目を開ける。
閉じていた時とは質の違う、しかし同じ黒が広がっていた。
溜息が出る。
寝るしかやることがない夜半に、けれど眠れずにいる苦痛に苛まれた。
首に触れてみる。
ごわついた布の感触は、包帯を厳重に巻いた故だろう。
ガーゼにはない強さに、異界に在るという認識を新たにした。
そのまま指を滑らせる。
痛みは全くない。
本当に傷があるのかさえ、甚だ疑わしい。
彷徨わせていた指が、ふと止まった。
顎の先から、恐る恐る唇に触れる。
軽く押せば、ふに、と凹む。
その柔らかさを上回る柔らかさを思い出す。
冷酷な外見とは裏腹に、妙に熱を持っていた。
心臓の鼓動が早くなる。
なぜ、曹丕はあんな真似をしたのか。
一瞬の接触だったにも関わらず、気持ちが昂る。
――マズイ。
体が甘く痺れ出す。
状況が状況故に、これまでこんな衝動に駆られたことはなかった。
襲われたことを、忘れた訳もない。
全てを制して湧き上がる熱を持て余す。
悶々として、寝返りを打った。
その目線の先に、人影がある。
息の根が止まりかけた。
「驚かせたようで、申し訳ない」
律儀に頭を下げる張遼に、犀花は未だ声が出ない。
無礼とは思いつつ、首を横に振る。
張遼の目が、優しく緩んだように見えた。
常に武人として気を張っているような張遼だったから、こんなことでも驚かされる。
ただ、それが張遼の表情が緩むこともあるという事実にか、自分に向けられたという事実に対してかは、判断がつかなかった。
沈黙が落ちる。
どうしたものかと考えて、犀花は自分が寝たままなことにようやく思い至った。
慌てて起き上がろうとすると、張遼の手が犀花の胸元に置かれる。
「……失礼した」
起きるのを留めようとしただけ、とは理解しているのだが、頬が紅潮するのは止められない。
何より、布越しに触れられた先端が、甘く痺れて堪らない。
気付かれないかと冷や冷やする。
が、気付いてないのか気付いてないふりをしてくれているのか、張遼の追及はなかった。
またそれが、焦らされているように感じるのだから、何とも勝手な話である。
再び沈黙が落ちる。
気まずい。
沈黙が、というより、惜しみなく注がれる張遼の視線が、気まずい。
止むを得ず視線を返すが、あまりに微動だにしない様に視点を定めることが出来ない。
すぐに逸らす。
また向ける。
忙しない視線を察してか、ようやく張遼が口を開いた。
「貴女は、天女なのか」
とんでもないことを言い出した。
即座に首を横に振る。
もげる勢いで振る。
気圧された風な張遼が頷くまで、ずっと振ってしまった。
振り過ぎて少々吐き気を覚えるが、そのくらい動揺していたのだ。
文字通り、何を言い出すやら、である。
「では、貴女は、どういう……」
歯切れの悪い言葉に、張遼の戸惑いがひしひしと伝わってくる。
それはそうだろう、魏軍の前に現れた経緯が経緯だし、それでいて捕虜の扱いとしては悪い方ではない。と思う。
危害が加えられていないとは、怪我を負っている事実がある以上到底言えないが、あくまで一部の悪意ある者がしでかしていることで、魏軍の総意ではないと思われる。
それが証拠に、楽進始めとする将達からは、とても丁寧な扱いを受けている。
だからと言って、正直に話していいかどうかはまた別の話なのだ。
異世界の人間と言って、信じてもらえるかも分からない。
そも、選ばれて送り込まれたとか潜在的な超能力があるとかだったならともかく、誇張なくただの一般人である犀花が転移してきた理由の説明がし辛いのだ。
最初の転移は、趙雲に引っ張り込まれたせいだった。
あれから全てが始まった。
どうしているだろうか。
唐突に、そして鮮やかに蘇る彼の人の姿に、胸が痛くなる。
「犀花殿」
名前を呼ばれ、我に返る。
いきなり浸ってしまう悪癖が出た。
慌てて詫びるも、張遼の気を害したのを感じる。
本気で怒っている感じではなかったが、どことなく不機嫌な気配があった。
焦りに拍車が掛かる。
こんなことでというのも何だが、不興を覚える人柄だったとは思わなかったのだ。
そしてまた、沈黙が落ちる。
どうしていいか分からず、すわりが悪い思いをしていると、張遼が微かな吐息を漏らした。
「……貴女に触れると、強大な力を得ることが出来ると聞いた」
寝耳に水である。
呆気にとられること数秒、即座に首をぶんぶんと振る。
無論、横の方向に、だ。
張遼が頷くまでさほど時間が掛からなかったのは、先刻の件を受けてのことだろう。
話が突飛過ぎるせいでもあるかもしれない。
誰がそんなことを、と思い掛けた犀花だったが、心当たりに行き着いた。
曹丕だ。
あの理解し難い接触は、それが故だとすれば納得できる。
ただ、何故そんな思い付きに至ったのかまでは図りかねた。
どこかがっかりしているような自分に気付き、落ち込む。
そんな理由でもなければ曹丕が触れてくるのはおかしいし、当たり前の筈なのだが、どうにも腑に落ちない。
便利なアイテム扱いされたことへの腹立たしさとも違う。
この感情のもやもやは何なのか、犀花はぴたりと当てはまる答えを見出せずにいた。
犀花と同様、張遼もまた思案の最中にあった。
眠っていた犀花は知る由もないが、現に曹丕は戦場で予想を遥かに上回る戦果を上げている。
これは覆しようのない事実であり、窮地で発揮した実力云々で済まされない次元の話なのである。
だからこそ張遼は犀花の元へ足を運んだ。
運べた。
「…………?」
不意に、犀花は背中の下の方辺りに違和感を覚えた。
這い上がるような不思議な感覚は、ある種の予感に近い。
目を上げると、張遼もまた目を上げたところだった。
同時に絡んだ視線が、解けない。
記憶をも見透かすような強い視線に射抜かれて、犀花は身動きが取れなくなる。
――あ、分かった。
張遼は、犀花を欲している。
女を、ではない。
犀花を欲しているのだ。
そんな馬鹿な、という思いがどうしても振り払えないが、さすがに(どうかとは思うが)学習している。
困惑した。
「試してみても?」
――いやいやいやいや。
今の今、全力で否定したばかりではないか。
語尾を上げて尋ねられても、否としか言いようがない。
首を横に振ろうとした顎を取られ、張遼の本気を知る。
このままでは唇が重なる。
駄目な気がする。
否、駄目だ。
犀花は、両の手で張遼の手を取った。
その勢いのまま、張遼に口付ける。
ただし、触れたのは張遼の唇ではなく、その横の頬にだ。
勢いよく押し付けたせいで、位置が微妙なことになる。
口髭の強い感触に表皮を擦られた。
そこに一瞬、鋭い痛みが走る。
切ったのではない。
痛みがあったのは、そもそも胸の奥である。
その胸に、握り込んだ張遼の手が当たっている。
意識してしたことではない。
意識する余裕がない。
「これで」
そう言うのが精一杯だった。
張遼は、固く目を閉じ、ぶるぶる震えている犀花を見詰めていた。
首元まで赤く染めて身を縮込めている姿に、張遼は知らず仄かな笑みを浮かべる。
密かな嘆息に、犀花はおろか張遼もまた、気付かずにいた。
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