二人きりになると、司馬懿は眉尻を上げて叫んだ。
「どういう、ことなのですか!」
 叫んですぐ、司馬懿ははっと我に返る。
 自身の立場を省みたから、ではなかった。
 曹丕という人が考えなしに行動する筈がない。
 そのことを思い出したからこそ、口を噤んだのである。
 相手が魅了の化物だとしても、曹丕は平然と在るに違いない。
 傍から見ればさぞ信仰じみて気持ち悪かろうが、司馬懿が曹丕の人となりを熟知しているからこその判断だ。
 ただただ、曹丕だからこそ、だった。
「……失礼しました」
 司馬懿の謝罪を、曹丕は軽い頷きで受け入れる。
 気にした様子もない。
 であれば、と、司馬懿は曹丕の言葉を待つ。
 言ってくれぬやもしれないという微かな不安は、呆気なく裏切られた。
「仲達」
「は」
 顔を上げて、曹丕に目を向ける。
「お前は、何故奴らがあの女に執着するか、考えたことはあるか」
「は……」
 予想とはいささか違った切り口に、司馬懿は内心面食らっていた。
 だが、返事はしなければならない。
「……その、野蛮な彼奴らならではの理由かと、正直侮っておりました、が……」
 嘘を言っても仕方がない。
 女に執着して、あるいは、女を取られたという大義にはならない理由をつけての蛮行に過ぎない、というのが司馬懿の見立てである。
 あまりに浅いか。
 連日の戦続きに、司馬懿の思考は全てそちらの対応に向けられていた。
 改めて考えてみるに、確かに異常だ。
 ふ、と吐息が漏れた。
 曹丕が笑ったのだと気付き、司馬懿は動揺する。
 嘲られたか。
「お前にとっては、あの父もまた野蛮か」
 司馬懿は言葉を失う。
 かつて、曹操が二喬を目当てに呉に戦を仕掛けたという話を思い出すのに、時間は掛からなかった。
「も、申し訳……」
 慌てて詫びようとする司馬懿を、曹丕が止める。
「良い。それよりも、あの女の話だ」
 揶揄っただけだったのだろう、曹丕は話を再開させた。
「仲達」
「は」
「ここ数日の、私の戦ぶりをどう思う」
 これはまた予想外の問いだった。
 目を丸く見開く司馬懿に、曹丕は薄く笑う。
 重ねて問われ、狼狽えながらも司馬懿は記憶を辿る。
「……次代を担うに相応しい、見事な猛将ぶりであったかと……」
 世辞ではない。
 それが通用する相手ではない。
 確かに、ここのところ曹丕の活躍は凄まじいものがあった。
 頼もしささえ感じていたのだが、何故、今それを問うのか。
――まさか。
「そうだ」
 否定に近い疑問は即座に肯定されてしまう。
「あの女に、そんな力が……?」
 曹丕の言としても、信じ難い。
 疑いの感情を持つのが不遜だとしても、あまりにも想定の埒外だった。
 だが、そう指摘されれば思い当たることはある。
 弱兵を率いて血気盛んな呉軍主力相手に戦わなければならない状況にあって、一将としての曹丕の武勇は異彩を放っていた。
 元より、智勇兼備の将ではある。
 ただ、その一言で済ませていい域を大きく外れていたのだ。
 それこそ、あの張遼を凌ぐと言っても差し支えない。
 苦境に立たされてこその本領発揮とも考え難かった。
 だからこそ出されただろう結論は、しかし常識にはそぐわぬものである。
「何か、根拠が……」
 言い差し、ふと思い当たる。
 味方とはいえ、兵卒如きに易々と連れ出されてしまった事態にあたり、犀花は曹丕と室を同じにすることになった。
 如何な新兵とはいえ、さすがに曹丕に対する畏怖の念は強い。
 その曹丕の室であれば、生半には近寄れまい。
 曹丕自身が言い出して、誰も反対できず(楽進は何か言いたげではあったが)に二人の同室が決まったのだった。
 司馬懿の知る限り、二人が同衾している様子はなかった。
 が、『接触』しようとしているのは、ちょうど先刻目撃してしまったばかりだ。
 それが曹丕の力の源だったのだとすれば、曹丕が何故あの女に手を付けたのかの説明にはなる。
 なるが、あくまでそれは、犀花が真実そういう力を持った女だと証された場合に限る。
 犀花に『接触』したのは、曹丕が初めてではなかった筈だ。
 おもむろに顔を上げた司馬懿の意図を、しかし曹丕は容易に察したようだった。
「無論、あの女にそうさせるには、条件を伴う」
 さすがというべきだろうが、あまりに察しが良過ぎて鳥肌が立つ。
 司馬懿の内心を知ってか知らずか、曹丕はただ淡々と続ける。
「まず、あの女に直接触れなくてはならない……これは、絶対条件となる」
 同じ空間にいるだけでは駄目だということだ。
 逆を言えば、触れればいいということになる。
 但しそれだけでは、処刑された兵士達に力が与えられなかった説明にはならない。
 その先こそが重要だ。
「ここからは、推測を交えてになるが……」
 用心深く前置きして言うには、こういうことらしい。
 まず、犀花自身が衰弱もしくはそれに近い状態であるのが望ましい。
 恐らく、犀花の方も相手側から何某かの力を得ていて、その代償として、力を与えるようだ。
 確かに、『医者が匙を投げた瀕死の状態』から『わずか数日でほぼ全回復』したことを慮れば、奇跡の一言で済ませるより遥かに理解できる。
 とはいえ、求められる代償の内容によっては、今後の対応を審議しなくてはならなくなるのも当然の話だ。
「それは、その……」
 単純に、精気を代償に、というのでは、曹丕の活躍が理屈に合わなくなる。
 精気でないとすれば、一体何なのか。
「代償が何なのかは、私にも分からん」
 だが、と曹丕は続けた。
「相手が私だと認識した途端、力の付与はなくなった」
 付与されたかされないかは、触れた瞬間感じる熱で推し量れる。
 先程曹丕が試した時、これまで感じていた熱は一切感じられなくなっていた。
 何の気なしに拳を握り、また開いてみる。
 指先までみなぎっていたあの力は、やはり消え失せていた。
「ただ復調を果たしたせいか……私が相手と認識したからか」
 一瞬口を噤んだ曹丕の小さな異変に、司馬懿が気付くことはなかった。
「今しばらく試してみなければ、詳細は知りようがない、か」
 つ、と視線を送られて、司馬懿は首をすくめる。
「わ、私ではお役に立てぬかと」
 今は、数が足りぬとはいえ戦場を駆ける将がおり、司馬懿はむしろ、その采配に尽力すべき立ち位置にある。 戦場に出て、効果が定かでない怪しの力の検証に携わっている余力はないのだ。
 縮こまる司馬懿を注視していた曹丕だったが、ふっと外して室の外を見遣る。
「張将軍がいらっしゃいました」
 偶然か、突然の張遼の訪問に、司馬懿は驚きを隠せなかった。
 同時に、自ら飛び込んできた身代わり候補へ、同情という名の歓喜を覚える。
 拱手の礼もて入室してきた張遼は、許しを得て頭を上げる。
 曹操は、如何な息子であれど有能な部下より上の扱いはしないのだが、生粋の武人たる張遼は、頑なに主君への義を貫く。
 良くも悪くも、律儀な男だ。
 今回のことには、良い条件が揃い過ぎている。
 先日来、用心して殊更犀花に近寄らぬようにしているようだが、危険を認識できているのであれば問題はなさそうだ。
 立てた見張りからも、怪しさなど微塵もない、実直な人柄が伺える報告しか上がってこなかった。
 身体に害がないことは、他ならぬ曹丕が示してくれている。
 張遼ほどの男が力を得たなら、この不利な戦況を覆すのも可能かもしれない。
 援軍の到着が未だ望めない現状、むしろ積極的に取り入れたい策だった。
 司馬懿が曹丕を伺うと、何故か思案気に眉を顰めている。
 何か不安な要素でもあるのか。
 訝しげなのは司馬懿のみだ。
 沈思する曹丕は元より、張遼もただ静かに立ち尽くし、曹丕の言葉を待っている。
 空気に不可思議な緊張が満ちて、肌を刺すようだった。



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