時に駆け、時に身を潜め、半日も経っただろうか。
 犀花は、心身共に限界を迎えつつあった。
 敵は、一度もその姿を見せていなかった。
 にも関わらず、その気配が絶えることはない。
 見えない敵に追われる恐怖が、これ程に重く息苦しいものだと犀花は知らずにいた。
 戦場には慣れているだろう陸遜にも、疲労の影は濃い。
 ただでさえ軽くない足の怪我に、足手まといを連れての逃避行となれば、負担も倍増しに違いない。
 先程捨てた荷物のように、犀花にも見切りを付けて捨ててしまえばどんなにか楽だろう。
 けれども、陸遜はそうしない。
 出来ないと言った方が正しいかもしれない。
 犀花を見捨てることは、陸遜の自尊心を捨てることと同義だ。
 自尊心を失って生きる陸遜など、陸遜であって陸遜でない。
 本人もきっとそう理解していて、だから決して犀花を見捨てられない。
 ならば、どうするべきか。
 犀花はずっと考え込んでいた。
「…………!」
 陸遜が止まる。
 突然のことに、疲れ切った犀花の足はふらつき、前のめりに倒れ掛けた。
 よろめく犀花を抱き留め、引きずるように踵を返す。
「急いで」
 鋭く尖った声音に、危機感が滲んだ。
 反転した二人の眼前に、降って湧いたかの如く敵兵が躍り出る。
 揃って青が基調の鎧を纏っていた。
 間違いなく魏兵だ。
 兵達が作る壁の一部が割れ、いかにも軍師然とした男が姿を見せる。
「手こずらせてくれたな……だが、所詮はその程度よ」
 どこかで聞いた声だ。
 神経質そうな切れ長の目、日焼けしていない白い肌、口の端を捻じ曲げて浮かべる特徴的な笑みにも、どこか見覚えがある。
 装束にはいささか違和感があったが、その理由までは定かでない。
「……司馬懿……?」
 ぽつりと呟いた声に、陸遜がはっと振り返る。
 軍師然とした男も、一瞬不思議そうに顔を緩ませるも、慌てて不敵な笑みを作り直した。
「私を知るか。ならば、これ以上の抵抗は無駄と知れ」
 本当に司馬懿だった。
 あのいけ好かない、ねちっこい追跡が司馬懿の指揮によるものだと思えば、なるほど納得だ。
 嬉しくはない。
 犀花が眉間に皺を寄せた時、司馬懿の背後に一人の男が現れた。
 放たれる不思議な威厳が、豪奢な装束によるものだけではないのが明らかだ。
 誰だ、と犀花は目をそばめる。
 態度からして、司馬懿と同等以上の立場に見える。
 見覚えが、あるようなないような、何とも歯痒い気分にさせられた。
「……おい」
 苛立たしげな声に我に返れば、司馬懿が顔面を引き攣らせてこちらを睨んでいる。
 ゲーム設定と変わらぬ神経質さに、時と場合を忘れて吹き出したくなった。
 犀花と陸遜の背後には、急勾配の、坂と称していいかも迷うような傾斜が続く。
 向かっていた先には岩が重なる坂があり、その上に、先程までは見えていなかった兵が顔を出していた。よく分からないが、見え隠れする棒状のものを手にしており、恐らくは弓兵だろうと察しが付く。
 背後は坂、行く手は弓兵、来た道は希代の軍師に塞がれていた。
 最初から、ここに追い詰めるつもりで二人を誘導していたのだとすれば、司馬懿の言う通りにこれ以上は『無駄』なのだろう。
――でも。
 犀花は、自分をかばって前に立つ陸遜の、端正な相貌を見遣る。
 陸遜一人であったなら、こうも見事に追い詰められることはなかっただろう。
 犀花が一介の武人なり、せめて文官なりであったなら、逃げようは幾らもあった筈だ。
 足の怪我も、選択できる道を限りなく狭めたのも、原因はすべて犀花にある。
 それでも陸遜は、荷物を捨てさせるくらいしか策がなかったことを悔い、自身を苛烈に責めているだろう。
 今も、犀花を助ける手立てを考え、考えあぐねて苦悩しているに違いない。
 陸遜のせいではないというのに、だ。
 罪のない人が罪を犯したと苦しむ矛盾に、犀花はやるせない胸を押さえた。
 この状況に甘んじているだけでいい筈がない。
「陸遜」
 声はかすれてしまったが、陸遜の耳にだけ届くのはちょうど良かった。
「この坂、降りれる?」
 目は向けない。
 陸遜も、犀花の思考を読み取ってか、わずかに犀花を振り返るに留めてくれた。
「行けます」
 即答に近い。
 頼もしさに、犀花の頬が緩んだ。
 犀花の笑みに動揺したか、司馬懿の左手が反応する。
 岩山の上に居た弓兵が、勢い込んで立ち上がり、矢をつがえる。
 矢は、向かってこなかった。
「…………」
 目標が二手に分かれたからだ。
犀花!?」
 陸遜の声に、失望と怒りが混じっている。
 その声に押され、犀花は前のめりに駆け出していた。
 二人を囲んだ兵にも、凄まじい動揺が走る。
 呉将が一人で、しかもかばっていたと思しき女に突き飛ばされて坂を落ちるとは、想定していなかった。
 しかも、女は四つ足で疾駆する獣の如き勢いで、司令たる司馬懿へ躍り掛かっていく。
 通りすがりに兵の腰から剣を抜き取り、構えるという離れ業まで仕出かして、だ。
「な」
 司馬懿の眉尻が、驚愕に吊り上がる。
 けれど、犀花の目標は司馬懿になかった。
「……ぃや、あ、あ、あ、あ、あ、あっ!!」
 些か間の抜けた、それ故にか胆を冷やす咆哮が上がる。
 渾身の突きが、司馬懿の斜め後ろに立っていた男に向けられる。
 誰もが息を呑んだ瞬間、強烈な火花が視界を割った。
 犀花の突きが、男の長剣によって防がれている。
 交えた刃がみりみり震え、ぎしり、と嫌な軋みが響く。
 男の口元に、皮肉気な笑みが浮かんだ。
「あっ」
 男が腕を払うと、犀花は容易く横転する。
「捕らえろ」
 男の指示に、呆然としていた兵がわっと殺到した。
 犀花の抵抗は物の数にも入らず、歓喜に似た騒乱の中であっという間に縛り上げられる。
「呉の将はどうした」
 他の兵達が、これまたはっとした面持ちで坂下を覗き込む。
 目に鮮やかな紅の装束は、既に跡形もなく消え失せている。
 困惑した様で首を横に振る兵に、犀花は荒い息の下、安堵の吐息を漏らす。
 万に一つの賭けだった。
 勝率は低かったが、上手く陸遜を落とせた時点で、陸遜の命は助かるという確信があった。
 その後の行動は自暴自棄も同然の愚行に過ぎないが、陸遜から注意を逸らしたい一心で動いたまでで、自分がどう動いたのかも思い出せない。
 今更ながら、全身に冷や汗が浮き、滴り落ちるのを感じる。
 胃を直接掴まれて、揺さぶられているような気持ち悪さがあった。
 そんな犀花を、男は見下ろしている。
 何を考えているか、まったく読み取れない表情だ。
「馬鹿め……馬鹿め馬鹿め、馬鹿め!」
 血管が切れそうな程に怒り散らし始めた司馬懿に、男はふっと視線を向ける。
「良い、司馬懿。新兵達には、手頃な訓練となったろう」
 声を掛けられた司馬懿は、即座に口を噤み、渋々ながら頭を下げた。
――え、誰?
 並の将であれば、司馬懿が平伏する筈がない。
 当然のように平伏しそうな将となると、相手が限られる気がする。
 縛られ、膝を着かされた犀花と男の目が合う。
 冷たい目だった。
 腹の底まで見透かされ弄られるような不快さがあったが、上から頭を抑え付けられているせいで、顔すら逸らせない。
「お前が、犀花か」
 いきなり名を呼ばれ、目が丸くなる。
 意図が読めずに黙り込んだ犀花だったが、沈黙があからさま過ぎて認めたも同然だ。
「行くぞ」
 男が身を翻すと、司馬懿が拱手の礼を取る。
 頭を上げた司馬懿は、犀花に嫌みたらしい笑みを向け、兵達に向け顎をしゃくった。
「連れて来い。あの『臥龍の珠』だ、くれぐれも丁重に扱ってやれ」
 含みのある言葉に、兵達が声もなく笑う。
「立て」
 乱暴に引き起こされ、釣り上げられた腕に痛みが走る。
 顔を顰めて立ちすくんだのを反抗的と取られたか、蹴られた拍子によろけて進む。
 逆の意味で正しく『丁重に』扱われながら、犀花は歩き出した。
 行く先はきっと合肥城だろう。
 言いようのない不安に襲われるが、犀花は足を踏ん張り、胸を張った。
 陸遜を助けられた。
 今まで、守られてばかり、足を引っ張ってばかりだった自分が、初めて守れたのだ。
 それは誇っていいことだ。
 どんな目に遭わされるか分からないが、犀花を『臥龍の珠』として認識しているのなら、早々下手な真似はしないのではないか。
 甘い考えかも知れないが、されてもいないことで怯えて醜態を晒すなど、死んでも御免だ。
 何せ『臥龍の珠』なのだ。
 犀花の失態は、諸葛亮の恥だ。
 出来る限りで構わない。
 凛々しく、毅然と、堂々と振る舞おう。
 せめて、態度だけはと背筋を伸ばす。
 決意は固かったが、犀花は唇が震えていることに気が付いていた。
 きつく噛み締めて震えを止める。
 噛み締め過ぎて、歯が唇に食い込んだ。
 血の味がした。  
 

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