孫策が来ることに、姜維は如何しても納得できないらしい。
 今朝も、孫策を呼び止めて何かお小言めいた進言をしている。
 は、それを別の船から眺めていた。足が痛いので、船縁沿いに移動するか、それ以外は誰かに支えてもらわないと歩くのも覚束ない。
 孫策がの視線に気が付いて、船縁にぴょんと飛び乗った。
 は慌てて船縁にしがみつく。
 孫策が、文字通り空から降ってきて、のすぐ脇の船縁に着地した。どんっ、という物凄い衝撃があり、は煽りを食らってひっくり返りかけた。
 ふわりと軽く受け止められる感覚と共に、にっかりと笑った孫策が真上から顔を近付けてくる。
「危ねぇなぁ、気ぃつけろよ
「誰のせいですか、誰の―――っ!」
 叫び声は、のものではない。姜維が肩を怒らせて、こちらに向けて喚いている。
 姜維も、呉の港で別れた時が嘘のように元気だ。多少は薬草の心得もあるから、との為に薬草を調合したりしているらしい。
 従来の任務もこなしつつだから、は姜維には頭が上がらなかった。
「相変わらず、賑やかなことだ」
 趙雲が呆れ顔で船室から出て来た。
「姜維を宥めるのは、殿や私の役回りなのですよ。少しはご自重願いたい」
 趙雲の諫言にも、孫策は知らん顔だ。
「だってよ、俺はの護衛武将だからな!」
 な、と顔を覗き込まれるが、何と返事をしていいかわからない。
 一国の世継が護衛武将を、しかも他国の一文官の為に勤めるなど、前代未聞だ。
 元からあまり気にしないお国柄なのか、それとも孫家だけの特質なのかは計りかねたが、尚香が『いいんじゃない』と勝手に了承してしまって、劉備も国の大事というわけでもないから『そうだな』で終わりにしてしまった。
 君主とその妻に承認されて、その配下の一文官たるが文句を言っていいものなのかどうなのか。
 言いたいのは山々だが、何か言ったら駄目っぽい雰囲気に流されてしまい、今日まで来てしまった。
 何せ、一応皆それぞれにやらねばならぬ仕事があるし、の面倒を見る春花は体が小さく、を支えるにはちと頼りになりそうもない。
 手が空いているのは、イレギュラーの乗員である孫策ただ一人なのだ。またこの男は、生来の運動能力の高さから、船がそこそこ近ければバッタかいなごのように飛び移れるもので、実はそれなり重宝されている。
 船から船に人が移動するには、船を停めるか速度を緩めなくてはならず、それは船の帰途の速度を遅延させることに繋がってしまう。
 孫策が居れば、一人くらいは抱えて飛び移れるので、怪我の手当てをするのに姜維の乗る船に移るのも、劉備や尚香が退屈して呼びつける時でも、趙雲の側に置いてやろうと尚香が気遣いしても、船の運航にはなんら支障が出ずに済んでいる、とこういうわけだ。
 だが、孫策が重宝され、蜀の船に馴染めば馴染むほど、や趙雲の不安は増していく。
 馬超が見たら、何と言うだろうか。
 途中、立ち寄った荊州で聞き及んだ話によれば、馬超があまりに熱りたつもので、諸葛亮が煩
がって北方で蜀に抗う騎馬民族や異民族の起こす反乱の静定を命じられ、成都からぽいっと追い出されたという。
 何につけ激情を持って当たる彼のことだから、さもありなんと皆が思い、孫策は腹を抱えてげらげら笑った。
 迸る感情を叩き付け、物凄い勢いで併呑して回っているという。あまりの勢いに、魏が対馬超として兵を挙げたという噂まで立っているくらいだ。
 最も、諸葛亮は魏の動きを読んでいて、そこそこの成果が出た辺りで馬超を呼び戻したらしい。
「事の外すんなりと、丞相の命に従われたということですので……」
 姜維の言葉は、逆にを鬱にした。
 たぶん、というか、十中八九が戻ってくるからと吹き込んだのだろう。
 戻ったから良かったようなものの、戻らなかったらどうするのだろう。
 また恐ろしいほどの甘言を弄して、巧みに騙し果せるのだろうな。
 小気味いいほどあっさり引っ掛かる馬超を想像して、は馬岱の心痛を察した。
 とは言え、馬超が戦場から帰って昂ぶっているだろうことは容易に想像できた。
 を呉にやりたくないと行って、毎晩のように通い詰めてきた馬超の手管を思い出す。気のせいか、腰が痛くなってきた。
―――孟起、私、信じてるからね!
 見えてきた蜀の港を見据え、は我ながら嘘臭い台詞を、胸の内で棒読みした。
 船が着くと、港の中はやっと帰ってきた君主やその奥方を歓待し、随行した趙雲らを慰労する人々で沸き立った。
 孫策の腕に抱えられて船を降りたは、白い朱雀羽扇を優雅に煽いでいる諸葛亮を見つけた。
 慌てて地面に降ろしてくれるよう孫策に言っている間に、諸葛亮自身がの元にやって来た。どうぞそのまま、とを留める。
「ご苦労様でした」
 緩やかに微笑む諸葛亮の表情からは、驚きとか訝しさの欠片も感じられない。
 姜維も駆け寄ってきたが、と同じように少し困惑している。
「あの……孔明様、私……戻ってきてしまって……」
「えぇ、初めての任でさぞお疲れでしょう。この後、殿の無事のご帰還を祝する宴を行いますが、貴女方の慰労も兼ねさせていただきます故、一度城に上がり、執務室に行って休まれるといいでしょう」
 そんなことを言っているのではないのだが、はどう訊いたものだか判断がつかない。諸葛亮の意図としては、は呉に留まって劉備の身を危うくすることなく送り出し、尚且つ呉の重臣を、言い方は悪いが誑かすことに専念せよと言うものだった筈だ。内容が内容なので、口に出すのは憚られたが。
「う、あの、ですから、私、帰ってきちゃって……」
「えぇ、ですから、ご苦労様でした……姜維、貴方もよくぞこの任を務めてくれましたね。辛いこともあったでしょうが、よくこなしてくれました」
 にっこりと諸葛亮は微笑み、その笑みから、も姜維もすべてを察した。
 何のことはない、諸葛亮は『は呉の臣の手で送り出されてくる』と読んでいたのだ。
 二人の顔を見比べて、諸葛亮の笑みはますます深く優しいものになる。
「おかえりなさい」
 諸葛亮の言葉は慈愛に満ちていたが、二人は何となくショックだった。

 荷物が降ろされ、船は長旅によって生じたであろう破損箇所を点検する為に手入れをする職人達の手に渡る。
 さて、城に向かうかと一同が列を成して動き始めた頃、遠くに砂塵が沸き立つのを誰かが目視した。
 何だ何だとざわめきが徐々に大きくなり、それにつれて砂塵も大きくなり、その原因たる人馬の影が姿を現し始めた。
 先陣を切って駆ける、一際艶やかな武将は、言わずと知れた西涼の錦、馬孟起その人だった。
 やや遅れて馬岱がその後につけている。
 馬超の表情は、殺気立っているといっていい程精悍だった。
 さっと腕を上げ、後方に合図を送ると、達の前でようやく人馬は止まった。
 埃塗れではあったが、それが馬超の美々しさを損なうことは一切なかった。むしろ、戦の芳香が馬超に独自の色香を添え、男振りを上げているかのようだった。
 馬超はまず、劉備の前に臣下の礼を取り、無事の帰還を祝した。
 劉備は多少面食らいながら、馬超が引き連れてきた軍勢を見回した。
「見慣れぬ装束の者も居るようだが」
「北西の反乱を静定した折、同行を志願した者達を軍に加えました故。皆、良く馬を扱います」
 馬超の言葉に、劉備はそれは何より、と顔を綻ばせた。
 劉備の背後から諸葛亮が進み出る。
「馬将軍、このたびの遠征、真にご苦労なされたと思います。報告は早馬の者から逐一伺っておりました。さすが西涼の錦と言う外はないご活躍ぶり。この諸葛亮、感服いたしました」
 初めは口をへの字に曲げていた馬超も、諸葛亮に誉めちぎられて徐々に嬉しそうな表情を浮かべる。関羽ですら他愛無く宥められる諸葛亮にとって、馬超くらいは何でもないのかもしれない。
殿も、馬将軍の動向を気になさっていたようで、荊州ではあれこれと聞き及んでおられたそうですよ」
 別に誰もそんな報告はしていないのだが、荊州から早馬でも届いたのか、諸葛亮は勝手なことを言い出した。
 の名を聞き、馬超は頬を紅潮させて辺りを見回す。あまりに露骨な喜びように、馬岱は馬の轡を持つ手に力が入ってしまった。
 馬超がを見つけ、一歩踏み出した途端、ぴしりと固まる。
 理由は一目瞭然で、を横抱きに抱える孫策の姿に、馬超の目は釘付けになっている。
「何故、貴様がここにいる!?」
 公衆の面前にも関わらず、堪え切れなかったのか馬超の罵声が飛んだ。
 孫策も、馬超の物言いにかちんと来たのか、頬の辺りがひくついている。
「……手前ぇ、それが手前ぇの同盟国の将に対しての礼儀だってぇのか?」
 馬超も内心しまったと思っているのだろう、口元を押さえはしたが、言った言葉が取り消されるはずもなし、すぐにその手を外し降ろしてしまう。
 険悪な雰囲気のまま睨み合う二人に挟まれ、は冷や汗をかくと共に深々と溜息を吐いた。
 孫策も馬超もそれにはっと気付き、同時にに注視する。
 は手を軽く掲げ、複雑な表情のままただいま、と言う。
「……そんで、おかえり、なさい、孟……馬将軍」
 人前では、身分の差を顧みて余所余所しい敬語を使うこともある。馬超とて理解していた。
 だが、連戦に次ぐ連戦をこなし、ただとの再会を楽しみに蜀への帰途を駆けてきた馬超には、その余所余所しさは胸を突かれるような悲しみを湧き起こさせた。
 を見詰める馬超の目は、見る見るうちに曇った。
 無言で頷き、拱手の礼を取ると身を翻す。
 は、突然表情を変え馬上に戻ってしまった馬超にきょとんとしていた。
 馬超は振り返りもせず、『しからば登城し、城にて劉備殿をお待ちいたす』と言い残して、軍を率いて去っていってしまった。
 華麗な統率に、は目を奪われる。けれど、それ以上に何か良くわからぬ不安に苛まれ、救いを求めるように趙雲に目を向ける。
 の視線に、趙雲は苦く笑って返してきた。
「ありゃあ、何か誤解したな」
 孫策がぽつりと呟き、はへ、と間抜けな声を上げた。
「誤解って、何を」
「俺が知るわけねぇ」
 でも、何か誤解したって顔だったな、と孫策は続けた。
 は遠ざかっていく馬煙りに目をやり、困惑して首を傾げた。

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