そして1を冠するカードの名は『魔術師』。あらゆる数の中最も小さな整数でありながら、素数に含まれない数字を冠するカードは、人知を超える知を持つ者を語源と為す。その知が、意思が、どう変化するかはカードの位置により定められるのだ。


 イベントで、ぼーっとしながら売り子をしていた。
「どうしたの、元気ないね」
 が面倒くさそうに顔を上げると、同人仲間がそこにいた。
「新刊、落ちたんだ。まぁ、ホラ、今日は別にコミケってわけでもないしさ」
 どうやら、元気がないのは新刊が落ちたせいだと思っているらしい。
 当たらずとも遠からずといったところか。このところ、はただでさえ少ない執筆時間を趙雲の為に食い潰されている。そも、趙雲の前で趙雲受のエロ漫画が描けるかと言えば描けるわけがない。
 漢字ならなんとなくでも分かるようになってしまった趙雲に、うかつに見られないように神経を配るのだけでも一苦労だ。
 趙雲はあまり表情を作らない。に対してだけなのかまでは分からないが、何に興味を持ったか察しがつけられず、一度デッサン用のヌード写真集を見られて非常に辟易させられた。
 結局、は絵を描いている、というところまで知られてしまった。内容に興味を持たないとも限らないので、原稿どころではないのだ。
「……ホントにどうしたの。風邪?」
 ぼんやり考えているに、呆れながらも心配げに見つめてくる同人仲間に、いやぁとへらへら笑ってみせる。
「ちょい、トイレに行ってくる間だけ、売り子してくれない?」
「いいけど……アンタ、ジャンル移ってきなよ。こっちの本だって出したし。そしたら、合体でうちらと一緒に出来るじゃん。売り子いないの、ツライっしょ」
 正直言えば、ツライ。
 描いた物を発表するだけならネットで充分だし、同人自体の引退だって考えたことがないわけじゃないのだ。
「う〜……考えておく」
 だが、実物前にして、未だに趙雲受に未練があるのだ。もしかしたら、前より妄想に加速ついているかもしれない。
 そういう意味では、は重症と言えた。

 食事を、という誘いを断って、家に直帰する。
 趙雲にはまだガスコンロの使い方を教えてない。お昼にはパンを食べるように言い残してきたが、口に合わないのかあまり好きではないようだった。残すような真似はしなかったが、やはり好きでもないものを食べさせるのには少々の罪悪感めいたものがつきまとう。
 同居人というより、可愛いペットでも飼っているような感覚だ。
 初めは戸惑ったものの、一月も経つとそれなりに慣れた。
 振り分けタイプの住居だったことが幸いし、原稿部屋と名付けた部屋にが引っ越すことで趙雲に部屋を与えることができた。は家具をあまり持たないようにしていたので、服や下着をしまった洋服ケースを幾つかと、布団を運ぶだけで事足りた。
 私室と原稿部屋、どちらを明け渡すかについては、少しは考えてみたのだが、趙雲にはステンレスの簡易ベッドでも、地べたに寝させるよりは馴染みやすかろうと思ったのと、大量の原稿道具や資料を移動させるよりはよっぽど楽だという自然の流れの帰結に落ち着いた。
 服に関しては、近所の安売りの店で適当に購入した。大き目のジャージと、サイズの合わない靴を履いててくてくと歩いている趙雲は、の目から見てもダサ…くないので腹立たしかった。
 顔の造りと身長の高さ、均整の取れた体格が、欠点だらけのファッションセンスを補っていた。
 趙雲は、人目も気にせず堂々と歩く。人に見られることに慣れているのかもしれない。
 将軍さまだもんね、と一人ごち、少し離れて歩く。
 そんなを、趙雲は不思議そうに振り返る。
 何となく、その姿がの目に焼きついている。
 簡単に、冷蔵庫の余りものをぶち込んで鍋にでもしようかな、と考えているうちに家に着いた。
 ガラスを通して、灯りが窓の外に落ちている。
 今までなかった光景だけに、何となくは照れ臭さにも似た暖かい感情を覚えた。
 一人暮らしなだけに、家で誰かが待ってくれている感覚に飢えていたのかもしれない。
「ただいまー」
 玄関を開けると、廊下は薄暗い。
 引き戸を開き、何気なく中を覗くと、テーブルを挟んでの部屋に趙雲が立っているのが見えた。手に、何か紙の束を持っている。
 鳥肌だって、部屋に駆け込む。椅子の足に引っかかり、派手な音を立てた。趙雲が驚いたように振り返り、の姿を認めて小首を傾げた。

 手にした紙が下がり、鉛筆線と墨の濃い線がちらりと見えた。
 原稿、見られた。
 頭の中がかっと赤く染まり、趙雲の手から原稿を奪い取る。取り返した原稿を、そのまま二つに引き裂いた。
 びりり、と甲高い音が部屋に響く。

 ぎょっとして、の肩に手を置こうとした趙雲の手が、勢い良く弾かれる。無言で、ぐいぐいと趙雲を部屋の外に追いやるの腕は趙雲には非力なものだったが、有無を言わせぬ迫力があり、趙雲も従わざるを得なかった。
 襖の縁を越えると、背後でぴしゃりという音がした。趙雲が目だけで背後を見遣ると、薄汚れた色の襖が映る。
 戦場を離れているとは言え、油断だな、と一人ごちて、趙雲は腕組みにして何事か考え込んだ。

 は、二つに破った原稿を更に細かく破り続けていた。厚い紙はの指から滑って落ち、それをヒステリックに拾い上げては破る。
 紙くずと化した原稿を、襖に向かって投げつけるが、細かくなった紙は空気の抵抗を受けて、間抜けにひらひらと舞い散った。
 敷きっ放しの布団に顔を突っ込む。
 体の中にどろどろしたものが渦を巻いて、どうにかなってしまいそうだった。
 泣き叫びたいような衝動があるのに、涙も出てこない。
 何だろう、ともう一人のが冷静に考える。
 恥ずかしいっていうのとも違う、腹が立つって言うのとも何か違う、ヘドロが煮えたぎって泡を吹くような、胃の底から吐いてしまいたいような、体中の力が皮膚の表面を突っ張らせているような感覚が、を苛んでいた。
 息ができなくなって、思わず窓を開けた。暗い闇の中から、一気に冷たく凍えた空気が部屋の中に吹き込み、の熱くなった肌を冷やした。
 心臓が止まるような痛みが走り、その痛みが を追い立てる緊張から解き放った。
 趙雲に八つ当たりするのは、間違っている。
 やましいものを描いていたのは自分だ。やましい感情を抱いていた相手に、やましいものを見られて、当り散らすのは間違いだ。
 例え、部屋に勝手に入ってはいけないという約束を趙雲が破ったからと言って…そう、そもそも約束を破ったのは趙雲の方なのだ。何だって勝手に入ったりするのだろう。
 だが、趙雲に対してやましい隠し事があったのは事実だ。それこそ、趙雲が来る前から、勝手に妄想して、他の武将とくっつけて煩悩叩きつけていたわけで。
 窓の桟から身を乗り出して、くて、と力を抜く。
 複雑で、考えるのも億劫だ。
 誰が悪いのか。何が悪いのか。悪いものを、見つけなくてはならないのか?
 自分が悪いと認めるのはしんどい。
 しんどいが、では趙雲が悪いかと言えばそうではない。
 何が気に入らないのか、考えるのが嫌になっているのに、ぐるぐると思考は輪を描いて回る。
 ぼすぼす、と間の抜けた音がした。
 首だけ振り返って様子を伺っていると、再び、ぼすぼすと音がする。
 だらだらと起き上がり、襖の前に立つ。

 気配だけで分かるのか、趙雲が名前を呼んだ。
「……何」
 深呼吸して、腹に力を篭める。
 こんな狭い家で、二人で暮らしているのだ。仲違いなどしない方がいいに決まっている。
 でも、まだ納得できないものがわだかまっている。だから、声も小さいし、不貞腐れているのが自分でも分かった。
「カップ麺を用意した。食べよう」
 カップ麺だと、と一瞬怒りがこみ上げたが、趙雲がカップ麺を用意している姿を思い浮かべ、襖に頭をぶつけた。ぶつけたのが桟だったので、結構痛い。
 勢いで、襖も少し開いてしまった。
「おいで」
 開いた襖の間から、趙雲が手を差し伸べているのが見える。
 ずきずきと痛むおでこを押さえながら、はじっと趙雲の手を見つめた。
 から、と軽い音がして、襖が開く。
 は趙雲の横をすり抜け、コタツに座った。テレビのチャンネルを取り上げ、スイッチを入れる。
 頑ななの態度に、趙雲は怒るでもなくの隣に腰掛ける。
 コタツの天板の上には、カップが二つ並んでいる。上にはご丁寧に塗り箸が揃えて乗せられている。
 ふと、はカップ麺の時間が気になった。三分なら、もう食べてもいい頃だ。
 確認しようと蓋を見て、嫌な予感に駆られる。
「……これ、中に入ってたのは?」
「入れたが」
 沈黙が落ちる。
?」
 さすがに訝しく思った趙雲が声を掛けると、がひっくり返った。
?」
 顔を伏せ、肩を震わせているので、何事かと趙雲がの顔を覗き込む。
「やきそば」
「は?」
「やきそばだ、この馬鹿ー!!」
 趙雲の胸元にツッコミを入れる。ぱん、といい音がしたが、の甲が痛くなった。
 やきそばは平仮名だったので、趙雲には分からなかったようだ。
 お湯で薄まったソースを考えると、胸焼けがする。
 未だに訳が分からずといった態で首を傾げる趙雲と、の顔の距離が近い。
 はっと気がついて顔を引くと、趙雲はそのままを目で追った。
「……は……」
 不意に、の目から涙がぼろぼろと落ちた。
「あれ」
 慌てて目を擦るが、涙は止まらない。
 何とかして止めようとするのだが、赤くなった手の甲はどんどんと濡れていく。
「あれ、おかしいな…」
 仕舞には胸が詰まってきて、は部屋に戻ろうと立ち上がった。
 だが、強い力で引かれ、気がつけば趙雲の腕の中にすっぽり納まってしまった。
 無言で、背中を優しく叩かれ、余計に涙が込み上げてくる。
 声だけは、何とか抑えようと思った。

 涙が止まって、小さくしゃっくりが出るようになっても、趙雲は飽かずにの背を穏やかに支えていた。
 そういや、この人は蜀の子守武将だったな。
 今更のように思い出して、阿斗もこうしてあやしているのかと考える。
 髭の生えた阿斗が、趙雲の膝の上であやされている様を思い浮かべて、は思わず笑ってしまった。
「そう言えば」
 趙雲の手が止まり、も釣られて趙雲の顔を見上げる。
「あの絵、私に似ていたような気がするのだが」
 ちらり、と向けられる視線が冷たい。
 思わず逃げ出そうとするだったが、体はがっちりと趙雲にホールドされている。あやす体勢は、イコール抱いた子を落とさないようにする万全の体勢でもあるのだ。
 の背に、冷や汗が流れる。
 趙雲が密やかに笑みを浮かべる。
 その凍えるような冷たい笑みに、は趙雲と対峙する武将の気持ちを理解した。

←戻る ・ 進む→

TAROT INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →