跳ぶのに掛かる時間がどの程度になるのか、犀花には分からない。
一瞬のような気もするし、少し時間が掛かっているような気もする。
要するに、然程時間は掛からないということだけが分かった。
何せ、犀花が跳んだのは今回を含めてもたったの三回だ。
内の一回は気絶している。
だから、比較しようがない。
ないのだが、何かが違った。
何が違うのか、思考の糸を手繰り寄せようとした途端、全身に纏わり付いていた不可思議な空気が剥がれ、吐き出されるかの如く中空に投げ出された。
犀花がまず見たのは、透き通る美しい青だった。
空だ、とすぐさま思い至ったものの、そこから導き出された状況に血の気が引く。
空以外の何物も視界に入らない、ということは、犀花が吐き出されたのはかなり高く、かつ何もない場所ということだ。
認識するより早く、眼が周囲を見渡している。
まばらな緑の向こうに、大きな池――湖だろう――が見える。
直下には、乾いた土が広がっていた。
犀花は、その土に向かって落ちているのだ。
「~~~~~~~~っ!!」
声にならない悲鳴が迸る。
「犀花」
真っ逆さまに落ちる体が、わずかに横に引き寄せられた。
「大丈夫」
ぐるん、と視界が引っ繰り返る。
大地と空が交互に見え、突然何かが覆い被さった。
ずしん、と腹に響く音と振動が犀花を襲い、ありもしない痛みに身をすくめた。
ありもしない故に、いつまで経っても痛みはない。
恐る恐る目を開くと、押さえ切れない笑いを滲ませた陸遜の顔があった。
「わ……!」
笑うな、と怒鳴り掛けた犀花は、気圧されて苦情を飲み込む。
陸遜の顔から温かな笑みが掻き消え、戦場に立つ将の姿に転じていた。
「り……」
声掛けようとする犀花の口を、陸遜の指先が素早く制す。
何を殺気立っているのか、犀花にはまったく分からない。
が、陸遜に構った様子はない。
矢庭に犀花の手を引くと、その場から駆け出した。
「り、陸、遜」
声が揺れるのは、走っているからだけではない。
言いようのない不安に、犀花の心臓までもが走り出している。
不意に、背後から何か聞こえたような気がした。
真っ直ぐ走っていた陸遜が、犀花の体を抱き込む。
陸遜の軽やかな跳躍と共に、二人の体は急な坂を滑り落ちていく。
頬や手足に、過ぎ行く灌木の枝葉が当たり、微かな痛みをもたらす。
崖に近い急な坂を滑り降りると、陸遜は流れるような動作で犀花を下ろし、再び駆け出した。
細い、人一人が通るのがやっとというような、道とも付かぬ段差のような場所だ。
陸遜の必死の先導も、立ちすくむ犀花を急き立てるのがやっとだった。
訳がわからないから、尚更だろう。
上の方から、いななきが聞こえた。
同時に、人の怒声のようなものが聞こえてくる。
一人ではない。
二人、否三人かそれ以上だ。
騎兵だと、直感した。
それも、敵の兵だ。
犀花は青ざめた。
自分の悲鳴が敵兵を招いたのだと、ようやく理解した。
しかし、何故だ。
「ここ、呉じゃないの!?」
呉から跳んだのだから、呉に戻るものと思い込んでいた。
一体、ここはどこだ。
陸遜が振り返る。
苦渋そのものの表情だった。
「恐らく、ですが……」
前置きはしたものの、その声音は確信に満ちていた。
合肥、という地名は、犀花にも馴染みがあった。
ゲーム内で、必ずステージとして登場するその名は、即ち魏の支配下を意味する。
眩暈がした。
知らず内に震える唇を、陸遜が自分のそれで静かに触れる。
こんな時に、と思うも、犀花を見詰める陸遜の目があまりに深くて、抵抗を忘れた。
「……落ち着きましたか」
頷くと、陸遜が小さく溜息を吐く。
安堵させてしまうくらい、取り乱していたのだろうか。
「犀花、今の内に幾つか話しておきたいことがあります」
頷けば、頷き返される。
「足を、くじきました」
言われて、犀花は思わず自分の足元を見遣る。
下の方に生える灌木との距離に、慌てて視線を戻した。
そして、気付く。
「陸遜、私のせいで……」
相当な高さから、体術の心得など欠片もない犀花を抱えて着地したのだ。
無敵を誇る将と言えど、少なくない負担が掛かって当然だ。
陸遜は微笑む。
犀花の為に、微笑んで見せる。
「たいしたことはありません。ですが、万全では決してありません……無事にこの地を脱する為に、犀花にも協力してもらわなければならないでしょう」
無論だ。
「何、すればいい?」
陸遜が口籠った。
それでも、犀花は陸遜の指示を待つより他ない。
「荷物を、捨てて下さい」
沈黙が落ちた。
犀花は、背中の荷物に目を向ける。
跳ぶ時に振り落とされないよう、わざわざ購入したリュックだ。
中に、厳選した嗜好品と、友人からの心尽くしの品が仕舞い込まれている。
ここに来て早々に、捨てる羽目になるとは思いもよらない。
「………………」
躊躇っている暇はなかった。
犀花は、腰に回したベルトを外し、ゆっくりと肩を抜く。
斜面に沿うようにリュックを置くと、手を離した。
自身の重量を誇るように滑り落ちていく。
途中、何か突き出た石でもあったのか、跳ね上がって遠くへ飛ぶ。
毬のように跳ねたリュックは、どこに落ちたか分からなくなった。
陸遜の気遣わしげな視線に、犀花は無理やり笑顔を作って応えた。
「行こう」
道の先に目を向ける。
薄緑色に染まった湖が見えた。
陸遜は、犀花の手を引き歩き出す。
すべて己の至らなさが招いた危機だったが、尚陸遜に頼らざるを得ない。
自分の無力さを奥歯で噛み締めながら、泣きたい気持ちを堪えた。
泣いている場合ではないのだ。
今は、無事に逃げおおせることが肝心だ。
最悪、陸遜だけでも逃がしてやらなければならない。
犀花の緊張は、一歩ごとに増していった。
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