時間がないまま、二人の熱を体に刻み付けた。
 体は疲れて眠りにつこうとするのだが、意識ははっきりとしていてそれを許さなかった。
 今日呉に向けて出立するのであれば、がやらねばいけないことは山程あるはずだった。その時間に追われる感覚が、の神経を尖らせて眠らせないのかもしれない。
 趙雲が用意させてくれた湯を浴びるのも、取り急ぎだった。
 誰か来る、そんな予感がしたのだ。
 汗や愛液で汚れた体を清め、文官の装束に身を包むと果たして来訪者が在った。
 姜維だった。
 拱手の礼を掲げる姜維は、礼を取ると寂しげに笑った。
「約束を果たしに参りました」
 春花はまだ来ていなかったが、置手紙を書く時間も惜しかった。
 は姜維の傍らに寄り添い、共に厩へと足を進めた。

 風が冷たい。
 姜維が用意してくれた上掛けがなければ、きっともっと寒かっただろう。
 上掛けを纏い、姜維の胸にもたれて過ぎ行く光景に目を向ける。時々姜維を見上げれば、姜維は優しく微笑んでを見詰めた。
 木立を抜ければ、そこはかつて姜維がを案内してくれた場所だった。
 冬を迎えようとして葉を落とした木々は、色を渋く落ち着いたものに転じさせてはいたが、間違いない。色の変化は、却って重厚な壮大さを演出しているようだった。
 歴史ある国。
 そんな言葉がしっくり来るような、そんな風景だった。
 自分はやはり、この国が好きだ。この国の人々が好きだ。
 熱く昂ぶる気持ちを冷ますように、一陣の風が吹き抜けは己の体を抱き締めた。
 背後から温もりに包まれる。姜維だ。
 少年の面影を色濃く残す姜維も、その手は武人のものらしく大きくごつごつとしていた。
 華奢に見えがちな骨格も、こうして包まれてしまえば意外に骨太なのだと気付かされる。
「……行かせたく、ありません」
 さんざ諸葛亮に言い聞かせられただろうに、そんなことを言う。
 今朝時間を取れたのは、今日を逃せばが呉に旅立ってしまうからだと知らされたからだろう。諸葛亮に願い出て時間を得たのかもしれない。さもなければ、勤勉な姜維が積み重なった仕事を置いて出てくるとは思えなかったからだ。趙雲のように要領良くもなければ、馬超のように堂々と職務放棄もしない。姜維の頑固なまでの真面目さは、には共感できる、心落ち着くものだった。
「帰ってくるから」
 の言葉に、姜維の腕に力が篭る。
 行かせたくないと、今度は行動で示しているようだった。
 は姜維の手に自分の手を重ねた。
「帰ってくるから、待ってて」
 姜維の唇がそっとのこめかみに押し付けられる。
 微かな吐息が熱を帯びていた。
「帰ってくるというのは、帰ってから言えることです。何時になるとも知れない帰還をただ待ちわびることが、どれだけ辛いことかなど貴女にはすぐお分かりいただけるはずなのに」
 行っている間はただ行っているだけ。戻ってきて、初めて『帰る』ことになる。
 屁理屈だ。
「……じゃあ、訂正。私、ここに帰ってきたい。姜維、待っててくれる?」
 姜維の顔が苦笑いに歪んだ。目元が湿っているのを、は敢えて見ないことにした。
「やっぱ、もう一回訂正。待ってなさい。私、絶対ここに帰ってくるから。姜維は、私を信じて待ってること。いいね?」
 の傲慢な言葉に、しかし姜維は笑って頷いた。
 抱き寄せる手は強く、姜維の心を移しこむかのようだった。

 城に戻ると、春花が仁王立ちで出迎えてくれた。
「何をなさってたんですか、早くお支度しなければ間に合いませんよ!」
 室の荷物は整理されてがらんとしていた。
 元々呉に向かうつもりで運び出しやすいように春花が整理していたから、手間もさほどかからな
かったのだろう。
「お支度」
 文官の装束を纏っているから、もうこれ以上の仕度はいらないはずだ。
 しかし、春花はにやりと笑った。その不敵な笑いに心臓が跳ね上がる。
「う、ま、まさか」
「そのまさかです! 逃がしませんよ、さま!」
 それが終わらないと最後の荷物が運び出せないのだと、春花は半ば脅迫してを黙らせた。
「うわぁん、お手柔らかにー」
「そう思うのでしたら、おとなしくなさっていて下さい!」
 の手を引っ張り室の奥に向かう春花が、顔を見せないように振舞っているのをは知っている。
 泣いているのだ。
 は春花を連れて行くつもりはない。
 そして、春花もそのことを納得してくれた。
 今日で一度二人は別れなければならなくなる。
 また会うのだとは決めていた。何時になるかはわからなくても、は必ず再び春花と会う。
 だから、この別れに涙など必要ないのだ。
「春花」
 けれど。
「……春花!」
 やはり零れ落ちてしまう涙に、は春花を抱き寄せた。
 春花もの胸にしがみ付く。
 二人で抱き合って、わんわん泣いた。

 港まで、姜維が送ってくれた。
 船着場にはそれほど人気はない。が、忙しく行きかう船乗り達や荷担ぎの男達の掛け声でかなり賑やかだった。楽隊や兵士が物々しく列を揃えている代わりに、国の重臣達がうろうろとしているのが何だか滑稽だった。
 馬岱の顔を見つけて駆け寄ると、の顔をまじまじと覗き込んでくる。
「目が」
 一言で泣いていたことを示唆されたとわかり、は頬を染めた。
 泣き明かして時間がなくなってしまったのだ。口元に薄く紅を刷いていたが、化粧はそれだけしかできなかった。髪も一応纏めてあったが、朱色の紐で括られているだけで飾り立ててはいない。
「えと、孟起は?」
 姿が見えないことを気にすると、馬岱はにっこりと微笑んだ。
「何でも、医師殿の言いつけを破って悪さをしたとかで、執務室に監禁されております」
 悪さと言う言葉にぎくっとした。
 まず間違いなくとナニをいたしたことを察知されてしまったのだろう。折れているから動かしてはいけないとでも言われていたのかもしれない。
「ば、馬岱殿はここに来られても良かったんですか」
 いやぁ、とあくまでも爽やかに馬岱は頭を掻いた。
「屠殺される豚のような声を上げる従兄上など、見たくありませんでしたので」
 絶句するに、馬岱はご心配なくと笑いかける。
 医師がわざと痛くしているだけだからと言われても、心配するなと言う方が無理なのではないだろうか。
「家畜は」
 真面目腐った馬岱が、の手を握り締めて言う。
「痛い目に遭わねば物を覚えないのですよ」
 言うにこと欠いて凄いことを言う。
 ひええ、と思わず漏らしたに、馬岱はさも可笑しそうに笑った。
「……いってらっしゃい、殿。どうか、ご無事で」
 優しい眼差しは、馬岱がの心を軽くしようと気遣ってくれた証のようだった。
 は涙腺が緩むのを感じながら、力強く頷いた。

「もう、趙雲も馬超も何してんのよー!!」
 私がもらうって言えば良かった、と今更暴れているのは尚香だった。
 まあまあ、と宥めながら、は小指を差し出す。
「あちらで、手が空いた時間を使ってお話を書簡に書いて送ります。話を聞くのも楽しいかもしれませんけど、そういうのもきっと楽しいですよ」
 挿絵も描きましょうというと、尚香の目がぱっと輝いた。
「ホント!? 絶対!?」
「はい、ホントの絶対ですよ。私が帰ってくるまで、それで我慢してて下さいね」
 指きりの仕方を教えると、尚香は嬉しそうに指を絡めてきた。
が居ない間、私が春花の友達になるわ」
「……はい、よろしくお願いします」
 指を離すと同時に、互いに抱き合って別れを惜しんだ。
「絶対、絶対帰ってきてね!」
「はい、絶対、絶対帰ってきますっ!」
 主従を越えた二人の仲睦まじさに、他ならぬ劉備がやきもきとした。

 趙雲は静かにを見詰めている。
「いいのですか」
 姜維が、少しイラついたように趙雲に問い掛ける。
 趙雲はただ薄く微笑むだけだ。別れの愁嘆場だと言うのに、趙雲は常の趙雲だった。
「別れの儀式は、既に済ませた」
 朝方までを抱き締め、その身に熱を刻んだ。欲すれば限がないから、もういいのだ。
「私には、わかりかねます……」
「お前は未だ、を抱いていないだろう」
 だからわからないのだと揶揄されれば、事実なだけに姜維に言い返す言葉はなかった。
 その時、が趙雲の姿に気付いた。
 笑みを浮かべて駆けてくる。
 趙雲の長身に飛びついてしがみつくを、趙雲は驚愕しつつも抱きとめた。
「待っててね! 手紙頂戴ね! 私も、なるべく書くから!」
 手を離して飛び降りると、趙雲の横で呆然としている姜維の手を取り、ぶんぶんと振り回して同じことを言う。
 じゃあね、またね、待っててねと大きく手を振り駆けていくを、二人は唖然として見送るしかなかった。
「……あの、女は……」
 苦々しく呟く趙雲の横顔を見詰めていた姜維が、不意に吹き出し大声で笑い出した。
 趙雲も、しばらくはそんな姜維に冷たい目を向けていたが、釣られたように笑い出す。
 美麗な二人の将の珍しい馬鹿笑いに、周囲の者も釣られてにこにこと笑っていた。


 魏延がてこてことやって来た。人垣が割れるように空間が空くのを、はやはり切なく感じた。
「歌」
「あ」
 武道大会なんてものがあったのですっかり忘れていたのだが、魏延に歌を歌う約束をしていたのだ。
 そう言えば、と更に医師から薬をもらう約束をしていたのを思い出す。必ずと言ったのに、色々あり過ぎて忘れてしまっていた。
 やべえ、どうしようと汗が噴き出す。医師は城に居るだろうが、今からでは到底間に合わない。

 涼やかな声に振り返れば、諸葛亮が立っていた。
 の脇に立つ魏延が、怯んだように後退る。
「これを。医師殿から、お預かりしたものです」
 少し大きめの麻袋を開けると、中には更に小さな袋と、処方を記した竹簡が収められていた。
 何処まで気が回るのだかと薄ら寒くもなったが、頭を下げて礼を述べ、医師にもよろしく伝えてくれるように頼んだ。
「魏延将軍」
 諸葛亮は、常の冷たい視線を魏延に向けた。
 何か酷いことを言うのではないかとは半歩横に進み出て、魏延を背に庇う。
は、出立まであまり時間がありません。歌を歌わせるなら、あまり長い間拘束しないよう」
 それだけ言うと、諸葛亮は誰かに気付いたように立ち去ってしまった。
 あ。れ?
 気抜けしたは、魏延を振り返り二人で目を見合わせる。
 破顔した魏延が、うぉっと一声吠えてに飛び掛り、その体を高く抱きかかえくるくると回りだした。
「ぎ、魏延殿、そんな回ったら、歌えませんって!」
 しかしもまた、込み上げる嬉しさに声を立てて笑った。
「お前さんも、素直じゃないねぇ」
「何のことですか」
 不機嫌そうに白扇で顔を隠す諸葛亮は、達をちらりと見遣ると如何にも嫌そうに目を逸らした。
 ホウ統は、ただ声もなく可笑しそうに諸葛亮を見上げるだけだった。

 船が出る。
 は身を乗り出し、大好きな人達に手を振った。
 劉備も、関羽も、張飛も、尚香も、趙雲も、姜維も、諸葛亮も、月英も、ホウ統も、魏延も、黄忠も、関平も、馬岱も、皆を見詰め微笑んでいた。
 いってらっしゃい、気をつけて、と口々に声が掛かる。
「いってきまぁーす!」
 落ちそうになるを、隣に居た孫策が慌てて支えた。
 船が港から離れ、人々の顔も見えなくなると、の胸に寂寥感が込み上げる。
「……ホントに、大丈夫か」
 課題がすべて解消されたわけではない。
 夢を見ながらうろつくのが何故かは、結局わからなかった。呉に出向いて何をどうすればいいのかも、結局わかってない。
「……ま、何とかなるよ」
 何ともならなかったら帰るから!
 力強いの言葉に、孫策は口をへの字に曲げた。
「帰さねぇぞ」
「え、何か言った?」
 孫策が呟いた言葉は、には届かなかったらしい。何でもねぇと誤魔化し、孫策はようやく自分の手元に返ってきたを抱き締めた。
「貴様、不埒な真似は許さんぞ!」
さま、ちゃんと抵抗なさって下さい!」
 途端に上がる厳しい咎め立ての声に、二人はびくりと身を震わせる。
 辺りを見回すと、川岸の断崖の上に、馬超が春花を乗せて馬に跨っているのが見えた。医師に監禁されていたのではなかったのか。馬超のことだから、振り切って出てきてしまったのかもしれない。
「勝ったのは、俺だからな! 貴様には、貸してやるだけだ! 触るな!」
さま―――!!」
 二人に向け、はできる限り手を伸ばす。
「いってきます! いってくるから、待っててね!」
 不意を突いた見送りに感動して涙ぐんでいるとは裏腹に、孫策はやっと二人になれたと思ったのにと埒もなく不貞腐れていた。
「……畜生、船の中ならこっちのもんだからな」
 呉に着けば、またぞろ手強い恋敵からを守らねばならない。船に乗っている今この時だけが、孫策にとっての蜜月なのだ。
 だが。
「そうは参りません」
 孫策が思わずげっ、と唸る。星彩が船室から出てきたのだ。
「呉への往路、私がこの船団をお預かりすることになっております。左様、お心留め下さい」
「なっ……き、聞いてねぇぞ!」
「蜀国から出す貴人を乗せた船を、護衛もせずに送れましょうや。ご確認なさらなかったのは、失礼ながら孫策様の手落ちかと」
 『往路』と言ったり『手落ち』と言ったり、容赦ない星彩の目がふと和んだ。
「え、星彩!?」
「お姉さま!!」
 に駆け寄り、その豊かな胸に掻き抱く。は突然のことに慌てふためいているが、星彩はただただうっとりとしてを抱き締めていた。
 そう言えば、熱狂的にを慕っている星彩が見送りの場に居ないのはおかしいと思ったのだ。
 三隻もあるんだ、せめて別の船に乗れよと零す孫策に、くるりと振り向いた星彩の目は冷ややかだった。
 先が思いやられる。
「せっ、星彩、苦しい!」
 喚きながらも、は嬉しそうに笑っていた。


  終

←戻る ・ 最後に→


Together INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →