最後の審判。
正しいのが誰かを決める祭り。
そんなことは、どうでもいい。
初太刀をかわせたのは、ただの偶然だと思う。振り返ろうとした瞬間、足首がかくんと曲がり、こけてしまったのだ。
ふぉん、と軽い音と冷たい風がの横を通り過ぎた。
膝をついて見上げた先に、趙雲の副官が立っていた。手には短剣を握り締めている。
美しく整った顔が、何時になく青白い。熟れた桃のように奇麗な頬も、今日は血の気がなく蝋燭の溶けた蝋を思わせた。
何だ、と思う。
短剣が、芝居で使う小道具のようにぎらぎらしている。
普段から欠かしたことのないだろう彼女の唇の紅が、不可思議な形に歪んだ。
短剣を握る手が、ゆっくり、高々と振り上げられる。
ハムレットか何かで、こんなシーンがあったような。
何をしているのだ。
無双で、つまり三国志で、ああでも、戦国無双も無双だけど、ハムレットとは関係ないはず。あれはイギリスだから。
腕が落ちてくる。
音が聞こえない。無声映画のようだ。
今度はついていた肘がかくんと折れた。背中から倒れる。
目の前で、切れた髪の毛がぱっと散った。
何で?
昔テレビで見た、カリスマデザイナーがカットする時に、はさみがすべると同時に切った髪の毛が散るのを思い出した。
でも何で?
髪の毛が切れるということは、あの刃物は本物ということだろうか。それも、目いっぱい切れ味のいい。
え。
途端に体が強張った。ずんと重くなって、指先一つ動かすことも出来なくなってしまった。
舌が痺れたようになって、上顎にべったり張り付いた。息が出来ない。汗がぶわっと噴き出して、体中の体温を奪い、爪先まで凍えた。
鍛錬、したはずなのに。
ひらりとかわすどころか、いい的だ。
ずるり。
板を重いものでこするような音が聞こえた。
何だ。
目の中で、膝がのたのた動いているのが見える。
あ、後退り、してたのか。
知らぬ間に体が動き、肘でずりずりと後ろに下がっている。
起き上がって逃げた方が早い。
腰をあげて、身を捻って、二本の足を交互に素早く大股に動かせば、走って逃げられる。
で、それってどうやるんだっけ。
思い出せない。
脂汗が滲んで、足がみっともなくがたがた震える。
肩が、何かにぶつかった。
壁だ。
壁を伝って起き上がれば。
だが、彼女の短剣が再び振り上げられる。
起き上がれない。起き上がったら刺される。
刺されたら、どうなるんだろう。死ぬ?
無双、だよね。そしたら、死体はどうなるんだろう。やっぱり、ゲームと同じで消えちゃうのかな。
これ、彼女のミッション?
私を倒したらクリア? 違うか。
子龍が好きだから? 私が邪魔?
何、そんなドラマみたいな話、ホントにあるもんなの?
だって、一人暮らしで、会社行って、同人誌作って、サイト更新して、時々イベント行って、それが私の日常で。
え、ホントに?
何ちゃって、とか、誰かが看板もって出てくるとか。
高々と振り上げられた手が、限界まで上がって、止まった。
落ちてくる。
ジェットコースターみたいに。
辺りが真っ暗になった。
ばつっ、と言う感じで、漏電したコンセントに触ってしまったかのような痺れが、体を突き抜けた。
汗がだらだら流れる。
え。
あ、夢か。
天蓋の色は、見たことのないくすんだ色をしていた。
起き上がろうとするのだが、体が引き攣って起きてくれない。
何て生々しい夢だったろう。
心臓がどきどきしている。喉が渇いた。
「……お目覚めでしたか」
諸葛亮が覗き込んでいた。
え、何で孔明様が。
声を出しているつもりなのに、自分の声が聞こえない。
あれ。
「もうしばらくお休みになって下さい。助け出すのが遅くなり、申し訳ありませんでしたね」
何のことだ。
「着替えは月英がいたしましたので、ご心配なく。さ、もう少し眠ると良いでしょう。目を閉じて」
諸葛亮の指がの目をそっと塞ぐ。
思ったより細くて白い指だ。
は目を閉じた。
暗闇に落ちた。
目が覚めると、辺りは真っ暗だった。
喉が渇いた。
起き上がると、手探りで辺りを探る。
物音がして、灯りが近付いてきた。
月英だった。
「お目覚めですか」
あまり言葉を交わしたことのない相手だったので、少し緊張する。
月英が部屋の中の燭台に灯りを点して回ると、暗かった部屋が明るくなった。
「喉が渇いたのではありませんか」
声を出そうとしたが、喉がからからで呻き声のようなしわがれた声が漏れた。
恥ずかしくて俯くと、月英は水差しから水を注いで差し出してくれた。
一気に飲み干すと、ようやく一心地ついた。
月英が、の手をそっと握る。
「怖かったでしょう」
あやすように手を軽く叩かれて、きょとんとしてしまう。
突然、涙が零れた。
「あれ」
声が出た。そのことにも驚いた。
「もう大丈夫ですよ」
何の話だ。
「すべて、貴女のお陰です。趙雲殿も蜀も、貴女のお陰で助かったのですよ」
月英が語ることに拠れば、趙雲の副官は『埋伏の毒』だったということだ。
魏の軍師、司馬懿はご丁寧にも二重の毒を埋め込んだのだという。
まず、馬超の副官として間者を忍び込ませ、これ見よがしに劉備暗殺を企む。その後、毒を取り除いて安堵したところを再び引っくり返す。
安易な策だが、これが意外に効く。蜀は若い国で、譜代の家臣は数が少ないからだ。
徳にて人を惹きつける蜀にとって、疑念は国を滅ぼす毒だから。
諸葛亮は、かなり初期から趙雲の副官に疑念を抱いていたらしい。
だが、偽りとしても職務に忠実であったこと、趙雲に密かに恋心を抱いているらしいことを察し、様子を見ていたのだという。
実力は確かだったから、このまま蜀に帰順してくれればもっけの幸いだ。とにかく、人材の少なさは諸葛亮の頭痛の種だったので。
だが、が来て状況が一変した。
趙雲は元々彼女を女性として見ておらず、密かに危惧はしていたのだが、が来て彼女の感情が揺れ出したのが手に取るように分かった。
趙雲の愛情は歪だが直向だ。諸葛亮自身、趙雲が女性を愛することがある、という事実が意外であった。性の処理ならばいざ知らず。それが諸葛亮の所見だった。
趙雲の目が違う女に向いている。副官の誇りと忠誠は踏み躙られた。代償を求める誇りが忠誠に値するならば、だが……魏との密通がここ数ヶ月で何度か行われた。
ああ、裏切る。諸葛亮はそう思ったという。
何処で塞き止めるのが最も効果的か。如何いう形で防ぐのが効果的か。戦の最中か、宴の最中か、それとも。そう考えるようになったという。
事は、諸葛亮の思惑を外れて急激に進行した。
が突然趙雲を訪れ、趙雲は己の気持ちを言葉と行動で示した。副官がすべてを見ているとも知らず……いや、知っていて見せ付けたのかもしれない。諦めろ。最後通牒のように。
彼女は、蜀を裏切った。魏も。自分の心にのみ、忠実に従った。
恋敵にもならせてもらえなかった憎い女を殺すことで、愛する男を永遠に傷つけようとした。
そして諸葛亮の意図通り、諸葛亮の計略にはまったく関係なく最高の効果を生み出した。
せっかく仕込んだ毒が、『女の浅はかさ』故に失敗に終わったのだ。司馬懿の怒りは如何ほどのものか、想像に難くない。
「ごめんなさいね」
月英が頭を下げる。
「孔明様を、許して差し上げて」
決して貴女の命を粗雑にしようとしたのではない。それだけは、信じて欲しい。
月英は、に切々と訴えたが、にとってはそんなことどうでもよかった。
「あのひとは?」
月英が口篭る。
「あのひとは、どうなったんですか?」
死にました。
の考えも及ばない、しかし予想通りの言葉が返ってきた。
あの時、姜維が部屋に飛び込み、振り下ろされた刃を昴龍顎閃で弾いた。との間に立ち塞がった姜維に、最早ことを成せぬと悟った瞬間、自分で胸を刺し貫いたのだという。
しばらくは生きていたが、出血が止まらず、そのまま息を引き取った。
「……そうですか……」
ああ。
ゲームの中の話なのに、やっぱりちゃんと死ぬんだな。
「そうですか……」
自分の周りで、こんな近くで、そんな凄絶な死を遂げた人を知らない。
「……そういえば」
あの人、何て名前だったか知らない。
月英に尋ねると、首を横に振った。
「知らないなら、知らないままの方が良いでしょう」
そうかもしれない。はただ頷いた。
「さ、夜が明けるまで今しばらく時間があります。もう少しお休みになるといいでしょう」
月英の勧めるままに牀に横たわる。
目を閉じると、月英は来た時の逆の手順で灯りを消していった。
室内が再び暗闇に戻って、は目を開けた。
色々なことを考えた。