登城する陸遜は、練師の経歴を思い出していた。
 豪族・歩隲の縁者で、始まりは武芸の腕を見込まれ、尚香の武術の師として迎えられたのだ。
 なぜ忘れていたのかとは、もう思わなかった。
 忘れていたのではなく、なかったものを補填されたのだ。
 陸遜が犀花の世界にいた間、この世界では『そうあるべく』変化が生じ、ただ一人『その瞬間』に居合わせなかった陸遜のみが混乱を生じた。
 良くは分からないが、そういうことなのだろう。
 順応しかけていた陸遜が、今また自分を取り戻したことで、世界はどう動くのか。
 未だ何の予想もつかなかった。
「陸遜様」
 孫堅に送った先触れの使者が戻ってくる。
 申し訳なさげな表情から、聞かずとも返答の内容は知れた。
 苛立ちや焦燥はなく、ただ、またかと思う。
 戻ってよりこの方、この国は何かにつけ腰が重い。
 驚くほど迅速で可笑しくなるほど身軽な体質が、まったく変わってしまっていた。
 豪胆で磊落な孫堅が、思慮深く繊細になっていた。
 呆れるほど仲の良い家族が、どこか隙間風を感じる距離を保っている。
 主と仰ぎ見る孫家の変化は、呉の変化に直結していた。
 呂蒙は常に焦燥に駆られ、甘寧はどこか醒めてといった具合で、将兵は皆、練師に憧れ敬ってようやくまとまっているような有様だ。
 鮮烈な個性が混じり合うはずもなく、けれど不可視不思議な協調と連帯を保ち、それぞれの持ち味を引き立てあっていたのがかつての呉だった。
 だが、今の呉の在り様には疑問を持たざるを得ない。
 こんな馴れ合いの国だっただろうか。
 こんな器の小さい国だったろうか。
 言っても詮無きことと理解しながら、それでも堪え切れない悔しさに震える。
――やはり、捨てるべきか。
 陸遜の眉根に、知らぬ間に深い皺が刻まれていた。
「あの……陸遜様」
 恐る恐るといった態で声が掛けられる。
 はっとした。
 陸遜の返答を得られず、その場に待機していた臣下に醜態を見せてしまった。
 変化したと自分は取ったが、相手の方からしてみれば、変わってしまったのは陸遜の方だ。
 どんなに苦悶しようが、理解してもらえると思う方がおかしい。
 苦笑した。
 どんな形であっても、笑みは笑みだ。
 張り詰めていた緊張がわずかに緩み、陸遜に思考の自由を取り戻させる。
『陸遜』
 頭の中で呼ぶ声は、状況に似合わぬ優しさを添えていた。
 はにかんだ笑みを浮かべた彼女の顔を思い浮かべながら、陸遜は小さく深呼吸する。
「……今一度、行ってもらえるだろうか」
 逡巡しつつ、陸遜は再度の使者を送り出すことにした。
 命じられた臣下は、ほっとしたように笑みを作ると、さっと身を翻して室を去った。
 恐らく、陸遜の考えが読めたのだろう。
――これで、駄目だとすれば。
 閉じ込められるかもしれない。
 どころか、処刑を命じられるかもしれない。
 危うい立ち位置にいることを自覚しながらも、陸遜は義理を通すことを選択してしまった。
 早く犀花を助けなければと思いつつ、呉への執着が止められない。
 けれど、きっと犀花はこうすることを望むだろうとも思ってしまう。
 実際は違っていて、早く助けて欲しいと悲鳴を上げているかもしれないが、その考えがどうにも捨てられなかった。
 どうにも、自分は犀花を理想化しすぎる嫌いがある。
 本当のところは、本人に直接問うより手立てがない。
 その問い掛けを実現する為にも、孫堅との会談を成功させねばならなかった。

 謁見を許されたものの、相当の時間待たされる羽目になった。
 急な申し込みであるから仕方ない、と割り切ったつもりでいた陸遜は、待たされた時間の本当の意味を覚り、いささか落胆した。
 謁見の間に所狭しと並んだ将と文官の数は、国を挙げての宴でも開く気かと呆れるほどだった。
 つまり、これだけの数の人間を集めるのに時間を労した、ということらしい。
 出奔の意図を察したのだとしても、数に任せて圧を掛けるようなやり方をするとは露程も思っていなかった
 それだけ期待されているのだと己惚れるような陸遜ではない。
 醒めた顔の陸遜に、ひそひそと悪意に満ちた囁きが向けられる。
 かつての諸葛亮も、こんな風だっただろうか。
 いや、そもそも犀花が呉に来た時も、こんなことがあった。
 思い出すと、自然に顔がほころぶ。
 懸命に虚勢を張っている様が、可哀想であり可愛くもあり、酷い奴だと自覚を新たにした。
 そうだ、酷いのだ。
 だから、犀花を諦めてなどやらない。
「本日は急な申し出にも関わらず、謁見の許しを賜り恐悦至極に存じます」
 丁寧な口上は、慇懃である分だけ無礼だった。
 度を越した肝の太さに皆が気圧され、場が静まり、孫堅だけが素知らぬ振りでゆっくりと居住まいを正す。
「……用件を聞こう」
 重々しい口振りで、そっと脇に目を向ける。
 その視線の先に練師が佇み、穏やかな笑みを浮かべているのがどうにも心地悪い。
 君主の傍に姫付きの女官が控えている状況を、誰もおかしいと思わないのか。
 理解できなかった。
 その衝動に押されてか、陸遜は躊躇いなく口を開いていた。
「突然ではありますが、私は呉を去ろうと思います」
 ざわり、と辺りの空気が一気に泡立つ。
 それらを制し、孫堅が言葉を重ねる。
「理由を、聞こう」
 短い問いに、ある種の重みがある。
 はいそうですかと認められる件ではないこともあるが、それ以上に決して許さぬという意志を感じる。
 目を掛けてきた自負もあろうが、どこかおかしい。
 その違和感の理由に、陸遜は素早くそして潜考する。
 昨夜の完との会話が思い当たった。
 捨てろと言いつつ、交換条件を差し出してきた。
 あれは、呉軍なしには犀花を救出できぬと踏んでのことか。
 それだけだろうか。
――否。
 そうではない。それだけでは、きっとない。
 であれば、何故か。
 何故、完は、交換条件を後付けで申し立ててきたのだろうか。
――あれは。
 しかし。
 そんなことがあるのだろうか?
 自意識過剰とは程遠い陸遜の気質が、導いた答えを素直に受け取らせない。
 とはいえ、自己の評価が低い訳でもない。
 陸遜は、あくまで己を己として捉える。
 そこに高いも低いもない。
 であればこそ、だ。
――私が、だからか。
 体の中に、太い柱が突き立ったような感覚があった。
 陸遜を通して天と地を結ぶ柱だ。
 何があっても、何が起こっても、倒れる不安は微塵もなくなった。
 唐突に目が覚めたような心地になる。
 そんな陸遜に気圧されたように、ざわついていた広間が静まり返った。
 皆の耳目が自分に集まっているのがよく分かり、陸遜はなぜか笑い出したい衝動に駆られる。
 どうして分からなかったのか、分かった後ではさっぱり分からない。
 衝動は奔流のように身の内を廻り、陸遜の口から言葉として迸る。
「受けた御恩は、未だ返せておらぬと自省しております。ですが、このままこの国に留まり、ただただ戦に執務に身を投じたとて、掛かる恩は積もるばかり。どころか、仇で返す羽目になると危惧しております」
 練師が何か言おうとしているのが目に入る。
 陸遜は、それを許さなかった。
「私は、犀花殿を助けるつもりで崖に身を投じましたが、助けられたのは私の方でした。犀花殿は」
 異界の者、の一言で、場はうわんと蜂の巣を突いたような騒ぎになる。
 好意的な反応でないことは、誰の目にも明らかだった。
「異界の者ですって」
 練師の声にも、非難の色が濃い。
「はい」
 陸遜は、けれども逆らうことなく受け入れた。
「異界です。そこで、私は死に掛けました」
 新たな動揺が走る。
「死に掛けた私を救ってくれたのが、犀花です」
「でもそれは」
 練師が割り込もうとして、詰まる。
「異界にある者がそこに留まるには、異界の者の助けが必要でした」
 拒否してもいいことを、犀花は拒否せず受け入れてくれた。
 その上で、衣食住すべての面倒を厭わず、甲斐甲斐しく尽くしてくれた。
 異界の知識を与えることを拒まず、犀花にとっての異界に戻ることを拒まなかった。
 できるようでできないことを、犀花は何のこだわりなくやってくれていた。
「その恩に報いず、無き者として見捨てるような恩知らずが、この呉に在って良いはずがありません」
 並んだ将官の混乱は増していく。
 ただ、非難一色だった場の空気は、確実に違うものへと変わっていた。
「しかし」
 孫堅は、渋い表情を崩さなかった。
「はい」
 陸遜は、それをも受け入れる。
 懐から携帯を取り出し、掲げた。
 皆の視線が集まったのを確認し、電源のスイッチを入れる。
 明るくなる画面に、一斉に驚きの声が上がった。
「これは、犀花殿にいただいたものです」
 もらった日のことを思い出し、込み上げてくる思いのまま、そっと携帯の縁を撫でる。
「異界でなければ、本来の機能は使えない代物ですが、しかしこのようなものが、異界には何ら珍しくもないものとしてあるのです」
 犀花が作ったものではない。
 が、犀花には、これらが当然としてある世界の知識がある。
 それがこの呉にどれだけ不利益をもたらすのか、誰にも想像ができないだろう。
「考えが及ばないからこそ、犀花殿の存在は脅威なのです」
 一瞬の間を置き、どこからともなく呟かれた声がある。
「……殺してしまえば……」
 陸遜の眼に、凝縮した殺意の光が閃く。
 その場の全員が、背筋に氷を押し付けられたような錯覚を覚えた。
「恩を、大恩を受けた私に、それを仰るのですか」
 若い文官が、身を縮こまらせて後退る。
 凍った場の雰囲気は、陸遜の溜息が砕いた。
「先程も申し上げましたが、彼女は異界の者です。彼女の死ですら、何をもたらすのか分かりません」
 死ねば、無となる。
 そんな世の常が、犀花に限っては通じないとなれば、どう動くのが正解なのか。
 ざわざわと、各々で議論が始まる。
 それらの声を陸遜は無視した。
 幾ら議論を重ねても、答えが出よう筈もない。
「なぜ」
 問いが響く。
「連れて帰った」
 孫堅だった。
 当然と言えば当然の疑問であり、だからこそ誰もが思い至らなかった。
 そうだ、と言わんばかりの視線が、陸遜に突き刺さる。
「あの方が」
 陸遜は、柔らかな微笑で返す。
「私のものだからです……あの方を抱くと、私が抱くと、約諾しました」
 皆が呆気に取られる。
「違ぇな」
 視線が、それまで誰も向けていなかった方に集まった。
「あいつは、俺んだ」
 孫策だった。
「それも違うな」
 呆気に取られた上に呆然とする。
「あれは、俺のものにする」
 声の主は、孫堅だった。
 にやりと口元を歪めるその笑みに、陸遜は泣き出したくなる。
「黄蓋、兵の士気はどうか」
「それをお聞きになりますか?」
 黄蓋は人が悪い、それでいて頼もしい笑みを漏らして胸を張った。
「周瑜、軍備はどうなっている」
「それは常に、備えております」
 慌てふためいているだろうに、それと全く感じさせぬ表情で周瑜が答える。
「そうか、では」
 孫堅が大きく手を差し伸べた。
「俺達のものを、返してもらわねばな」
 揺るぎない決定だった。
 どっと風が吹く。
 世界の色はそのままに、風の流れに沿い彩度を鮮やかに変えていく。
 返ってきた。
 帰ってきた。
――これが、これこそが私の知る呉。
 歓喜そのものの鬨の声を挙げながら、将が、文官が散り散りに散っていく。
 そんな中、練師と目が合った。
 苦笑をしながら、小首を傾げて陸遜を見返す。
 仕方のない駄々っ子の我儘を、仕方がないと受け入れた母親の様にも見えた。
 わずかながらも頭を下げ、礼を向ける。
 顔を上げた時、恐らくこれまで生きた中で、最も晴れやかな顔をしているだろうと思った。
――私は、呉の陸遜だ。
 なれば、『呉』は私を手放さない。離しはしない。
 たった一つの他愛もない根拠に支えられ、世界を取り返した充実感が四肢の先々にまで満ちる。
 だが、本当の闘いは今から始まる。
 犀花をこの腕に抱くまで、幾度であろうが戦わなければならない。
 戦えると、心から思えた。


←戻る進む→


Stack INDEXへ →
TAROTシリーズ2分岐へ →