何があろうと所詮は世界の片隅での出来事。
 悲劇悲喜劇。
 愛そうと憎もうと、空はただ青いだけ。



 翌日。
 諸葛亮に呼び出され、趙雲は一人廊下を歩いていた。
 副官の不祥事は内々に処理されたが、それでも人の口に戸は立てられまい。数日中には姿を消した美しい副官の噂で、城内はちょっとした騒ぎになるだろう。
 それよりもまず、のことが気に掛かっていた。
 戦を知らないただの女が、刃を向けられ危うく命を落とすところだったのだ。さぞや恐ろしい思いをし、怯えていることだろう。
 一晩中でも抱き締めてやりたかった。諸葛亮の命でなければ、無理やりにでも連れて帰ったものを。
 人の感情など、趙雲には量り難いばかりだった。複雑怪奇で、面倒だ。
 ともかく、早く連れて帰ってやりたい。春花も、それは心配していたのだ。顔を合わせた程度の間柄のはずだが、春花は既にに懐き慕っているようだ。
 諸葛亮の執務室に赴き、廊下から拱手の礼を取り、名乗る。中から入室を許可する声が掛かり、趙雲は開かれた扉を潜った。
 再び拱手の礼を取る。
「早速ですが、趙雲殿」
 拱手に応えて顔を上げた諸葛亮が、いつもの微笑を見せる。
殿を、この国に初めてやってきた場所へお連れ下さい」
 趙雲が、一瞬とは言え言葉を失う。
「それは」
 を元の世界に返すということではないか。
「このたびのことについて、功は殿にあるとみます…ですから、殿の望みを叶えて差し上げて下さい」
 荷物はすべて捨ててくれという。着の身着のままで帰るということだった。
「ですから、この後すぐにでも送って差し上げて下さい」
 趙雲は、顔色一つ変えずに諸葛亮を見つめ返す。ただ、いつもの趙雲であれば、歯切れ良く返答するだろうに、一言もない。
 諸葛亮は気にも留めず、朱雀羽扇を煽ぐ。
「趙雲殿。池の魚を川に放しても、魚にとって幸せとは限りますまい?」
 戦のない世で生きられるなら、それに越したことはない。戦の世の慣わしは非情なものと、身に沁みて分かっておられるのは貴方でしょう。
 重ねて言われれば、返す言葉もない。
 が望んでいるという。
 怖くなったという。
 池の魚は、池で暮らすのが幸せだなどとは、趙雲は思わない。魚の気持ちなど考えたこともないのだから。
 けれど、軍師の命を受けて逆らうほどの情熱など、趙雲は持ち合わせていない。

 愛馬の白いたてがみがなびく。
 は無言だ。
 趙雲もまた、無言だ。
 お互いの体が触れている部分が、じんわりと温まっていく。
 熱を分け合っている。
 ここに居ることが、分かる。
 森を抜け、やがて広い野原に出た。緑の下草はやがて疎らになり、が初めて見た景色が近付いてくる。
 ああ、そう、こんな感じだった。
 見た感じだけでなく、近付いているという予感めいたものも感じる。
 趙雲が馬を止める。
 は叫び出したくなった。ちょうど、長年帰っていなかった故郷の玄関の前に立ったような感覚だ。
 ここだ。間違いない。
 趙雲が馬を降り、が降りるのを手伝ってくれた。
 趙雲の両腕がの腰に回っている。指に力が篭った。が趙雲を見上げ、趙雲がを見下ろす。
「ありがとう」
 が突然、言い出した。趙雲は僅かに首を傾げる。
「会えて、良かった。ずっと忘れないと思う」
 いやまあ、あんなことされて忘れられるわけもないんですけどね! とはおどけて笑う。
 趙雲も、に合わせて笑った。微かな笑みだった。
 が俯く。顔を上げた時、の目に涙が溜まっていた。
「ごめんね」
 唇が震える。
「ヘタレでごめんね。怖いんだ。駄目なの、怖くて、ずっと体が震えてて、居られないの。
ごめん。ごめんね」
 趙雲の腕が、を抱き締めた。
 趙雲の手下の者が、を傷つけようとした。馬超の手下の者も、その仲間だった。
 誰が敵なのか分からない。可愛い春花も、ひょっとしたら裏切り者なのかもしれない。
 そんなことを考えていたら、とても生きていけない。
 どんなに趙雲が好きでも、馬超が好きでも、無理だ。息が出来なくなってしまう。
 気絶する前に姜維が助けていれば、もし助けたのが、趙雲自身、または馬超で、目覚めた時にを励まし、強く抱き締めていたのだったらまた話は違ったかもしれない。
 そうではなかった。
 の脳裏に、真っ白い顔の女が刃を振りかざしているのが焼きついてしまっている。顔しか知らない、名前も知らない女がの命を狙った。
 殺される者の恐怖は、その者にしか分からない。
 趙雲にも分かってやれない。馬超にも、諸葛亮にも、この蜀の、いやこの世界の誰にも、の恐怖は分からないだろう。
 誰に許しを得ることがあろうか。
 もし許しを得なければならないとしたら、趙雲とてを守れなかったことに許しを請わなければならない。
 の体が震えている。
 帰したくない。
 趙雲の手が、から離れた。
 帰したくなかった。
「ごめんね」
 趙雲は、柔らかく微笑む。首を横に振る。
 仕方ないのだ。
 拳を握り締める。
 にはなりの考えがあって、その考えに基づいて行動し、生きている。趙雲もまた、趙雲の考えに基づいて行動し、生きている。
 がこの世界では生きていけないから、帰りたいと望み、趙雲はの震えを止めたくて、を帰すのだ。
 触れていた肌の温もりが、二人が離れたことにより、消えた。
 趙雲に向き直る。
 この男に会ってから、やたらと泣くようになった。戻ったら、もう泣かないようにしないと。
 一人なのだから。
 背中の辺りで、掃除機で吸い込まれるような感触がある。
 帰るのだ。
 お別れだ。
 手を差し伸べたらいけない。また元の木阿弥だ。拳を握る。
「元気でね」
 趙雲が、微笑む。
「病気しないでね。怪我しないでね。ホントに…約束、ね」
 趙雲が小首を傾げる。長い前髪が、さらりと揺れた。
 ああ、本当に奇麗な人だ。本当に、私なんか好きだった?
 引っ張ら、れ、る…。
 遠くから。
 何か叫んでいる声と、地響きが聞こえる。
 も、趙雲も、ぎょっとして振り返った。
「……趙雲!」
 馬超だった。
 点だった影が、みるみる大きくなる。
「趙雲!」
 馬超が必死で趙雲に呼びかける声。設定的には、素敵に趙馬、いや馬趙?
 はぼんやりと馬鹿なことを考えていた。見送りに来てくれたのだろうか。それにしては……。
「阿呆が、を帰すな!」
 馬を止める間も惜しいのか、勢い良く飛び降りる。
 が声もなく悲鳴をあげ、趙雲は呆然としていた。
 地面を二転、三転として、そのまま起き上がるとに向けて突っ込んでくる。
 半分まで吸い込まれていたの体が、馬超の手で引き留められる。
「ちょ、孟起!」
 何と言う無茶な男だ。転んだ拍子に何処かで切ったのか、血が額からだらりと垂れていた。
「……放して、駄目だよ!」
 引っ張られるの腕も痛かったが、何より馬超の力が僅かに足りない。このままでは、今度は馬超を連れて行くことになる。
「駄目なものか!」
 馬超の足がずずっと滑り、砂煙がたった。
「帰さない、お前が何と言おうと、俺は許さんぞ!」
 趙雲は、馬超の醜態じみた行動を静かに見つめる。
 わがままな。池の魚は、池に帰すが筋だろう。
 池の魚の気持ちなど、知ったことではないが。
 知ったことではない。ああ、そうだ。すべて、そうしてきたのだ。
「孟起、駄目だって…放してって!」
 の声が悲鳴じみてくる。
 繰り返しになる。馬超だって、連れて行ってはいけない人なのだ。
 趙雲が、馬超の肩を掴んだ。ほっとした。趙雲が馬超を止めてくれる。
「放すなよ、馬超」
 絶句した。
「……ちょっ……」
 止める相手が、違うだろう。
 慌てて馬超の手を引き剥がそうとして、その手を趙雲に取られる。
「馬鹿どもがぁっ!」
 背筋をフル活用して、後退りしようとする。
 敵うわけがない。
「うわぁ、も、馬鹿ぁ〜っ!」
 掃除機の先端がすっぽ抜けたように、手応えが突然なくなる。
 宙に放り出されて、ついでに三人ともひっくり返った。
「ぎゃあ」
 色気のない悲鳴と、盛大にひっくり返るお笑いの効果音のような音が辺りに響き渡った。
 が慌てて飛び起きる。
 空気が変わった。違和感が広がる。『ここ』ではなくなってしまった。帰り道が分からなくなってしまったのだ。
「ば……」
 の指がぶるぶると震える。趙雲が、気にしたように目を細めた。
「馬鹿野郎!!」
 趙雲の勘違いだ。恐怖ではなく、怒りのためだった。顔を真っ赤にしている。
「か、帰れなくなっちゃったじゃない、どーすんのよぉっ!」
 トチ狂ったのか、癇癪起こして地面をばんばん叩き出した。
「……ここに居ればいい」
 馬超が息を弾ませながら身を起こす。ここまで息もつかせず馬を駆けさせて来て、馬から転げ落ちた後に、元の世界に吸い寄せられている最中のを引っ張り出したのだ。馬超と言えども、いい加減に体力の限界だった。
 ぜいぜいと息を継いでいる。肩が弾み、顎から汗が滴っていた。いつも清廉に黒光りしているはずの鎧は埃に塗れ、兜の房飾りにみっともなく枯れ草がまとわりついていた。
「俺が、守る」
 根拠のない自信を堂々と押し付けられて、は何も言えなくなった。
 こんなぐちゃぐちゃになって、錦馬超なのに、こんなにぐちゃぐちゃになって、錦馬超なのに。
「……も、何が楽しいんだか、この子はぁ……」
 声が震える。怒っているのか呆れているのか、感動しているのかすらもう判断がつかない。
 ハンカチを取り出して、馬超の額の血を拭う。見た目の割りに出血は少なかったようで、もう乾き始めていた。
「……子ども扱い、するな」
 失礼な奴だな、と不貞腐れている。まったくもって子供だ。図体ばかり大きいだけの、ただの子供だ。
 ふと見遣ると、趙雲が笑っている。笑っている場合じゃないだろう。
「もう、さぁ〜……あんた達、さぁ〜……」
 二の句が継げない。へたりこんだ。もう帰れない。どんなに怖くても、怯えていても、もう帰れないのだ。
「どうすんのよ〜……」
「帰ろう」
 間髪入れず趙雲が答えた。
「春花が待っている」
「誰だ、それは。またおかしな女ではないだろうな」
 馬超が突っ込む。
 この野郎。
 ホントにデリカシーがない。女にモテないだろう。馬鹿だ。
 段々如何でもよくなってきた。
「あんたさぁ、私の正体知らないから、そーゆーことをさぁ〜……あーもういい、帰ったらすぐに新作描き下ろしてやる、すっごいホモホモしいの描いてやる、覚悟しとけハードだぞ」
 の言っていることの、半分も馬超には分からない。
「正体……? 新作?」
 首を傾げまくっている。
 趙雲は先に立ち上がり、愛馬の首筋を撫でてやっていたが、の言葉に振り返る。
「別に、新しく描く必要はないだろう。屋敷に戻れば、が作った『ほん』がある」
 がびきりと固まった。
 馬超は、未だ二人の話が飲み込めず、と趙雲の顔を見比べている。
「……な、なん、今、何て言った……、つか、何であるのよぉおぉっ!?」
 の声がひっくり返る。
「土産に」
 事も無げに趙雲が答える。
「い、い、いったい、いつ、何時!」
「『そくばいかい』の時に」
 人のいない隙に抜き取りやがったのか、てめえぇっ!
 趙雲に飛び掛ろうとするを、馬超が後ろから取り押さえた。
「何だかよくわからんが、趙雲、それ、俺の屋敷に届けさせろ。岱にでも渡しておけ」
 馬岱の名前が出て、の悲鳴が上がる。
「やめてぇ、それだけはやめてえぇぇぇぇぇぇぇっっっ!」
 馬超が、行けと顎で合図する。趙雲は馬に跨ると、一声掛けて颯爽と駆け去っていく。
「ばかこの、汗臭いっつーの! 孟起…退いて、退けえぇっ!」
 馬超が退くわけもない。
 趙雲の後姿がどんどん小さくなる。鍵のように折り曲げられた指が、恨みがましく趙雲の影を引き裂いた。
「あぁあ、もう、ホントにもう……」
 つくづく間が悪い。呆れるほどシリアスになれない。
 正体の知れない影や陰謀に怯えるような、か弱い女なんて柄じゃないってことでしょうか。そうでしょうとも。分かっておりました。どうせどうせ、そうでしょうとも。
 の体から力が抜けたのを見計らい、馬超はの体を横抱きに抱き、立ち上がった。
「……重くないの」
「ふん、何のこれしき」
 さりげなく重いって言ってないか、こいつ。
 少しむっとしたが、馬超の長身にお姫様抱っこされるのは、予想外に気分がいい。
「帰るぞ、
 何処にだよ。
 ツッコミは、胸の内でこっそり消えた。
 代わりに、『勝手にすれば』と呟いた。『では、そうしよう』と言って、馬超が笑う。
 本当に、勝手にすればいいのだ。誰も彼も勝手なんだから。
 私も勝手にしてやる。帰ったら、孔明様に言ってお家を用意してもらうんだ。それでもって
春花に来てもらって、男子禁制にしてやる。春花が、私の趣味を理解してくれるといいな。
 とりあえず、『ほん』は取り上げなければならないが。

 は空を仰ぐ。青くて、高くて、透き通っている。
 この空は、奇麗で好きだな。そう思った。

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