――――!!」
「馬超殿、またそんなに急かされて…」
「…?!!………遅いな」

――ぱたぱたぱた…

「ご、ごめんなさい…孟起、お帰りなさい。それと、子龍さん、こんばんは」

呼ばれて少し経った後、が慌てて駆けて来た。
大した時間は経っていないのだが、しかしこの時を待ち侘びていた馬超にとっては、長い時間だったのかも知れない。

「ああ、只今」
「済まない、今日もまた寄ってしまったのだが…、…?、其の手は…」
「!?な、何だ!?怪我でもしているのか!?」

袖を捲り、手を中空に浮かせているの手に違和感を感じ、趙雲が訝しげに眉を顰める。
区切られた言葉に、馬超はが手を怪我しているのかと勘違いし、浮かせた手を、手首を掴んでじっと診た。
寧ろ其の力の強さに手首を痛めてしまいそうだったが、は苦笑するのみで、眉一つ顰める事をしなかった。

「…土?何だ、。こんな時間まで土弄りをしていたのか」
「珍しいな」
「ごめんなさい…つい、夢中になっちゃって。直ぐに手を洗って、夕ご飯持って行きますから!」
「いや、丁度良かった、。…手土産だ」
「…わぁ…!」

今にも踵を返さんとしたに、趙雲の手から紫色の花が数本、手渡される。
大輪の其れは、野に生えていたのだろう、根には土がついていた。
そして、流石良く気が付く趙雲と言ったところか、根に切れたところが見受けらず、あの部屋に植え直す事を見越して、完全な状態で持って来てくれたのだろう。

「ありがとうございますっ!!」

其れこそ花が綻んだかのような笑顔を浮かべて、礼を言う。
蝋燭の細々とした灯火しかないこの玄関口が、一気に華やいだ。

「食事は後で良いから。…先に、土に戻してやりたいだろう?」
「あ、はい!…あっ…えと、孟起は、お腹空いてないですか…?」
「ふ、いや、大丈夫だ。花を植えてこい」
「!!ありがとうございますっ!」
「ああ、済みません、馬超殿。勝手に…」
「いや、構わん」

既に馬超の関心は、花を手に、足取り軽く例の部屋に向かうの姿に向いている。
部屋で待っていたほうが良いのだろうか、と馬超は一瞬迷ったが、結局興をそそられて、に付いていく事にした。
其の後を、趙雲が玄関口に置いてあった蝋燭を手に、追う。
趙雲が一番最後に部屋に入った時には、は既に嬉々として蒼と橙の花の間の空いた一角の土を、掘り起こしていた。

「久し振りに入りましたが…いや…何時見ても、凄いですね」
「ああ」

入り口を除き、部屋の中に二重円を描くようにして花が植えられている。
部屋の中央は、大の大人三人程が座れる程度に開けてあり、植えられた緑の草が月の光を吸い不思議な色となっていて、目を引いた。
先程まで土を弄っていた、とは言っていたが、確かに今日の晴れ渡った空から降る月明かりを頼りにすれば、其れなりに作業は出来そうだった。
しかし、其れでもやはり手元が暗くなる。
趙雲は陰にならない位置に立つと、燃え移らない程度の高さから蝋燭を掲げた。

「あ、ありがとうございます」

揺れる蝋燭の炎越しに、が小さく頬笑む。
趙雲が穏やかに笑んだのを見た後、は再び手元に視線を落とした。
の手によって掘り返された土、其の中に、趙雲の持って来た紫色の花を一本二本と殖え直していく。
花に、土に、触れている時のは、酷く優しく、時に真剣。
根まで大切に扱いながら作業を続けるを、穏やかに見守っていた趙雲はふと何かに気付いたように顔を上げると、馬超に蝋燭を渡し、部屋を出た。
申し訳なさそうに渡された其れと趙雲の姿を交互に見遣っていた馬超だったが、暗がりの中でも尚、手を止めないに気付くと、先程趙雲がしてやっていたように灯火を掲げる。
しかし、微妙にずれた場所で掲げるものだから、痒い所に手が届かない…そんな状態になっている。
何処か気の利かないところのある馬超に、しかしは行為其のものが嬉しくて、地面に向けて笑みを零した。

「…終わりました!」

固め過ぎない程度に土をぽんぽん、と叩くと、が満面の笑みを湛えて馬超の顔を仰いだ。
其の顔に、突然顔を上げられた事に、馬超の鼓動がどくん、と早まる。
蒼白い月の光を、温かい橙の蝋燭の灯火を、二つの異なる色を前に後ろに浴びるから、目が離せ
ない。

――大切なものを、二度、失うのは――

其の蒼白さは、夢と現の境のようで、が一歩…否、半歩でも下がろうものなら消えてしまうように思えた。
頭を過ぎった恐怖。
其れを、振り払う。
馬超は首筋を伝う一粒の汗に気付く事無く、に手を伸ばした。

「後は…、…?孟起?」
「…、」

、…この位で足りるだろうか?」

震えを制して伸ばした手がの腕に届く前に、趙雲が戻ってきた。
趙雲は一瞬部屋の中の雰囲気を察したのか言葉を発するのを戸惑ったようだが、結局何も気付かない振りをして、持って来たものをに手渡す。
馬超の手は、既に引っ込められていた。

「え?…あ、お水!すみません、子龍さん!ありがとうございます…!…でも、何で…」
「此所には水瓶がなかったからな。きっと水を遣りたいだろう、と思ってな」
「凄いです…!本当にありがとうございますっ!!」

四分の三程水の入った、大き目の柄杓をに手渡す。
静かに頬笑んだ趙雲に、も頬笑みを返しながら、趙雲の持って来た紫の花に水を掛けて行った。
自分の腕が濡れるのも構わず、丁寧に水を与えるを目で追いながら、しかし馬超は他の事を考えている。
見る者に安堵感を与えるような穏やかな笑みを湛えた、趙雲の事を。

「…ふぅ。すみません、お待たせしました。直ぐにご飯持って行きますから!!」

空いた柄杓を手に、が二人の間を通って走り出す。
部屋で待っていてください!と声を掛けられた趙雲が、そんなに急がなくて良い、と声を掛けるも、は既に遠い。
苦笑しながらの後に続こうとした趙雲だったが、蝋燭を手に動こうとしない馬超を見て、足を止めた。

「…馬超殿?」

蝋燭の灯火越しに眺める先は、趙雲がの為にと執務が終わった後に山まで駆けて取ってきた、紫色の花だろうか。
今を精一杯に生きる紫の花に、馬超は何を感じ、考えているのだろう。

「…綺麗だ。この花も、どの花も。の育てる花は、皆、綺麗だ。何故だろうか、…趙雲殿」
の心が、純で真直ぐだからではないでしょうか」
「そうか。…そうだな」

小さく呟くように返すと、馬超は立ち上がった。
部屋を出るのだろう、と判断した趙雲は、先に出、何時も馬超と呑んでいる部屋へと向かう。

「………」

しかし、趙雲の判断とは逆に、馬超は部屋の中央へと足を進める。
天を仰げば、明り取りの天窓から月の姿が半分見えた。
もう半分の姿は、天井に隠れていて見えない。
鉄格子を嵌めた先は、雲一つない夜空が広がっている。

「綺麗、可憐。正しく、其のものだ」

自分を中心に、二重の円を描いて花が殖えられている。
綺麗で、可憐。
そんな花を育てられるのは、の心が純で真直ぐだから、と趙雲は言った。

「ならば、力強さがないのは…」

趙雲に続けて問おうとし、飲み込んだ問い。
野に生きている訳ではないのだ、野生の強さがないのは当然ではないか。
其の時は、そう思い至って、問いを飲み込んだ。

「っ!」

突然大きく脈打った心臓に、馬超は唾を飲み込む。
野に生きない、強さがない。
部屋で育てられ、風に雨に打たれる事もない。
力強さが、ない。

「…違う…!俺は、間違ってなど居ない…っ!!」

空いた手を爪が喰い込むほどに握り締め、馬超は鉄格子越しに月を睨んだ。
唇を噛む馬超の殺気に、どれ程の人間が怖じるだろう、しかし、蒼い月は只々静かに馬超を見下ろすのみ。
やり場のないこの思いに、溢れ出て来る想いに、馬超は下を向いた。
其処で漸く気付く。
二重円の内、内側の一円は、全て馬超がに送った花で形作られていた事に。
一番最初、が喜ぶだろうから、と何も判らず只引き抜いてきた花。
根も何も、思い至る筈もなかった。
殖え直すには厳しい状況だったが、しかしはとても嬉しそうに頬笑み、ありがとう、孟起、と言った。
其の花が今、自分の足元に咲いている。
あの時の笑顔が、花の上に浮かぶ。

「…俺、は……っ!!」

間違ってなど。
しかし、続く言葉は飲み込まれ、馬超は静かに部屋を出た。
天井から僅かに吹き込んだ風が、花々を揺らす。
先に部屋で寛いでいた趙雲が、漸く部屋に入って来た馬超と目が合うと軽く頬笑んだが、何も言って来なかった。
馬超もまた、言葉無く趙雲の前に座る。

「お腹空いちゃいましたよね?ごめんなさい」

馬超が腰を下ろした瞬間、盆を抱えたが部屋に入って来た。
一度に運んでくる量が余りに多くて、そんなに無理して持って来なくて良い、と言いながら趙雲が立ち上がり、を手伝う様を、馬超は茫、と見ている。
盆から皿を取り、が馬超の傍にやって来た。
馬超の隣から皿を並べるの横顔を、見る。
目が合うと、何ですか?と口には出さないが、首を傾げてくる。
其の愛らしさに、いや、と馬超は首を振ると、並べられていく食事に視線を移した。

「………ふ」

思わず口から零れ出た声。
馬超の顔には、漸く笑みが浮かんでいた。



「馬超殿、今日は早かったな」
「そうですね…あ、でも、呑んだ量としては、普段と同じくらいですよ」

酔い潰れた馬超を、何時ものように二人で苦笑しつつ馬超の部屋まで運ぶ。
そして戻ってきた二人は、昨日と同じくして杯を傾けた。

「ペースが速かったんですかねぇ…?」

くい、と首を傾けながら、杯も傾ける。
馬超と趙雲の世話をしながらの酒盛りである為に、余り呑んではいないのだが、恐らく多量に呑ませてもは酔わないであろう、そう、趙雲は思っていた。
馬超の強引さで少しずつ呑まされているものの、の顔には全く酔いの色はない。
しかし、其れでもほんのり上気している頬に、趙雲は何故か、狡いな、と思った。
理由は、判らないが。

「…
「はい?」
「何か、あったのか?」
「……え…?」

訊ねようと思っていた事をふと思い出し、趙雲が言葉に乗せる。
名を呼ばれ、笑顔で返事をしただったが…趙雲の其の質問に、途端目を見開く。

「いや、な、暗くなってまであの部屋で土を弄る事は、今までになかった事……否、私が知っている限りだが。其れに今日のは、何時もより嬉しそうな顔をしているような気がしてな」

何か良い事があったのか、と、趙雲は本当に只其れだけを聞こうと思っていた。
が、返されたの表情に、本当に何かあったのでは、と勘繰ってしまう。

「え…あ…すみません…」
「違う、。何も責めている訳ではない。只、に何か嬉しい事があったのなら、聞かせて欲しい、そう
思っただけだ」
「あ、はい…すみません」
「…ふっ、…謝ってばかりではないか」
「え?あっ、す、すみま…あっ」

其れでもやはり口を突いて出た謝罪の言葉に、趙雲が、が、二人顔を見合わせて笑う。
頬笑むに…何時ものに戻ったところで、潮時か、と趙雲は思った。
あんな顔をさせる為に話を振った訳ではない。
笑って、話をしてくれるだろう…そう思ったのだ。
だから今日は、戻ってきた笑顔が消えない内に帰ろう、そう考えて、趙雲は立ち上がった。

「あ、子龍さん…?」
「済まない、。明日は殿と孫尚香殿の護衛で、朝が早いんだ。そろそろ帰って眠らねば、寝坊してしま
う」
「え?」

突然席を立つ趙雲に、気を悪くさせたのだろうか、とが顔を曇らせた。
趙雲は努めての気を晴らすような笑みを浮かべて、嘘ではない本当の理由を口にする。
そうしては、そうですか…、とそう言って玄関口まで何時ものように見送ってくれる、そう思ったのだが。
驚きとも哀しみとも取れない、良く判らない顔で趙雲を見た。

「…如何した?」
「あ、あの、尚香ちゃんも…ですか?」
「…ああ、私はそう聞いているが…、孫尚香殿と、何か約束でも?」
「い、…いえ、そう言う訳ではないんです」

顔の前で慌てて手を振ると、は慌てて立ち上がった。
が顔に浮かべた其の笑顔が無理に作られているものだと判っていたが、趙雲は何も言わずに部屋を出る。
追い掛けて来るを背中で感じながら、趙雲は玄関から一歩出た。
其の一歩だけで、玄関の戸を境にと大きな隔たりが出来る。
振り向くと、何時ものようにが戸に手を掛け、じっと趙雲を見ていた。

「済まないな、何時も何時も遅くまで」
「いえ、そんな。今日は、ありがとうございました…お花」
「其れで喜んでくれるのなら、また持って来よう」
「あ、でも、無理はされないでくださいね…?」

執務が終わってから摘んで来たであろう事は、花の状態を見れば判る。
嬉しいけれど、でも…と言った様子に、趙雲は苦笑を浮かべた。
本当に、他人第一な性格をしている。

「はは、の喜ぶ顔を見れば、疲れなど吹き飛んでしまう」
「…子龍さん」
「大丈夫だ、判っている。今日は忙しくなかったから早めに切り上げて、遠駆けに行ったから、遇々、だ」

無理をしている訳ではない、と続ける。
其の言葉に、漸くが困ったような笑みを浮かべたが、実の所は嘘であった。
今日も今日とてとても忙しかったのだが、其れでも如何にか仕事を片付け、其の後に花を探しに行った。
だが其れも、の喜ぶ顔を見れば疲れなど嘘のように消えてしまうから、と言う理由故。
だから、全てが嘘、と言う訳でもなかったのだが。

「では、な。御休み、
「はい、おやすみなさい…子龍さん」

片手を上げて、趙雲が踵を返した。
闇夜に紛れていく趙雲の姿を、は何時ものように見送っている。

「…何か、あったんだな」

から見えないところまで進み、後方で微かに戸の閉まる音を聞いて、趙雲が呟く。
何かあったのは、の其の隠し事の上手くない性格の御蔭で察せた。
だが、何があったかまでは、無論判る筈がない。

「良い事ならば、其れで良いのだが……」

月を、仰ぐ。
趙雲は暫くの間月を見詰めながら帰ったが、何も判る事はなかった。



趙雲を見送り、部屋に戻る。
片付けようか…そう思ったが、先に馬超に水を持って行こう、と給仕場まで向かった。
何時ものように水瓶から水を掬い、水差しを満たす。
少し考え事をしながら歩いていけば、奥の馬超の部屋までは直ぐだった。

「…孟起…入りますね…?」

控えめな声を掛けながら、戸を開き、身を滑らせる。
寝台傍の小机の上に、何時ものように水差しを置いて、馬超を見遣ると、うつ伏せになって眠っていた。
まるで大きな子供のような馬超。
は苦笑しながら足元に追いやられた掛布を馬超の上に掛けてやると、しかし突然、腕を掴まれ短い悲鳴を上げた。

「きゃ…っ!?」

――ぐいっ

「も、孟起…!?」

驚きに固く閉ざしていた瞳を開くと、真上に馬超の顔があった。
困惑気味の頭を抱えて状況を把握すると、如何やらは寝台に寝かせられ、馬超に覆い被さられているようで。
顔を上げれば、酔った瞳の馬超と、目が合った。

…」

馬超の顔が、下りてくる。
視界一杯に広がって行く馬超に、が、恐怖に目を泳がせた。
逃げないのは、逃げる気がないのか、身体が動かないからか。
…恐らく、後者か。

「………」

――ばふんっ

「……え?」

真直ぐに下りてきていた顔が、突然軌道を修正しての真横に沈んだ。
に向けられていた瞳は閉じられ、薄く開いた口からは寝息すら聞こえて来た。

「あ、あの、孟起?私、未だ、片付けが…」

身体の上に確り腕を置かれ、が首だけをぐぐっと動かして、訴える。
しかし、既に夢の中の人間に伝わろう筈もなく、は困った顔で馬超の寝顔を見詰めた。

「……居てくれ」
「…はい?」

脱出を諦めたが瞳を閉じた所で、横から声が聞こえて来た。
寝言だろうか。
は再び視線だけを馬超のほうに移すと、薄く目を開いた馬超が、の首筋辺りを見ていた。

「…傍に、居てくれ」

「………」

の開かれた口からは、何も出て来ない。
馬超は瞳を閉じると、の意思に任せる、と言わんばかりに腕を退けた。
今、此処で、出て行く理由はある。
夕飯の片付けをしなければならない。
其れは、が先程言っていた事だし、恐らくこの様子だと馬超も聞いていた筈。

「………」

が、立ち上がった。
軋んだ寝台に、気配に、音に、気付いた馬超。
そうだ、傍に居てくれなどと頼んだところで、にはそうする理由がない。
馬超の顔が、歪んだ。

――ふわ

「………?」

「何かあったんですか?」

しかし、次に耳に入ってきたのは、が部屋を去る音ではなく。
掛布が身体に掛けられる音、そして、が寝台に横になり直した音。
もぞもぞと掛布の中で身動ぎしながら、は馬超の顔を覗き込みながら訊ねてきた。
馬超は今、どんな顔をしてを目にしているのだろう。
は、きょとん、とした顔をしている。

「怖い夢でも見たんですね?孟起」

くすくす、とが笑んだ。
ですか?、ではなく、ですね?、の問い掛け。
其れは、の気遣いなのか、否か。

「さぁな」

ぽつり、と呟くと、馬超はに身体を向けた。
がそうしてくれているように。

「済まん」
「何がですか?」

馬超は笑って答えなかった。

其の後も数分おきに一言ずつ会話が交わされたが、何時しか其れも途切れた。

「………」

の寝息を耳にしながら、寝顔を見る。
何故だろう、只隣で眠っていると言うだけなのに、毎夜覚える不安がない。
こうして生きている、は。
そう思えるのは、掛布の中で自分のものではない体温も感じるからだろうか。

――未だ、片付けが…

目を閉じようとした馬超の脳裏に、の言葉が過ぎった。
常に周りの人間に頼り切っていた為に、片付けなど、生まれて以来した事もない。
片付けは、早いほうが良いのか。
何処か見当外れな考えを浮かべながら、馬超は一つ気合を入れると、を起こさないように寝台を出た。
気配を殺す術も、足音を殺す術も持っている。
を起こす事はない、…筈だったのだが。

――がしゃーん

「っ!?な、何ですか!?…?…孟起?」

数分後、盛大に引っ繰り返された皿の奏でた不協和音に、は強制的に起こされた。



――ぱたぱたぱた

「孟起!?大丈夫ですか!?」
「……す、済まん」

が慌てて駆けつけると、馬超は給仕場手前に居た。
盆を持ったまま固まっているのは、先に皿だったものの片付けをするか、盆を直其処の給仕場に運ぶか迷っていたのだろう。
しかし、給仕場への道は、皿の破片で塞がれている。
どちらにしろ、破片を先に片付けたほうが安全だろう。

「危ないので、孟起は動かないでください!!何か袋と、箒と塵取があれば、…あ」

片付ける道具を思い浮かべていたが、何かを思い出したように声を上げた。
そして、顔を曇らせる。
箒も塵取も、給仕場の中なのだ。
さて、如何したものか、と考えたが、悩んだところで箒も塵取も飛んで来てはくれない。
ならば。

「…!?っ!?」

破片の少なそうなところを選んで、が足を伸ばして行く。
馬超が驚いている間に、ひょいひょい、とは台所の奥へと消えてしまった。

「大丈夫か!?」
「大丈夫ですよー。孟起、危ないから触らないでくださいね?」
「あ、ああ」

がたがたと何かを動かす音と共に、の声が聞こえてくる。
馬超は盆を抱えたままの様子を窺うが、どうも暗がりの中でごそごそやっているようで、見えない。

「すみません、孟起」
「ん、あ、ああ?如何した?」
「蝋燭を多めに持ってきて頂けませんか?」
「あ、ああ…そうだな、判った」
「すみません…あ!孟起!お盆は置いて行かないと…!」
「え?あ、そうだな、そうだったな」
「ふふ、そんなに驚かなくても大丈夫ですよ?」
「…そうだな」
「ふふふ…」

皿を割った事に酷く驚いているのだろうか、馬超に落ち着きがない。
は給仕場に灯された蝋燭の明かりの範囲内で、箒と塵取に似た物を使って破片をさっさか集めて行く。
其れを、底に紙を敷いた、給仕場で見付けた木箱の中に移しては集める、を幾度か繰返した。
そうして粗方片付いたところで、馬超が燭台を二本持って来た。

「あ、孟起、ありがとうございます」
「いや…」
「後は大きい欠片が残っているだけだと思いますが、近付かないでくださいね?まだちゃんと確認してませんから」

言いながら、は手で掴める程度に大きな残骸を拾っては木箱に入れていく。
割った枚数は、大凡六枚程だろうか。
ふと廊下に置かれた盆を見遣ると、食事の皿全てどころか、酒盛りに使った酒器など全てを一度に持って来ようとした事が見受けられる。
器用なだって、食事分しか運ぶ事が出来ないのだ、幾ら馬超により力があろうとも、些か無謀かと思われた。

「痛ぅっ」
「え?…孟起っ!?」

盆に意識を遣っていたが、直ぐ近くから聞こえた呻き声に視線を移す。
すると、目を離した隙に馬超が破片を拾おうとしたらしく、切っ先で指を切っていた。
は馬超の腕を掴み、其の手からそっと破片を受け取ると、木箱に移す。
そして、だらだらと面白いように流れて行く血を見て、何か止血できるものはないかと見回した。

「す、す、す、済まん」
「今は自分の心配をしてください。孟起、布か何かはありませんか?」
「ぬ、布?えーあー、あ、此れは如何だ!?」
「…服を破れと言うんですか?もう、落ち着いてくださいっ」
「いや、落ち着いている」
「鏡で自分の顔を見てみてください。…もう、別に怒ったりしませんよ?」

出血に慣れていない筈などないので、馬超のこの狼狽振りは、の言う事を聞かずに手を出した事について怒られると思ったから、とは察したらしい。
確かに繰り返し念を押していたのに手を出し、そして見事に怪我を追った馬超に呆れる所はあるものの、しかし其れも片付けを手伝おうとしたが故。
其れに、こんなにも子供のように怒られる事に対して怯える馬超に、誰が叱責出来ようものか。

「あ、、垂れる!」
「え?あー、…。すみません、孟起」
「…へ?…!!?」

布も何も見当たらず放っていたら、手の平で皿を作るようにして受けていた血が、零れそうなほどになっていた。
中々の出血量に、此れは血を止めるのが先決か、と思い至った瞬間、は血を微妙に流し続ける馬超の指先を口に含んだ。
一瞬何が起きたか判らなかった馬超も、指先に感じる温かな感覚に、身体を硬直させた。

「孟起、手を洗いましょう。零れたら零れたで構いませんから。……?孟起?」
「……へ!?あ、ああ、そうだな、手を洗わねばな」
「…孟起?どこへ…?」
「へ?…あぁ、そうか、俺は何処へ行こうと…」
「孟起、しっかりしてください」

見当違いな方向へ歩き始めた馬超の袖を、が引っ掴む。
未だどきどきしている馬超の心など露知らず、腕を引きながら流しまで連れて行った。
柄杓で汲んだ水を、馬超の手に掛けてやる。

「痛いですか?」
「いや、…大丈夫だ」
「では、ちょっと待っててくださいね。あ、洗い終わっても手は拭かないでください」
「ん、ああ」

粗方洗い終わった後、柄杓に残った水にばしゃばしゃと手を遊ばせる。

「孟起、これで手を。血は止まりましたか?」
「済まん。…あぁ、薄らと滲んではくるが、大分止まったようだ」
「そうですか。では、手を出してください」
「ん」

乱雑に手を拭いた後、に向かって手を差し出す。
小さめの絹を広げると、は小器用に傷口に当てていった。

「…これで大丈夫だと思います。では、孟起は先に休んでいてください」
「いや、そうは行かん」
「ふふ、気にしないでください。私は、寝坊しても誰にも文句を言われないですから」

孟起は寝坊したら怒られるでしょう?と頬笑みながらが馬超の背を押す。
無理矢理給仕場から出された形となった馬超は、一言、済まん、と呟いて部屋に戻って行った。

「……もう…」

其の背を見ながら、片付けを再開する。
大きな欠片を捨て、床に細かな欠片がないかを念入りに確認して、そして無事だった皿達を洗い、卓を拭く。
全てが終わった時には、結構な時間になっていた。
ふぅ、と一つ溜息を吐くと、は馬超の持って来た蝋燭を玄関口に戻し、部屋へと向かう。

「あら?」

自分の部屋へ戻ろうとして、しかし馬超の部屋の戸が開いている事に気付く。
部屋を出ているのだろうか、と中を覗いて見るが、馬超はきちんと寝台で寝ていた。

「…孟起……」

馬超が、寝台の隅で寝ている事に気付く。
掛布も少しだけ掛けてあるだけで、此れは、明らかに。

「失礼しますね」

馬超の寝台の、足元から上る。
先程と同じように壁側に横たわると、馬超と自分が上手く入るように掛布を掛け直した。

「孟起、起きてますか」
「寝ている」
「そうですか」

小さな呟きにも近い問い掛けに、直様返事が返って来た。
は苦笑を漏らしながら馬超の顔を見遣ると、瞳も口も閉ざした馬超が其処に居た。

「ありがとうございますね」
「…?何がだ?」
「…ふふ、…さぁ」

片付けをしなければ、と気にしていたの代わりに、した事もないであろう片付けをしようとしてくれたの
だ。
恐らく、朝方を驚かせる為に。
結果だけ見れば、余計な仕事を増やしただけに過ぎないのだが、其れでも其の気持ちが嬉しかった。
しかし馬超のほうは、礼を言われたものの何に対しての礼なのかさっぱり判っていないようで。
の漏らした笑みに、薄く目を開いて様子を窺っていたが、直ぐに目を閉じ、眠りの体勢に入った。

「おやすみなさい、孟起」
「ああ。御休み、



其の日は、あの夢を見る事もなかった。


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