夜半、陸遜は突然の訪問を受けた。
 魯粛である。
 が、陸遜は厭わず受け入れた。
 誰がしかが訪ねてくることは、あらかじめ予想されていたことだ。
 むしろ、訪問者が一人きりだったということの方が意外だった。
「他の方は」
 思わず問うてしまった陸遜に、魯粛は声もなく笑う。
「大勢で押し掛けては、お前と大殿の気遣いを無下にすることになろう?」
 この答えで、魯粛がほぼ正確に事情を察していることが分かる。
 隠し事は出来そうもないと、肚を決めた。

 簡易な宴の支度を整えると、家人は一礼して去った。
 特に意味もなく杯を掲げると、魯粛も合わせて掲げる。
 黙したまま杯を干すと、一つ溜息を吐いた。
 それをきっかけに、陸遜は口を開く。
「どこから、お話しすべきでしょうか」
 魯粛は軽く肩をすくめた。
「どこからでも。ただし、細かなことも端折らず全てを話してもらおうか」
 冗談めかしてはいるが、嘘偽りを織り混ぜれば途端に酷いことになりそうだ。
犀花殿が異界の者である、というのは本当です」
 疑われているとも思わないが、話の切り口に迷い、ここから始めることにした。
 魯粛が頷く。
 委細承知の返答と受け取って、陸遜は話を続ける。
「……先程、お見せしたこれですが」
 懐から携帯を取り出し、魯粛に差し出す。
 訝し気ながら受け取り、慎重に触れる魯粛の様が少しばかり可笑しい。
 魯粛ほどの男が、否、魯粛だからこそ、この品の奇異さが理解できるのかもしれない。
犀花殿の世界は、こちらとは比べ物にならぬ優れた利器揃いです。正直、犀花殿がこちらの世界で当たり障りなく暮らしているように見えたのが、信じられませんでした」
「それ程に、か」
 魯粛が唸る。
 気持ちは分からなくはない。
 陸遜とて、実際に使っていなければ到底信じられなかっただろう。
 例えとして、冷蔵庫の話を振る。
 魯粛がまず氷室と勘違いしたが、氷自体を作り出せると教えると唖然として言葉を失った。
 氷室ですら貴重なものだというのに、持っていない者の方が珍しいと教えると、更に絶句して携帯に目を落とした。
 そこで、改めて携帯を指す。
「これは、遠くにいる者と会話ができるという代物です」
「遠く?」
 さりげなく口元に持ってきている辺り、拡声器と勘違いしたものか。
 惜しいが、違う。
 陸遜は、自分もこんな風だっただろうかと、何となく懐かしくなった。
「どれだけ離れていても……言ってしまえば、地の果てと果てに離れていても、会話ができるものです」
「何」
 魯粛の目がぎらりと輝く。
 それはそうだろう。
 離れていても会話できるということは、ありとあらゆる物事が引っ繰り返る。
 商売であれ、戦であれ、だ。
 だが、陸遜は笑って否定した。
「これは、犀花殿の世界でしか使えぬ代物です。このからくりが二つ以上必要になりますし、何でも、更に別のからくりもないと機能しないとか」
 あからさまにがっかりする魯粛の様子だったが、全て話し上手聞き上手の魯粛の手だろうと察しがついた。
 陸遜が話しやすいよう、出しゃばらない程度に良い反応をしてくれているのだ。
 そして、陸遜が気付いたことを、魯粛の側もすぐ気付く。
「……お前から秘密ごとを聞き出すのは、骨が折れるな」
「それは、お互い様です」
 笑い声が微かに響く。
 ひとしきり笑い合った後、陸遜は改めて話を切り出した。
「ですが昨夜、このからくりが機能しました」
 はっと息を飲む音が響く。
「相手は」
 促され、陸遜は素直に答える。
犀花殿の友人に当たる方です」
 長くもない会話の内容だったが、いざ話してみると存外長い。
 それでも、包み隠さず話して聞かせる。
 魯粛は、陸遜の話を頭の中で何度も噛み砕いているようだった。
 当然だろう。
 例えば、魯粛にとって練師は、身内相手に何者かと問われる存在ではない。
 江東の豪族・歩隲の縁者であり尚香の側仕えかつ武芸の師だ。
 少なくとも、孫呉に連なる者で彼女を知らぬということはない。
 それを、よりにもよって陸遜が知らぬと言った。
 理解できずとも仕方がない。
「よりにもよって……」
 魯粛が呟く。
「『捨てろ』とはなぁ」
 そこか。
 ぽかんとする陸遜を見遣り、魯粛は喉を鳴らした。
「お前が、そんな顔を見せるとはな」
 何の気なしに恥ずかしくなり、頬を染める。
 魯粛は快活に笑った。
「ともあれ、興味深い。また使えることがあれば、その時は是非、俺にも話をさせてほしいものだ」
「どうでしょう。手厳しい方ですから」
 昨夜の会話でさえ、あれだけ腹を割って話してくれたのは珍しく感じる。
「聞く限り、変わり者のようだしな」
「変わり者というか」
 隠者というのも違う気がするが、犀花に対してでさえどこか距離を置いているような感があった。
 不意に思い返す。
「……私が、異界に留まるのに異界の者の助けがいる、と申し上げたことを、覚えていらっしゃいますか」
「ああ」
 それがどうした、と言わんばかりだった。
 普通に受け取れば、別段変わったことではない。
 見知らぬ土地に在って、現地に在る何者かの助けなしに生きるのは不可能に近かった。
 時には命のやり取りに直結する場合もあり、そういう意味ではこちらの世界の方が厳しいかもしれない。
「あの時は言葉を濁しましたが、あれは、犀花殿に同衾していただいた、という意味です」
「何」
 魯粛が唸る。
 ただ寝ていた訳でないことは、話の流れからしても自明の理だ。
 男女のことに嫌悪を持つような男ではないから、案外魯粛も犀花に好意を抱いていたのかもしれない。
 油断も隙も無い。
 そんな風に思う自分に気付き、陸遜は密かに苦笑した。
「……話を続けます。その際、私は私の心の持ち様で留まる力……敢えて力と称しますが……力を得られぬこと、また犀花殿以外の方からは得られぬことを確かめました。何となれば、あちらの世界で生きる為に体の結び付きのみならず、心を結ぶことも重要ということです」
「成程」
 魯粛は顎を一撫ですると、
「つまり、犀花殿の『ご乱行』は、犀花殿の意思によるところにないと、お前はそう言いたい訳だな?」
 はっきりと言う。
 むしろ、言い過ぎている。犀花が聞いていたら、今頃大騒ぎだったろう。
「ええ、まあ……そんなところです。もう一つ。犀花殿はこちらの世界で力を得るのに、力を得るのに特定の相手を定めていないのだろうと、私は考えています」
 だからこその『乱行』と考えれば、筋は通る。
 好意と行為の深度により得られる力の量が増減し、満たされる度合いを左右する。
 陸遜には犀花という心に決めた想い人があり、だからこそ犀花以外から力を得られなかったとすれば、犀花はその逆と考えられないか。
 完に想い人がいるから弾かれたと考えていたが、完とて友愛の情は抱いていた。
 あそこまで完全に弾かれたからには、陸遜の方に原因があると考えるのが妥当ではないか。
 もし犀花に唯一の相手が定まっているとすれば、蜀に居た時期には既に衰弱していなければおかしいし、そうでなければ呉に来た時点で衰弱が始まらなければ道理に合わない。
 しかし、と魯粛は異議を唱えた。
「孫策殿が相手、とは考えられないのか?」
 時期的に、孫策が相手ならば条件が合うのではないか。
「いえ、その考えには無理があります。孫策殿が犀花殿に出会った時、犀花殿が弱っていたという話は聞き及びませんし」
 陸遜の答えに、魯粛はあっさり納得した。
「……で」
 そして促す。
「お前のみならず大殿が、人に聞かせまいと隠した情報とは、何だ」
 陸遜が口を噤む。
 犀花の世界がどうであれ、容易な行き来ができない以上あまり意味をなさない。
 紛れ込んでいるだろう諜報の判断を惑わせる為に、敢えて全ての話を切り上げぼやかした次第だ。
 本当に隠しておきたかった、一番重要なことは、今ようやく明かされようとしている。
 けれども、陸遜の口は重い。
 何かあるのかと案じたくなる程、やけに躊躇しているのが見て取れた。
「……絶対に、内密にしていただけますか」
「無論だ」
 ここまでくどく念押しする話なのか。
 魯粛は、辛抱強く陸遜が語るのを待つ。
 ずいぶんと時をかけ、陸遜は意を決したように顔を上げた。
犀花は」
 魯粛が頷く。
「我らが勝利する為の、『条件』になるかもしれません」
 重々しく言い放たれた言葉を、魯粛は理解できなかった。
 正直に言えば、理解したくなかった、の方が正しい。
 何を言うやらと茶化すべきかと考えて、陸遜の目が酷く真剣なことに気付く。
 してみると、陸遜は本気でそう考え、魯粛に打ち明けたつもりらしい。
 どうしたものか。
「……もう少し、分かるように話してくれんか」
 悩んだ結果、話を促す。
 判断するには、まだ材料が乏しい。
 陸遜もまた、悩んでいるようだ。
「これは、あくまで推論の域を出ません」
 前置きした上で、陸遜は語った。
犀花が私達と話をする時、稀に昔馴染みの様な振る舞いを見せることが気になっていました。犀花の世界に行き、犀花が好んで遊ぶという遊戯の存在を知って得心したのです」
 その遊戯は、陸遜達の世界そのものによく似ているという。
「似ている、という言葉では生易しいかもしれません」
 初めて見る魯粛の沈痛な面持ちに、陸遜は慌てて理解しやすい説明を考える。
「例えば、碁石がそれぞれ名と心を持ち合わせて戦う、と言えば、まだお分かりいただけますか?」
「……分かるような、分からないようなだが……まあ、分かった、話を続けてくれ」
 理解できずとも理解を示してくれる心遣いが有り難い。
「碁盤が我々の世界だとして、碁には、必ず指し手の存在があります」
 魯粛は剣呑な目を陸遜に向けた。
「それが、犀花殿だという訳か」
 結論が出た。
「……碁石が勝利する為には、必ず指し手を得なければなりません。もし犀花が指し手だとして、先程の話を踏まえれば、犀花は白黒、未だいずれの指し手と定まっていない。ならば、犀花を呉に取り込むことが叶えば、呉の天下は夢でなくなる……私は、そう考えました」
「成程、な」
 夢物語と切って捨てるのは容易い。
 ただ、陸遜は犀花の世界を知っている。
 知った上で構築した推論ならば、無下に切り捨てていいとは思えない。
 機能する筈のない携帯が動き、通話の相手は犀花のせいではないかと告げた。
 動かぬ機器を動かす力が犀花にあるとしたら、無為に放ってはおけない。
 少なくとも、僅かなりともそれら可能性がある存在を、魏の手に落としたままにはしていい訳もなかった。
「そういうことであれば、あの場で言えなかったのも道理」
 一部の者は存在すら考えないようだが、内通者がいないと考える方が無理だ。
 何らかの情報がどこからか漏れていると考えて動くのが備えというものであって、だからこそ孫堅は陸遜の話を受け入れ、早々に切り上げたに違いない。
 それだけ陸遜への信が厚いのだ。
 無意味に臣を集めたこととの整合性はないが、魯粛はそう断じた。
「……どうした、陸遜」
 秘密を吐露してすっきりしても良さそうな陸遜が、やたらと思い詰めた顔をしている。
「魯粛殿。お願いが、あります」
「お願い?」
 首を傾げる。
 ここに来て、何だというのか。
犀花には、このことは言わないでほしいのです」
 予想外の申し出だった。
「……言っては、まずいのか?」
 犀花の振る舞いを思い返すに、陸遜が仮定する存在としての自覚はまるでない。
 告げたところで信じもしなかろうが、言うなと念押しする意図をこそ知りたくなった。
 聞いて納得できれば勿論協力もしようし、周囲に働きかけるのもやぶさかでない。
 陸遜は言い難そうに目を泳がせていたが、重ねられる催促に観念したか、やっと口を開いた。
「私が犀花を『勝利の条件』として連れ帰ったのが知られたら、犀花は私を気まずく思いましょう」
「は」
 何を言い出すやら、である。
 ところが、陸遜はひたすら真剣だ。
「気まずくなったら、犀花は必ず私と距離を置きます。置いて戻ればまだしも、その隙に誰のものになってしまうか分からない。耐えられません」
「そうは言うが、お前」
 気まずくなるも何も、それを承知で帰ってきたのではないかと思うのだが、どうもそうではないらしい。
――面倒くさい奴だな。
 内心で愚痴るが、口に出して言えたものではない。
 余計にややこしくなるのが目に見えているからだ。
「……分かった分かった。誓って言うまい」
 前のめりに威嚇してくる陸遜を、魯粛は軽くあしらう。
「ところで、陸遜」
「何でしょう」
 もやもやしつつも腰を下ろした陸遜が、うんざりした態で返してくる。
「お前、先刻から犀花殿を呼び捨てにしているぞ」
 はっとして口を押さえる陸遜の頬が、みるみる赤くなっていく。
 まだまだ若い。
――これなら俺にも、付け入る隙はありそうだな。
 堪え切れない笑いを噛み殺して、魯粛は敢えて悠然と構えた。


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