旅の汗と埃を落として(孫策が手伝うと言い出して、春花と相当争ったのは置いておくとして)、装束も新たに下賜された物を纏い、宴の間に顔を出した。
 劉備から説明されたらしく、懐かしい蜀の面々はを抱きかかえて現れた孫策に目は向けるものの、さして驚いた様子は見せなかった。
 ただ、張飛などはあからさまに面白くないと顔に出しており、他の面子も大なり小なり同じような反応だった。
 粗暴な面を持つ者もいるが、基本的に真面目な性格揃いの蜀の将達には、『来たいから来た』という孫策のような存在はあまり喜ばしいものではないのかもしれない。
 と言って、孫策は気にした様子もなく、また今回はお目付け役の一人もいないとあって、実にのびのびとした様子だった。
 が渋い顔をして見上げていても、人懐こい笑みを浮かべてにこにこ笑っているだけで、逆にふざけて顔を近付けてくる始末だ。
 の席は、出口側の端に設けられていた。孫策に頼み、席まで運んでもらったのだが、孫策は席に着くなりを膝の上に乗せてすとんと腰を下ろしてしまった。
「ちょ、な」
「俺がいないと不便だろ? 厠とか」
 デリカシーの欠片もない発言に、は口元を引き攣らせる。孫策が言うと、気を利かせて厠の世話までしてくれそうで怖い。
「結構です」
「遠慮すんなって」
 何せ俺はお前の護衛武将だしなぁ、と頭のてっぺんに顎を乗せ、ぐりぐりと押し付けてくる。
「いったいってば!」
 護衛武将がこんなことするか普通、というのもっともな抗議も、けらけら笑って取り合わない。
 足の痛みさえ退いてしまえば、と思うのだが、医師殿の見立てではなるたけ動かさないのが一番いい、ということだったので、も孫策の多少の悪さに目をつぶらざるを得ない。
 それに、孫策相手ならば、気安くあっちだこっちだと指図できるのも大きかったし、触れられていても萎縮することもない。
 なんだかんだ言って、自身も孫策の存在が有り難かったのである。
 ようやく孫策がおとなしくなり、も孫策の膝の上にいることを諦めた頃、馬超が出で立ちも新たにして現れた。
 普段から身に纏っている鎧は脱ぎ、濃緑の上衣に黒い皮の帯を締め、金の縁飾りのついた黒味がかった赤の絹地でアクセントを付けている。
 派手でいて美麗な、いかにも馬超らしい出で立ちだった。
 不意に、と馬超の目が合った。
 心臓が跳ね上がり、肩を竦ませるに対し、馬超は何事もなかったかのように目を逸らし、自分の席に向かって足早に去ってしまう。
 背後から従兄に付き従っていた馬岱は、二人の遣り取りを初めから見ており、心配そうな目を従兄とに向けてきた。も、困ったように馬岱を見返す。
 馬超のことだから、を引っさらって共に登城するくらいは仕出かすかと思っていた。それが、存外おとなしい、というより薄気味悪いほど他人行儀な馬超の様子に、は段々と不安になってきた。
 宴の時でも頑なに己の武装を解こうとしなかった男は、今宵に限って麗々しく着飾っている。何かの符丁かと深読みの一つもしたくなる。
 全員が出揃ったところで劉備が尚香を連れて現れ、宴が始まりを告げた。
 呉の宴はひたすら賑やかにやるのが常例だが、蜀の宴は何を差し置いても呑むのが常例だ。同じ賑やかでも少し差がある。素朴と言ってもいい。
 もっとも、無理強いして酒を呑ませる、ということはまずない。酒好きは酒好きらしく競って己の酒を煽り、他人が呑んでいるかの心配まではしようともしない。
 時たま関平辺りが父を見習えととっ捕まり、無理矢理一気させられるのを見かける程度だが、それとて宴の最中に一度あるかないかだ。
 も慰安を兼ねて酌を受けることはあっても、怪我に触るからと相手が自発的に気持ち程度に抑えてくれる。
 代わりに孫策はよく呑んだ。の分も、と言わんばかりの勢いで呑むので、しばらくするともぞもぞと身動ぎし始めた。
「……いってらっしゃい」
 察して、孫策の膝の上から腰をずらして退く。孫策は少し照れ臭そうに笑い、悪ぃ、とそっと廊下に出て行った。
 お目付け役がいない程度で、よくここまではしゃげるものだ。
 が呆れて孫策の後姿を見送っていると、何処からか気配を感じた。
 何の気なしに振り返って、ぎょっとする。
 席を立って騒ぐ将達の合間から、馬超がじっとこちらを見ていた。
 怒りを堪えているような、熱く鋭い眼差しだった。
 孫策に向けてならともかく、何で自分がそんな目で見られなくてはならないのか。
 う、でも、当たり前か。
 馬超に想いを寄せられている。未だ信じ難いが、肌を合わせたのも一度や二度ではなく、その度にぶっきら棒な睦言を聞いている。
 そのが、孫策とべったりしているのを見てしまっては、幾ら怪我のためとは言え腹が立って仕方ないだろう。杖をつけばいいと、馬超はそう主張したいに違いない。
 も、松葉杖があればなぁと思わないでもないが、松葉杖よりは孫策の方が遥かに便利で楽なのだ。ついつい孫策を頼ったとしても、少しぐらいは目をつぶってもらいたい。
 甘いか。
 一方的とは言え慕ってくれている相手に、あまり惨い仕打ちをするのも何である。孫策を頼るのは、もうやめよう。
 とりあえず、馬超と話をすることにした。お酌をしに行けば、不自然と言うわけでもないだろう。
 は痛む足を引き摺って、えいや、と体を起こした。
「……どうかしましたか」
 壁沿いに手をついて歩き出そうとしたに、星彩が声を掛けてくる。
 そのクールビューティーさ故に、が蜀で最も苦手だと認識している子である。思わず、言葉に詰まった。
「……お手洗いなら、私が付き添いましょうか」
 の様子から何か誤解したらしい、気を利かせてくれるのだが、別に尿意を催して立ち上がったわけではない。親切は有難かったが、この場合は逆効果だ。
 馬超に目を向けると、ちょうど諸葛亮に話しかけられていた。恐らく、戦の手柄を賞されているのだろうが、何とも間が悪いことである。
 しばらく話は終わらなそうだ、とは溜息を吐いた。
「……私、何か……してしまったのでしょうか……」
 珍しく気落ちした星彩の声に、は慌てて首を振った。
「いや、いや、そんなことないですって。それより、星彩殿こそどうぞ」
 の席は、宴の間でも末席の位置である。通りすがりだと思い込んだは、体をずらして道を開けてやる。
 ところが、星彩は頬を赤らめて俯いてしまった。
「あの……そうではなくて……殿、何でも歌がお上手とか……」
 噂で聞いて、もし良ければ聞かせてもらえないかと思って。
 はにかみながら申し出る星彩は、の目から見ても初々しい。
 関平、劉禅組ノックアウトっすかー!?
 思わずガッツポーズを取るに、星彩は困惑した目を向ける。
「あの……駄目だったら、私……」
「いやっ、駄目じゃないッス駄目じゃないッス」
 気のせいか後退る星彩を、慌てて引き留める。
「あ、でも、上手いってわけじゃないですよ。呉の人達も、変な歌だから面白がって聞いてただけで」
 星彩の目が丸く見開かれる。
 ほとんど直接話したことがなかったが、こうして真向かいに位置して話をしていると、微々たる物ではあるが素直な感情が表れているのがよく分かる。変化が乏しいから、離れていては気がつくまい。だが、一旦気付いてしまえば、冷たい無表情は繊細さがもたらす結果とわかり、単純なはそれだけで気を良くした。
「……座ってもいいですか?」
 星彩の了承を得て、はよっこらせっと勢いをつけて座った。やはり、立ったままでいるのはまだ辛い。
 を伺うように立ちすくむ星彩に微笑みかけ、はすっと息を吸い込んだ。
 壁に向かって歌い出す。リズムに併せて体を揺らし、調子を取る。
 こんだけ騒いでいるのだから誰も気がつくまいと思っていたのだが、ふと気配に振り返れば、皆が皆を注視している。
 げ、と一声呻き、は歌うのを止めた。顔がみるみる赤くなる。
「何で止めんだよ」
 いつの間にか戻ってきていた孫策が、やはり柱の影から半分身を乗り出して文句を垂れた。
 隠れていれば歌うと、何故か思い込んでいるらしい。
「なっ、何でじゃない何でじゃ!」
「今のは、俺、聞いたことないぞ。歌えよ」
 偉そうに踏ん反り返る孫策に、は八つ当たりで膳にあった箸置きを投げつけた。憎たらしいことに、何の気なしに受け取り、けらけら笑っている。
 むっとして孫策を睨み付けていたは、死角に魏延が立っているのにようやく気がついて、仰け反って驚いてしまった。
「……我……モ……聞キタイ……」
 仮面の下の目が、じーっとを見詰める。
 は、魏延に何となく弱かった。年は、それこそ劉備や関羽よりも上の筈なのだが、無垢と言うか純粋と言うか、の知る限り魏延はそれこそ鄙びた年寄りのように穏やかで、子供のように無邪気なのだ。
「……き、聞きたいですか」
 否とは決して言わないだろうと思いつつ問いかけ、ウン、と大きく頷かれては机の上で沈没した。
 しばらくぴくりともしなかったが、もぞっと顔だけ魏延に向け、相も変わらずじーっとを見つめている魏延に、は眉間に皺を寄せた。
 おもむろに溜息を吐き、高らかに歌い始める。先程の声の大きさなど比ではない、自棄になったかと思える程の声量だった。
 魏延の目が嬉しげに細められるのを見て、も苦笑を浮かべた。苦笑は微笑に変わり、は魏延を柔らかな目で見つめながら歌を歌う。
 歌い終わり、おしまいです、と言うと、魏延は深く溜息を吐いた。
……歌……ウマイ……」
「そら、有難うございます」
 ははは、と乾いた笑い声を漏らしつつ、ちょい、と腰を屈める真似をする。
 魏延は、動こうとはしなかった。
 も、魏延を見つめて笑顔のまま固まっている。
「……もう一回、とか言う……」
 わけないですよね、と続けたかったのだが、言う前に魏延に頷かれてしまった。
 舌先三寸で丸め込むこともできない。相手は、魏延なのだ。
「……じゃあ、もう一回、だけ、ですよ」
 嬉しそうに笑う魏延を見て、本当にわかってるのかなぁと苦笑する。
 ―――案の定わかっていなかったと知ったのは、歌い終わってすぐのことだった。

 散会の合図があり、がふと馬超の席に目をやると、その席は既に空席だった。
 は、深く溜息を吐いた。

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