始まりは1ではなく0。
 今、まさに断崖絶壁から一歩を踏み出そうとする愚か者は、何を見て何を思うのか。
 結果は、神のみが知る。

『今、うちに趙雲がいます』
 電波だ。
 どう見ても電波な文章だ。
 パソコンに打ち込んだ一文を険しい目で眺めていたは、キーボードの上に手を置いたまま固まっていた。

 襖が開くと同時に声がかかる。
 慌てたせいで、キーボードが机から落ちた。
「ちょ、入る前にノック!」
 コードの先でぶらぶら揺れるキーボードを沈痛な眼差しで見遣りながら、はディスプレイを胸に抱え込んで悲鳴じみた声を上げた。
 趙雲が無表情に裏拳で襖を叩くと、ぼすぼすと情けない音がした。『満足か』と言わんばかりの目が、無言でに向けられる。
 ああ、もう、美形は苦手だ……!
 トレーナーにジーパンと言うありふれた格好でそこに立つ男は、『趙子龍』と名乗る、の家の居候だ。



 は目下一人暮らしのOLだ。形ばかりの2LDKの平屋を安く借り受けている。
路地裏を複雑に入り込んだ、ビルやマンションの間にちょこんと建つこの家は、その土地の狭さと日当たりの悪さから安く貸し出されていたのだ。前の住人が孤独死したとかで、条件良く借りられたということもある。は気にしなかったが、前から『何か出る』と噂があるのだと、近所のラーメン屋のおばさんが言っていた。
 だから、初め趙雲を見た時、『あ、出たのか』と思った。
 猫の額ほどの狭い庭に、突然人影が現れた。青と白のきらきらしい衣装を纏い、槍を手にした出で立ちは、落ち武者にしてはおかしいな、とぼんやり考えていた。
 が冷静だと言うわけではない。驚き過ぎて、思考が停止していただけだ。
 趙雲は、ゆっくりと頭を巡らし、最後にを認めた。
「誰だ」
 静かな、落ち着いた声音だった。
 は声も出せずに固まっていた。
 啜りかけたカップうどんが、口から垂れ下がっている。後から思い出すに、非常に間抜けな格好だ。
 趙雲が、足を踏み出す。
 じゃり、と小石を踏み躙る音が、に現実を与えた。
 カップうどんを投げつけ、電話に向かってダッシュした。不審者だ、警察、119番、と受話器を掴みかけた時、首の辺りに衝撃が走って気を失った。
 気を失う瞬間、119番じゃなくて、110番だっけ、と思い出した。

「違うだろ」
 起きた瞬間に呟いた言葉はツッコミだった。ご丁寧に、手までツッコミいれている。
「気がついたか」
 他人の声に飛び起きると、先ほどの男がすぐそばで座っていた。
 悲鳴を上げなくては、と思うのだが、喉に舌が張り付いてしまったように強張って、声が出せない。
「私は趙子龍。害意はない、信じて欲しい」
 努めて穏やかに装っている風な声は、むしろ無機質に聞こえる。
 声は、の頭の中でタイプライターを打つように、一文字ずつ彼の名を刻んだ。
「……趙……子龍? 趙雲?」
「私を知っているのか」
 知っているも何も、毎日のように『萌えー!』と叫んでいる対象だ。同人やってるオタク女で、貴方のことは妄想の中で毎日のように犯してます、と言ったらどんな顔をするだろうか。
 殺されんだろうな、と思った。
 冷や汗が背筋を伝い、直感した。殺される。
「……いやあの……とりあえず最後まで聞いていただきたいんですが」
 前置きして、は腹を括った。同人やってることは何とか誤魔化して、とにかく状況を説明しよう。気絶している間に部屋に上がりこんでいたのだし、壁にかかった時計や家具、点けっ放しのテレビなどから、ここが『自分のいた世界とは何かが違う』くらい分かるはずだ。
 は、必死に自分を落ち着かせながら説明を始めた。気がつかない間に正座していた。

 実際、趙雲は至極冷静だったと言えた。が途中途中で『以上、どこか分からない所はございませんでしょうか』と質問するまで(説明しているうちにの口調はどんどん丁寧かつ回りくどくなっていったにも拘らず)おとなしく耳を傾け、分からない単語や補佐的な質問を的確に尋ね、理解もほぼ瞬時といっていいほど早かった。
 いかんせん1800年という長い時間が経っていたので、今とりあえず必要と思われる知識を、本当にざっとという程度に話し終えた頃には、夜の九時を回っていた。
 はぜいぜいと息を荒げていたが、趙雲は話を聞き始めた頃と同じ体勢、同じ表情で何事か推し測っていた。
「……お茶でも、如何でございましょうか」
 ひたすら喉が渇いて、恐る恐る趙雲に伺いを立てる。
「家主である貴方が、闖入者である私に気を使わなくても結構。どうぞ、ご自由に」
 やや突き放した感のある返事に、は少し腹立たしさを感じた。本当に少しだったが、不意に趙雲がこちらを振り返って、どきりとした。だが、背中に流れた冷や汗に反して、趙雲はただ申し訳なさげに頭を下げた。
「申し訳ない、不躾な返答をいたした。未熟ゆえ、未だ方寸が定まらず……そう、お名前を、お聞かせ願えるだろうか」
 そう言えば、はまだ自分が名乗っていないことに気がついた。
っていいます」
 趙雲の表情が、ほんの少し緩む。
 それだけで、まるで桜の花が開くような清廉な美しさを感じた。
。良い名だ」
 趙雲の口から、自分の名が出た瞬間、は言い知れぬ恥ずかしさを感じて台所に逃げ込んだ。
 薬缶を火にかけながら、ばくばくとうるさい心臓に手を当てる。
 いい男って奴は、これだから!
 半ば八つ当たり気味に(もちろん胸の中で)喚き散らして、は深呼吸をした。
 ガスコンロの火をぼんやり見つめながら、布団は如何しよう、と考えている自分に気付き、はっとする。
 え、此処に泊める気か!
 待て待て、と脳に酸素を入れる為にまた深呼吸をする。
 でも、こんな時だし、この世界のことは何も分からないだろうし、ああでも言葉は通じてるんだっけ、それなら、いやいや、あっ、でも服があれじゃおかしいだろ、明日買ってくるしかないか…。
 だから待てって、とがくんと首を下ろした瞬間、鼻の中に薬缶から吹き出した蒸気が直撃し、は激痛からくる涙を堪えてうずくまった。
 もういい、明日考えよう。
 鼻の中が熱くてずきずきする。あ痛ー、と呟きながら立ち上がると、ふと後ろを振り返る。
 趙雲が、苦笑いしながら立っていた。



 それから、彼は此処にいる。

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