。
「それは周瑜様の方でしょう。女一人抱え、この人数を突破できるとお思いか。さっさとそこらに置かれるといい」
「置けば、お前達が飢えた野犬の如く群がり、連れ去ろうという寸法だろう。そんな手に引っ掛かる私と思うてか。この女が消え、私が生きて戻るのがお前達の最上の策なのだろう。ならば、いっそここで朽ち果てるがマシというものだ」
 李然の顔が歪む。図星だったらしい。
「致し方有りませぬ、お覚悟を」
 周瑜の使っていた古錠刀を手に、李然が構えを取る。他の男達もそれに習った。
「女は、仕方ない、殺せ。それで十分だ」
 には、まったく状況が飲み込めない。だが、周瑜にとってのお荷物になっているのは理解できた。
「周瑜殿」
「……黙っていろ」
 周瑜の手に汗が浮いているのを感じる。平静を装ってはいても、周瑜も追い詰められているのだ。
 とにかく、自分が殺されるのはアウト、即ゲームセットだ。それだけ分かった。
「投げて下さい」
 ふ、と周瑜の目に動揺が走る。が、すぐに静まった。
「……ろくでもないことを思いつく」
 の体が、勢い良く後方、今登ってきた急勾配の草むらに放り出される。
 一回転して、滑り落ちていくに李然達はぎょっと目を剥いた。その隙に、周瑜は手近に居た三人を纏めて打ち据える。鮮血が舞い、悲鳴が散った。
「うろたえるな、そこの三人、女を殺れ! 残りは周瑜を片付けろ!」
 李然の命を受け、男達が草むらを滑り落ちていく。
「片付けろ、だと」
 周瑜の目が、鋭く光を放つ。
「私も、舐められたものだ」
 周瑜の剣が、高々と差し上げられる。切っ先に光が宿り、舞台もさるやと言う出で立ちだ。
「散るがいい」
 一寸の情けも容赦もなく、古錠刀真打は敵を蹂躙し、刻んだ。

 崖下に滑り落ちたは、先程船を見送った場所を探した。ぬかるんだ泥がと周瑜の足跡を残しており、すぐに見つけることが出来た。
 背後から追っ手が迫る。
 は、崖を背に敵と対峙した。
「逃げ場は、もうねえよ」
 男達は、息を切らせつつもとの間をじりじりと詰めた。
「殺すのも、惜しい気もするな。あの若殿が、大喬を差し置いて落とそうとした女だろう?」
 さぞや具合がいいに違いないと舌なめずりをする男に、残る二人も好色そうな目をに向ける。
「殺さなくても、いいんだろう? むしろ、連れて行けるなら連れて行った方がいいらしいじゃないか。な、そうだろう?」
「そ、そうだな、周瑜は上の連中に任せて、俺達はこの女を連れてさっさと合肥に行けばいいだけだもんな」
「その前に、ちょっとばかり楽しい思いをしたって、かまやしないよな。な?」
 意見が合致して、男達はの方へ進み出る。
 ふわり、との体が浮いて、崖の下へと落ちた。
「なっ……!」
 男達が、思わず崖っぷちに足を進めてを確認しようとする。が、足元には何の感触もなく、勢い込んで前に進んだ体は、掴めるものもなく足掻きながら落ちていった。
 の足元から、たぱーん、たぱーんと軽く小さな水音が響き渡った。
 ぎゅっと目を瞑り、死の音の余韻が耳から消えるのを待つ。
 崖が一部崩れ、ぱっと見では分からない小さな窪みには身を潜めていた。固い岩盤が露呈している。先程周瑜が、を引っ張り上げる時に足場にした場所だ。
 がたがたと震える体を無理やり起こして、崖を這い登ろうと手を伸ばす。
 その手が、がっしりと掴まれた。
 驚愕するに、仲間を目の前で失い、半ば狂気に駆られた男の顔がぐいと近付けられる。
「て、手柄は俺のものだ! 俺が、一人占めだ!」
 引き摺り上げられ、泥の中に転がるを、男は構わず引き摺って歩く。
 男の爪がの皮膚に食い込み、破る。痛みに悲鳴が漏れるが、男はまったく気にしない。
 暴れるに焦れたのか、突然立ち止まって平手で打ち据えた。
「おとなしくしてろ! ちゃ、ちゃぁんと後で、可愛がってやるから、な!」
 引き攣った笑みが獣じみていて、は背筋に寒気を覚えた。
 国への裏切りと死への恐怖が、男を追い立てているに違いない。下手に逆らえば、本当に殺される。
 おとなしくなったに、男は満足げに笑うと、またを引き摺って歩き始めた。
 突然。
 上から何かの塊が降ってきた。
 は、絶望に飲み込まれた視界の隅でそれを捉えたに過ぎず、だからそれが何か一瞬分からなかった。
「……あんたな!」
 耳に馴染みの声と言葉に、は思わず飛びついた。
 ほぼ真上から飛び降り、男を踏み潰したままの凌統は、横っ飛びに飛びついてきたの体重を支えかねて、泥の中にひっくり返った。

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