結局、「寝坊しても誰にも怒られる事のない」に馬超は起こされ、共に食事を摂った後に屋敷を出た。
そして、朝食の後片付けや割れた皿の処理を、家僕と共に片付けて午前中を過ごしたは今、何時もの部屋に腰を下ろしている。
くり貫かれた天井から射す午後の日光を浴び、真直ぐに咲いた花で埋め尽くされた例の部屋に。

「………」

中央の緑の草だけの空間にころん、と横になり、何とはなしに天を見上げる。
鉄格子越しに太陽が直射日光を浴びせてきて、眩しい。
目を焼かれる前には目を閉じるが、目蓋越しにも光を感じる。

「暑…い、です」

ぽつり、と呟いた。
誰が聞いている訳でも、誰に聞かせる訳でもなかったが、閉じていた瞳を薄く開いて、呟く。
無論聞く者は誰も居なかったが、唯一反応してくれたものと言えば、吐息に揺れた緑の草だけか。

――明日、また来るぜ

脳裏を過ぎる、孫策の約束。

――明日は殿と孫尚香殿の護衛で

孫策の約束を覆う、趙雲の言葉。
孫尚香が来れないのならば、孫策も来ないだろう。
昨日も、孫尚香が孫策を連れて来たようだったから。

孫策が来ない。

其れを残念に思うのは、やはり昨日のたった数時間の会話が、にとって本当に楽しいものだったからだろう。
腹の底から笑う孫策の顔、花を綺麗だと言ってくれた真剣な孫策の顔。
其れをもう一度見るのを楽しみにして、昨日はあんな時間まで、馬超が帰って来る時間にすら気付かずに土を弄っていた。

孫策は気付くだろうか、いや、気付かないだろう。

僅かに花の位置を変えただけでは、孫策は気付かない。
判っていながら、は手を入れた。
そんな事を考えながら土を弄るのが、楽しかったから。

じりじりと、太陽がの肌を衣服越しに灼く。
暑い、と感じたが、しかし動く気もしなくて、は再び瞳を閉じた。
緑の草が僅かな風を受け、さわさわと音を奏でるのが耳に入り、土を弄っていた時の楽しい気分が甦ってくる。
は其の記憶に頬を緩ませながら、そして、寝入ってしまった。



――がた…がたがた

「……?」

何か重いものを動かす音を耳にし、は目覚めた。
全身に薄らと汗を掻いている。
こんな日光の当たる場所で寝入っていたのだから、当然といえば当然だったのだが。
しかし其れも暑いとまでは行かず、若干汗ばんだ身体には、天窓から吹き込む柔らかな風が心地好かった。
何より、今は直射日光が当たっていない。
今日は晴れ渡る青空が広がっていた筈だったが、寝ている間に曇ってでも来たのだろうか?
目を少しだけ開けてみると、天井から射し込む日光はあまりなく、緑の草や花達には影が射していた。

――がたっ

「?」

自分の身体に感じる事ばかりに気が行っていたが、思い起こせば、物音で目覚めたのだ。
は何かが外れる音で漸く、瞳を完全に開いた。
そして、上体を起こし、未だぼやけた侭の頭を軽く振る。
すると。

――すたっ

「……え?」

何かが下りてきた、音がした。
には気配を読むなどと言う芸当は出来無かったが、しかし、確かに背後に誰かが居る。
微妙に感じる体温と言うのもあったが、何より、自分を覆い隠すように影が伸びていた。

「………」

寝惚けていた頭が覚醒する。
思えば、先程までがたがた言っていたのは、鉄格子を外そうとした音だったのだろう。
考えてみれば単純な事だ、しかし、心の何処かで鉄格子が外れる筈がない、そう、思っていたから上を見上げなかったのかも知れない。
には誰が後ろに立っているかなど、検討もつかない。
恐怖で、動けなかった。
まるで背骨に真直ぐな棒でも入れられたかのように、背筋がぴんと張っている。
如何されるのだろう、如何すれば良いのだろう。
涙すら浮かんで来たに、しかし、後ろの人物はぽん、との怯えた様子に気付いていないかのように肩を叩いて来た。

「っ!?も、孟……っぐ!!?」

其の瞬間、びくん、と肩を震わせ、そして思わず口を突いて出た馬超の名を叫ぶ。
しかし、其の叫びも背後の人物の大きな掌によって塞がれた。
力強く、とてもの力では剥がせそうにない其れに、頭の中に絶望の二文字が過ぎる。
が。

「…俺だ、俺」
「………………え?」

の抵抗がなくなったのを見計らって、背後の人物が罰が悪そうに呟き、手を離した。
聞き覚えのある声に、が二、三回呼吸を繰返した後、ゆっくりと振り返る。
其処には、居る筈のない人物が、居た。

「……え、どうして、伯符…が?」
「来るって言った筈だぜ」
「…屋根からですか?」
「……其れは予定外だ」

真丸と目を見開いたまま、背後に居た人物、孫策をまじまじと見詰める。
そんなを、やはり未だ罰が悪そうな顔をしたまま、孫策が見詰め返していた。

――明日、また来るぜ

孫策の言葉を再び脳裏に甦らせながら、は天を仰いだ。
鉄格子の外れた天窓から、粲々と太陽の光が二人を照らしている。
太陽の位置からして、が眠りに就いて、然程時間が経っていない事が判った。
そして、もう一つ判った、大きな事。
其れは、鉄格子のない窓から見える青い空は、とてもとても広いと言う事だった。

「鉄格子…外せたんですね…」
「ああ、接着されてたら如何しようかと思ったけどよ、噛ませてあるだけで、上手く外しちまえば後は力任せだな」

孫策が格子を外す様子を、身振り手振りを交えて大袈裟に再現している。
今にもがたがたと聞こえてきそうな説明は、思いの外上手で…は漸く笑顔を見せた。

「悪ぃ」
「え?」
「怖がらせたな」

花で形作られた二重円の、内側の円の中に腰を下ろした。
そして、座ったままだったと視線を合わすと、そっと顔に手を遣り、左の目頭を軽く親指で触れる。
すると、まるで孫策の指に吸い寄せられるかのように、零れ損ねた涙が指を濡らした。
未完成の涙をぐい、と指に擦りつけて形跡もなく消すと、孫策は今度は右の目頭を、そっと左手の親指で触れ、同様にする。

「怖がってる気配がびんびんに伝わってきてよ。こりゃ絶対ぇ悲鳴上げるな、って思ったけど、まさか行き成り口塞ぐ訳にもいかねぇだろ?」
「…あれも、あまり変わりませんよ…」
「……そうか、そうだよな。…本当に、怖い思いさせて…御免な」
「あ…」

冗談ではなく、本当に心苦しそうな孫策。
本当は先に声を掛ければ良かったのだろうが、そんな事すら思い至らなかったのだろう、彼らしい。
胡坐を掻き、足の上に左肘を立て、左手で頬杖をつき何処かを見遣る孫策は、酷く小さく見えた。
孫策がに怖い想いをさせる心算がないと言うのなら、もまた、孫策にそんな顔をさせたい訳でも
ない。
だから、笑った。
孫策が安心するように、そして、今の自分の気持ちを精一杯に表せるように。

「伯符」
「…うん?」
「ありがとう、ございますね」

来てくれて有難う。
其の気持ちは十分に伝わったのか、果たして、其れは孫策の若干の驚きの表情を見れば十分に
判った。
そして其の表情には、安堵も多分に含まれている。

「俺は自分で決めた事を果たしただけだぜ。礼を言われるような事じゃねぇ」
「其れでも、態々あんな所から…あら?そう言えば伯符、何で此処から入ってきたんですか?」

玄関は?とが先ず最初に聞くべき質問を、今更ながらに訊ねる。
独得の時間の流れ方に孫策は苦笑したが、しかし、内心としては大焦りで答えを捻り出そうとして
いた。
この、然も不思議そうに訊ねてくる少女は、馬超が厳しく来客を選定している事を知らないのだろう。
故に、きょとん、と不思議そうに、孫策と天窓を交互に見遣っているのだ。
なれば、其の事を態々教える必要もないだろう、と孫策は判断した。
其れを知れば、少なからずは疵付く…否、哀しむと思えたから。
口では上手く説明出来ないが、伝えれば一瞬でもの表情が沈むだろう、と其れは確信出来た。
のそんな表情を孫策は見たくないと思ったから、普段は回り過ぎると自動的に停止が掛かる頭を必死に回して、考える。

「…怪しい奴だとよ」
「………え?」
「この屋敷に近付いてるとよ、門番がすげぇ威嚇してくんだよ。不審者扱いだ、不審者」
「…え、でも、昨日は…」
「昨日は尚香と一緒だったから問題なかったけど、今日は俺一人だし、昨日と門番違ってたしなー。変に追っ払われたら二度と近づけねぇ、って思ったから、裏の林から塀攀じ登って屋根に飛び移って、此処まで来た」
「………大変…でしたね…」
「まぁな。しっかし、此れじゃ門番置いてる意味ねぇだろ?あっさり侵入されてんじゃねぇか。俺に」

言って、孫策は豪快に笑った。
今の説明は、嘘半分真半分、と言ったところか。
追い払われるのが目に見えた孫策は、遠くから門兵を確認しただけで直ぐに裏の林へ向かった。
因みに、門兵は昨日と同じで、基本的に人間が変わる事はない。
塀に攀じ登って屋根に飛び移って、からは本当だ。
身を低くして屋根を動き回れば、大き目の鉄格子のある場所なんて直ぐに見付かる。
大体そんな部屋、二つもある筈がないだろうから。
そうして見付けた鉄格子を外そうとし、中を覗くとが寝ていた。
起こすか否か迷ったが、まさか此処で大声を出す馬鹿も居ないだろう、孫策は取り敢えず鉄格子を外しに掛かった。
後は、今に至る…だ。

「塀って結構低いんですか?」
「ん?そうだな…俺の倍はあったと思うか、…?…おい、。御前、この屋敷の塀、見た事ねぇのか…?」
「え、…あ、いえ…」

軽い気持ちで口にした質問に、孫策が余りにも真剣な顔で応えて来るものだから、何か余計な事を言っただろうか、との瞳に不安の色が混じった。
屋敷に住んで置きながら、屋敷の塀を見た事がない。
否、の部屋の窓からも外は見れるのだから、塀を見た事がない、と言うのは語弊だったが、どの位の高さがあるかまでは把握出来なかった。
窓には鉄格子が嵌っていて、顔を出せないから。

「どれ位の高さなのかな、と思っただけですから」
「…なぁ。裏に林があったの、知ってたか」
「………いえ」

孫策の質問に、たっぷり迷ってが返事を返した。
何故か、知っている、と答えてしまいそうになったのは、何故だろう、誰かを、何かを庇っているからか。
しかし此処で知っている、と答えても、詳しく突っ込まれては襤褸が出る。
だから本当の事をは答えた。
そして孫策は、やはり、と確信を持つ。
は、自分が住んでいるこの屋敷の周りすら、外の世界を知らない。
広義、の世界はこの屋敷の中のみなのだ。

「御前は…は、其れで良いのか」
「…どういう、意味ですか?」
「こんな屋敷に閉じ込められて、辛くねぇのか」
「孟起が良くしてくれますから。不満はありません」

孟起が良くしてくれるから、不満はない。
孫尚香の言った通りだった。
不満はない、そうかも知れない、だが、其処にの意思はない。
が屋敷の篭る事を望んでいれば何ら問題はないだろう、しかし、口には出さないが、だって外に出たい筈。
其れは、玄関口で自分達を見送った時のあの姿、戸に掛けた手、そして先程鉄格子のなくなった天窓から覗いた青空を、輝くような瞳で見ていた姿を見ていれば、容易に察する事が出来る。
だが、其れを口にする事はないだろう。
其れが、だからだ。

「不満はない、か。ならよ、望みは何だ」
「………え」

口にしない、ならば、引き摺り出すまでだ。
孫策が、真直ぐにを見据える。
真剣に、しかしを怯えさせないように。

「不満はねぇ、望みもねぇ。は、ないだろ。別に、叶えられるもんじゃなきゃいけない、なって言ってねぇんだ。何でも言ってみろ。の口から聞きてぇ」

私の、望み。
聞かれ、驚いた。
此れまで、沢山の人に聞かれてきた事があった。
其れは、不満はないのか、と言う事。
馬超にも聞かれたし、趙雲にも孫尚香にも、親しく言葉を交わした人には全て聞かれた気がする。
だが、思い至って自身も意外と感じているのだが、望みを聞いてきた人は、此れまで誰一人として居なかった。
だから、聞かれて驚いた。

「望みなんて、」
「ない訳、ねぇだろ?」

目の前の、孫策の瞳を見詰める。
力強さを輝きに変えて内包している瞳を、は見ていられなくなって、目を逸らした。
望みは、ある。
心に決めた、何時も鉄格子越しの空を眺めては馳せていた願いが、ある。
聞かれなかったから、言わなかった。
だが其れは、聞かれても言わないで置こう、そう決めた願い。
誰にも迷惑は、掛けたくなかったから。

「今の生活に、本当に不満なんてないんです。だから、」
「俺が聞いてるのは、の望みだ。試しに言ってみろよ?俺が叶えてやれるかも知れねぇんだからよ」

「………」
「………」

「……ははっ、妙な所頑固だな」

押し黙るの口元が、固く噤まれているのを見て、孫策が折れた。
引き摺り出そう、とは思ったが、無理矢理と言うのは趣味ではない。
だから、孫策は笑う事で、其の場の沈黙を振り払った。

「なぁ、明日俺に付き合ってくんねぇ?」
「え?」
「俺、未だじっくり蜀の街見てねぇんだ。だから、明日行こうと思ってっから…ついて来てくんねぇか?」
「………」
「な、頼む!一人で見てもつまんねぇだろ?」

この通り!と合わせた手の向こうから、孫策がの様子を窺うように片目を開く。
頼み込む、と言う方法は、相手に使うには少し卑怯かと思われたが、其れでも孫策はを連れ出したかった。
一人で見てもつまらない、と言うのは本当だったが、孫策自身一人旅が多い為、別に一人なら一人での楽しみ方を知っている。
其れでも、だ。
其れでも、其れを口実にして、を外に出したかった。
外に出る事がの望みであるならば、望みが叶うと言う事にもなるし、そして其れはの我侭と言う形ではなく、孫策の強引な誘いと言う形にも持って行けるから。

「昼過ぎに出て、陽が暮れるまでには絶対帰ってくる!馬超の奴に心配も掛けねぇから!!」
「………」
「駄目…か?」
「………」
「………」

「判り…ました」

「!?ほ、本当だな!?取り消しなしな!!よっし!」

渋々、と言った風に、が頷いた。
望まれた事を断り辛い性格が災いしたのだろう、しかし、孫策の喜びようを見ているうちに、も自然、頬笑み始めている。

「ありがとうございます…伯符」
「うん?礼を言うのは俺だぜ!有難うな、!!」

の礼の真意に気付かない振りをして、孫策が笑う。
そんなさり気ない気遣いにすらが救われている事に、孫策自身気付いているのだろうか。

「明日だぜ、明日!…っくぅぅぅ!楽しみだぜ!!」
「ふふふ…私も楽しみです」
、街で何してぇ?美味いもんでも喰うか?あ、其れとも服でも見たいのか?」
「え、あ、…私、どんなお店があるか、判らないです」
「ん?あー、そうか。別に恥じるような事でもないと思うんだけどよ。…あ、ならよ、の居たところはどんな店があったんだ?」
「私のところ、ですか?」
「おう」
「そう、ですね…」



「で、よ!其れ行った後、肉饅の旨い店行こうぜ!」
「はい!でも伯符、色んなお店、知ってるんですね?」
「ああ、来る途中、そう言う話は耳にするようにしてっからな!あ、肉饅の後は、硝子細工の店な。腕の立つ爺が居るらしいぜ。其の店を、遠くから見る」
「え?遠くから、ですか?」
「おう。手ぇ動かしただけで薙ぎ倒しそうで、店ん中なんて入れねぇよ」
「えぇっ!!そんなの勿体ないですよ!!」
「見たいか?」
「え、あ…いえ、私はどちらでも…」
「じゃ、肉饅の後は、硝子細工の店に入るぜ。百個や二百個薙ぎ倒しても、弁償する金は…」
「あるんですか?」
「…そん時ゃ抱えて逃げっからよ!俺が合図したら、俺の腰に掴まれ!!」
「は、伯符っ!!」
「良いか、合図はな、」
「え、もう、本気なんですかー!?」

孫策の大きな笑い声が、の小さな、しかし腹の底から出している事が判るほどに楽しそうな笑い声が、部屋に響く。
こんなに喋った事は、あっただろうか?
此方に来た時こそ、あれこれと根掘り葉掘り尋ねられたものだが、数月経った今は、以前のように聞き役に徹する事が多かった。
自分の意志で、好きなだけ話す。
たった其れだけの事がこんなに楽しいなど知らなかった、と興奮に頬を紅く染めたは、笑い過ぎで浮かんできた涙を拭いながら、思う。

「でも、決めたお店全部回るとしたら、時間足りないんじゃないですか?…あ」

昼過ぎですよね、とふと天を仰げば、刳り貫かれた天井の向こうには、茜色の空が広がっていた。
何時の間にこんなに時間が経ったのだろう。
楽しい時間は直ぐに過ぎると言うが、本当に其の通りではないか。

「…昼過ぎ、じゃなくてよ、もう少し早くするか?」
「お昼前、ですか?」
「俺は何時でも動けるけどよ、は?朝飯は馬超と食ってんだろ?」
「はい。其の後食器洗ったり、お掃除したり…」
「は!?御前、そんな事までしてんのか!?」
「あ、いえ、私はお手伝いしてるだけですから…。だから、えっと、お昼よりもっともっと前ぐらいから、大丈夫だと思います」
「…抽象的だな」
「時間、判らないですから…すみません」
「いや、別に良いけどよ。じゃ、俺は馬超が出てったの見てから、この上に居るぜ。出れる時間になった
ら、此処に来てくれ」
「え、でも、何時になるかはっきり判らないですよ…?」
「構わねぇよ。横になっとくから」
「そう、ですか…?」
「おう」
「すみません…」
「だから、謝るなっての」
「はい、す…、あ」
「次言ったら、罰として何かするか」
「い、嫌ですっ!!」

孫策の提案に、が本気で嫌がった。
二人顔を見合わせ声を上げて笑ってみれば、益々楽しくなって、更に笑いが込み上げる。
どちらからともなく笑い声を収めて頭上を見上げれば、そろそろ本当に余裕のない時間となっていた。

「じゃ、今日は帰るか!」
「…はい。あ、伯符。如何やって帰るんですか?」
「ん?そりゃ此処からに決まって…」

言って、二人同時に橙の陽光射す天井を見上げる。
綱も何も垂れ下がっていない天窓に向かって、例え運動神経の並外れて良い孫策が跳躍しても、届くのは絶対に不可能。
かと言ってまさか、のこのこと玄関から出て行く訳にも行くまい。

「…私、椅子、取って来ますね」
「おぉ、其の手があったか」
「何も考えずに下りて来たんですか?」
「ああ」
「もう…。伯符らしいと言えば、らしいですけど」
「褒め言葉か、其れ?」
「はい」
「そりゃ有難うな」
「ふふ」

肩越しに笑みを投げ掛けながら、が部屋を出る。
自室の鏡台の椅子の高さならば、十分だろうか。
そんな事を考えながら早足で歩いていると、長く感じる廊下もあっという間だった。
馬超が雇う家僕は余り歩き回らないので、掃除をしている時間帯を除けば、出くわす事も余りない。
は部屋の戸を全開にしてから入ると、椅子を抱えて元来た廊下を戻り始める。

「す、すみません伯符ー」

――がらっ

部屋の外からの微かな呼び声を聞き取り、孫策が戸を開く。

「おう、重かっただろ、大丈夫か?」
「いえ、…あ、すみません」

確りした造りの其の椅子は、質が良い木でも使ってあるのか、重い。
孫策はひょい、とから椅子を取ると、花を避けながら部屋の中央に進み、椅子を置いた。

「………」
「靴のままで、構いませんよ」
「悪ぃな」

草の上に置かれた椅子をじっと注視していた孫策の頭の中を読み取ったが、孫策が何かを言う前に口を開く。
一々靴を脱いで屋根上に攀じ登り、から靴を受け取って履く、など効率が悪過ぎるし、椅子の汚れなど拭けば問題ない、と考えたの言葉に、孫策は有難く頷いた。
土の付いた靴のまま椅子に足を乗せれば、案の定値の張りそうな椅子は汚れてしまったが、は特に気にしていないようだった。

「よっ」

掛け声一つで、孫策は天窓の縁を掴み、ひょい、とまるで階段を使って上ったかのようにあっさりと屋根の上に上ってしまった。
余りにも軽々と遣って退けてしまったが、空中に足をぶらりと浮かせた状態から腕の、否、指先の力だけで上に上ったようなものなのだ。
心の底から凄い、とは思った。

――ずりずりずり…がたっ、がたんっ

直径が孫策の背程もある、相当な重量があるであろう鉄格子をいとも簡単に嵌め直してしまう。

「じゃ、な。寝坊すんじゃねぇぞ!!」
「ふふ、大丈夫ですよ!」
「ははは、そうだな!!また、明日な!!」
「はい!!」

鉄格子越しに孫策は手を振り、の返事を聞いた瞬間、姿を消した。
響くかと思った足音も、殆ど聞こえて来ない。
孫策が居た形跡は既に、土に汚れた椅子のみだった。

「明日…楽しみ、です」

ぱんぱん、と叩き、大まかに汚れを落とす。
椅子の背を大事そうに抱きながら、は部屋に戻った。

楽しみ、確かに其の感情が、の大部分を占めている。
しかし、不安な事もあった。
この屋敷の外がどんな風なのか、街がどんな風なのか。
其れは未知なるものに対する若干の恐怖であったが、は何より、馬超に黙って外に出る事に後ろめたさを感じていた。
知られたら、馬超は如何するだろう。
…見られたら、馬超は如何するだろう。
馬超は、の為に、を護る為に、外に出さないで居たのだ。
其の気持ちを、裏切り、踏み躙る。
其れを考えると、心の奥がぐっ、と痛みを訴える。
しかし、其れ以上に、明日出掛けるのが楽しみな自分が居る事にも気付いていた。
孫策と、出掛ける。
何処に行くかを話すだけで、あんなに楽しかったのだ。
実際に街を歩き回ったらどんなに楽しいだろう、今からわくわくとしてくる。

「孟起…ごめんなさい」

鉄格子の嵌められた自室の窓から、聞く者の居ない謝罪の言葉を呟く。
黙って勝手に外に出たりして、護ろうとしてくれた想いを、裏切って。

「…あ」

ふと、気付いた。
最初から、黙って行ってしまおうと決めている自分に。
馬超が、端から駄目だと言うに決まっている、と決め付けている自分に。

「………ごめん、なさい」

其処に気付いても、やはりは馬超には黙っていようと思った。
例え半々の確率だったとしても、明日出掛けられなくなるのは、如何しても嫌だったから。
小さな拳をぐっ、と握り締めて瞳を閉じる。
心の奥がまた、痛んだ。





「…だから、其の泉の元に咲くと言う花は、全て蒼くなると言う話なんだ」
「はぁ…素敵なお話、ですね…」

趙雲とが二人、月明かりの下で酒を酌み交わす。
偶には月見酒も良い、と例の部屋で酒盛りをしようと言い出した馬超は、例によって例の如く既に潰れており、二人によって自室に運び込まれていた。

「昨日、紫の花を持って来ただろう?あれを摘んだ山にも、面白い話がある」
「えっ…山まで取って来てくださったんですか…?」
「はは、山、と言っても、馬に跨って風を感じていれば直ぐ着くようなところだ。其れで、其の山の…」

馬超が酔い潰れても、趙雲との二人で少しの間呑む、と言うのが習慣化して来たようで、二人は花に囲まれた部屋で、花の話を肴に酒器を傾けていた。

「今日は余り、呑まないのだな」
「あ…はい、偶には控えめにして置こうかな、と思って…」
「体調でも悪いのか、と思ったのだが、そう言う訳でもなさそうだから、安心した。…そうだな、毎日私と馬超殿に付き合っていては、身体を壊しかねない」
「ふふ…子龍さんも、気を付けてくださいね?」
「ああ、そうしよう」

趙雲が穏やかに笑う。
二人の笑い声が収まると、途端、心地好い程度の沈黙が、部屋に広がった。
趙雲が何気なしに天を仰ぐ。
月見酒も良い、とこの部屋に移って来たものの、思えば話してばかりで一度も肝心の月を見ていなかった。

「………」
「…?どう、されました?」

月を見上げた趙雲の眉が、一瞬顰められたのを見て、が声を掛ける。
其の声に、はっと趙雲がに視線を遣ったが、しかし直ぐに目を向ける先を月へと戻した。

「…いや…、満ち足りぬ月だな、と思ってな」
「そうですね…、満月まであとどのくらいでしょう?」
「明後日、だな」

天を仰いだまま、趙雲が言う。
は、酒器を手にしたまま夜空を眺める趙雲の顔を見ていたが、趙雲の視線は如何も、月輝く天ではない、何処か違うものを見ているように見えた。



「………」

趙雲を見送った後、何時ものように水差しを馬超の部屋に持って行く。
小机の上に置き、埃避けの絹を被せてからも、は茫、と其の場に立っていた。
寝台に突っ伏す馬超を、じっと見詰める。
先程から口を開いては閉ざす、を幾度も繰返していた。

孟起、明日、伯符と出掛けて来ます。
孟起、ごめんなさい。

前者を言えればどんなに楽だろう。
せめて、後者でも良い。
だが、には寝ている馬超相手にさえ、其のどちらも口にする事が出来無い。
若し起きていたら、起こしてしまったら、と思うと出掛かった言葉が咽喉の奥へと落ち込む。
はゆっくりと首を振り、右手の拳を強く左手で包み込むと、其の侭部屋を出た。

「…ごめんなさい」

其の呟きが漸く出たのは、自室に入って部屋の戸を閉めた時であった。
掠れるような声は、静かに明りを投げ掛けてくる月にすら、届かない。



静かに眠るの顔を、馬超が床に胡座を掻きながら息を潜めて見詰める。
またが居なくなる夢を見て、飛び起きた。
随分久し振りに見たような気もするが、実際、見なかったのは昨日の唯一日だけだ。
が横に居ると言う気配を感じながら眠るだけで、深く眠りに就けた。
御陰で、に起こされてしまう嵌めになったのだが。

僅かに欠けた月が零す、蒼白い光のせいだろうか。
の顔色が、酷く悪い気がする。
時折、掛布を握る手に、力が入っている。
悪い夢を見ているのか。
酷い喪失感を伴う悪夢を見る、馬超と同じように。

「孟…起……」
「!」

苦しそうな声で、が馬超の名を呼ぶ。
やはり、悪夢に魘されているのか。
そして…が馬超の名を呼んだのは、夢の中で助けを求めているからか?
苦しむに申し訳無いとは思いつつも、しかし、馬超は嬉しかった。
やはりを護るのは自分の役目なのだと、改めて再確認する。

…」

皺が出来る程に、掛布を力強く握り締めるの右手に、馬超が手を触れようとして…離して…そして、意を決したかのように触れた。
は目覚めない。
ほっ、と、馬超が安堵の息を吐いた。

「大丈夫だ。俺は…此処に居る」

「孟起…」

が名を呼ぶ度に、馬超は触れ合った手に意識を集中させ、己の気を送り込むようにする。
こんなもの、気休めにしかならない事を、馬超は良く知っている。
其れも、自分に対する気休めだ。
には何ら効力は及ぼさない。
其れでも、触れ合った手のように、心も繋がれば良い、そう願うように馬超はに言葉を投げ掛け続け
た。



馬超は結局、空が白み始める寸前まで、の寝顔を見ながら、傍に付いていた。


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