「…伯符っ」

馬超を見送り、朝食に使った食器を片付け、手早く掃除を済ませて用意も済ませ、昼食は要らない、と家僕に伝えた後、は昨日使ったものと同じ椅子を抱えて、例の部屋に入った。
小声で数度呼び掛けるとやがて、のそり、と鉄格子の端に人影が浮かんだ。

「…よう。もう大丈夫なのか?」
「はい。すみません、御待たせして」
「いや、寝てたから。気にすんな」

孫策は控え目に伸びをすると、早速鉄格子を外しに掛かった。
其の間には、花を踏まないよう足元に注意しつつ、中央まで椅子を運ぶ。
が危なっかしくも椅子に上ったと同時に、孫策が格子を外し終えた。

「わぁ…!!」

広がる青空が、近い。
たった少し視界が高くなっただけで、視界を遮る格子がなくなっただけで、空はこんなにも近く、青い。

「伯符、凄い、凄いです!」
「ははっ、落ち着けよ。未だ部屋ん中じゃねぇか…ほら」

天窓の縁から孫策がに向かって手を伸ばす。
きらきらと瞳を輝かせたが差し出された右手にそっと、しかし力強く両手を重ねると、孫策はさして力を入れた様子もないのに、あっさりとを引き上げた。

「っきゃ…!」
「ばれっから…なるべく静かに、な」
「はいっ」

の上半身が屋根上に姿を現すと、孫策はの腰に残る左手を添え、完全に引き上げる。
四つん這いになったが転がり落ちない位置に移動したのを確認して、外した鉄格子を再び嵌めた。

「良し、行くか?」
「………」
「…聞いちゃいねぇ、か」

風が吹いている。
僅かに吹き込む風や、鉄格子に当たって勢いを失くした風とは違う、空を流れる、風が。
そして、其の風を受け、木々がざわめく。
耳を澄まさずとも、木の葉達が互いに触れ合う音が勝手に耳に入ってくる。
何より、視界が広まった。
馬超の屋敷の、長い長い廊下も目ではない、色の種類も格段に増えた景色が、目に飛び込んでくる。
屋根と同じくらいの高さまでの塀が、屋敷を囲んでいた。
門と逆方向、と馬超の部屋側の塀の向こうには、孫策の言った通り木々が広がっていた。
孫策は林、と言っていたが、其の密集度合いから言えば、森に近いかと思える。

「結構…外れのほうにあるんですね」

馬超の屋敷の周囲には、裏手の林以外には何もなかった。
距離的に城は近いと思えたが、其れでも歩くと相当な距離になるのでは、とは思う。
周囲には他に屋敷は見当たらず、殺風景と言えば殺風景な景色が広がっていた。
しかし、の目に飛び込んでくる色数は、家の中の其れを遥かに上回っている。
燦然と輝く太陽が、色をより鮮明に変えてくれているからだろうか。

「お城の中には、人が沢山居るんですか?」
「ん?おう。ま、街に比べりゃ少ねぇとは思うけどな」

言われ、は左手側の、見る者を威圧するように聳え立つ城壁を見上げた。
何処までも続くようにすら思える城壁を辿り見ていけば、やがて城門であろう巨大な扉が開いているのが目に入った。
右斜め前方には城本体が建っている。
恐らく、左方の城壁の向こうには街が広がっているのだろう。
街を見守るように、城が建っているのではないか、そう、思った。

「…行くか?」
「……はい」

粗方見回したであろう事を確認し、静かに孫策が声を掛ける。
が小さく返事をしたのを見、孫策は下ろしていた腰を上げた。

「少し怖いかも知んねぇけど、声とか、出すなよ?」
「?はい」
「俺を信じろ」
「…はい!」
「じゃ、確り掴まってろよ」
「きゃ…」

ひょい、とを横抱きに抱え上げると、孫策は低い姿勢を保ったまま、林に向かって身を滑らせるように進む。
首を捻れば直ぐ其処に孫策の顔があった。
口元を引き締めた孫策の瞳には何処か楽しげな輝きがあって、こう言った…屋根の上を走るなどの、人が普通しない事をするのが好きそうな雰囲気を受けた。

「跳ぶぜ。舌噛むなよ」
「っ!!」

屋根の終端、下は恐らくの部屋だろうか、其処から孫策は躊躇無くを抱えたまま屋根を蹴った。
恐ろしい程の高さはないが、其れでも落ちれば痛い、では済まない。
実際の高さ以上の高さを感じ、は思わず息を呑むと、孫策の首にしがみ付いた。
屋根から塀までどれ程の距離があるだろう。
其れこそ、床から天井までの長さは、ありそうだった。
自分ならばとても跳べる距離ではない、そう、は思った。

「よっ」

孫策が酷く気の抜けた声を出したと思ったら、身体に若干の衝撃が走る。
如何やら、靴の半分ほどの幅しかない塀の上に着地したらしく、しかしが其れを認識した時には、孫策は既に塀の外に向かって降下していた。

――すたっ

相当な高さから降り立ったと言うのに、殆ど音は立たない。
を抱えての着地にも、孫策は膝を上手く使い、衝撃を殺す。
其の侭何事も無かったかのようにすたすたと林の中へと突っ込んでいくと、少しして、白馬が草を食んでいるのが見えた。

「俺の馬だぜ」

先にを馬の上に乗せ、自らも軽々と跨る。
左手での腰を抱き、右手で馬の鬣を撫でると、孫策は手綱を手にし、馬を歩かせ始めた。

「白馬…」
「うん?ああ、白馬だな」
「白馬の…王子様」
「………は?」

ぽつり、と呟かれたの言葉。
小さな小さな其の呟きは、木々のざわめきに吸い込まれて消えた。

「い、いえっ!!何でもないです!」
「?そうか」

耳慣れない言葉に聞き返してきた孫策に慌てて首を振り、手も振る。
特に気にしていない様子の孫策はの腰を抱き直すと、短い返事を返して手綱を操った。
二人を乗せて気楽そうに歩く馬が、右に進路を変える。
すると、林の出口が、前方に見えた。
馬超の屋敷は、少し距離を置いた右方にある。

「あー、。城門抜ける時、これ頭に被っとけ」
「?…絹、ですか?」
「おう」

思い出したように、孫策の懐から出て来た絹が、に渡される。
仄かに温かい其れは、何時から入れられていたのか知らないが、皺くちゃだった。
言われた通りには頭から真白な絹を被るが、困ったように後の孫策を振り返る。
日除けなのか何なのか、孫策の意図が判らない、と言った顔をしていた。

「門兵がの顔、知ってるかも知れねぇだろ?」
「あ…、…どうでしょうか」
「…ま、念の為、な?」
「はい」
「いざとなったら尚香の名前使ってやろうぜ。偶には役立って貰わねぇとな」
「ふふ…伯符、もう…。尚香ちゃんに怒られますよ?」
「怖くねぇよ。…どっちかってーと、権のが怖ぇよ…」
「?」
「俺の弟で、尚香の兄…っと、

馬足を速めれば、直ぐに城門まで辿り着いた。
孫策が遣って来た日と変わらぬ顔触れが、槍を携え控えている。
其の二人の間を、堂々とした様子で通ってみれば、二人の門兵はの姿に若干眉を顰めたようだが、孫策を阻む様子は無かった。

、如何だ?」

城門を抜け、城への道を登ってくる人達の流れに逆らい、更に馬を進めてみれば、前方に成都の街並みが広がった。
沢山の人達で賑わう街。
何処も、人の群れでごった返している。

「人が…とても、とても多いです…」
「建業のほうが、もっと賑わってっけどな。ま、成都も其れなりに…栄えてんだな。あ、。此処から歩くけどよ、良いか?」
「あ、はい」

街と城への道の、丁度境に当たる場所の大きな木の下で、孫策は馬を下りた。
に手を貸し地面に下ろすと、愛馬の鬣を柔らかく撫でる。
それだけで、馬は孫策の意図を解したようで、木陰で涼むようにして足を折った。

「あ、置いて行って、良いんですか?」
「ん?ああ、大丈夫だ。こいつは待てと言えば、何日でも待ってるからな」

ははは、と笑う孫策に、しかし馬は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「…怒ってませんか?」
「うん?はは、大丈夫だぜ。何だかんだ言って、ちゃんと待っててくれるからよ」

な?と笑い掛けるも、やはり馬は城への道を登っていく馬車馬を眺めるだけで、孫策には応えなかった。

「ほらな」
「…え、え?今、返事しましたか?」
「良いからよ!さ、行くぜ!!」
「え…えー!!?」

困惑するを、孫策がずりずりと引っ張って行く。
遠ざかっていく馬にが一度振り返ると、馬はを見て、一瞬だけ笑った気がした。



「ひ、人が多いです…!」
「真直ぐ歩かねぇと、流れに呑み込まれるぜ」
「伯符、何でそんなにすいすい歩けるんですかぁー!」
「目が合ったら兎に角睨め。向こうが道を開けてくれるぜ」
「…そんな事、出来ないです…」
「だろうな」

はは、と笑う孫策を見るも、特に睨み散らかしている訳でもない。
其れでも道行く人々が自然道を開けて行くのは何故だろう。
言葉では説明出来ないが、恐らくも、逆の立場だったら道を開ける側の人間になっていた気がした。
そうさせる何かが孫策から溢れているのだ。
やはり王子様だからか、と、思ったが、前に孫策に大笑いされたのを思い出し、頭の中で思い描くに留めた。

――くい

「うん?」

右袖を微妙に引っ張られ、孫策が其方を振り向く。
其処には、おずおずと言った風に孫策の服を掴む、の姿があった。

「あっ…す、すみません…!」

――ぱっ

目が合うと、は慌てて指を離した。
俯けた顔が、耳まで赤くなっていて、孫策は苦笑するとの手を掴んだ。

「!!?」
「逸れねぇように、手ぇ掴んどけ」

掴む、と言うよりも、此れは確実に手を握っていると言う。
更に顔を紅く染めたを見て、孫策は、あ、と声を上げた。

「悪ぃ、嫌か?」
「いっ……いえ、そんな事ないです!」
「じゃ、問題ねぇな。…お、あれ、言ってた肉饅の店じゃねぇか!喰うぞ!!」

問題ない訳が無い。
が、其れを口に出す事も出来ず、は店先から湯気立ち上る肉饅屋に引き摺られて行った。
街を見て回るどきどきとはまた違う意味で、の心臓がばくばくと脈打つ。
孫策が突進している間、は足元と手元を交互に見遣っていた。
が握らなくとも、孫策が確り握っていてくれている為に、手は解けない。
しかし、は僅かしか持たない勇気を振り絞って、握り返してみた。
握り返すと言うには余りに微弱な力だったが、握り返した事に違いはない。

「!」

くる、と孫策が振り向く。
どきり、との心臓が跳ねた。

「喰うぜ!!」

にかっ、と笑う孫策に、は握り返した手について何も触れられなかった事に、そっと安堵の息を吐く。
気管に詰まっていた息を吐き出すと、不思議と心が軽くなっていく気がした。
どきどきとする気持ちよりも、今はわくわくとした興奮が、込み上げてくる。

「はい!」

勢いのある孫策の言葉に、も精一杯の元気を出して、返事を返した。

――やはり、太陽の下で微笑む姿のほうが似合っている

天窓から射し込む陽光を浴びて笑うの姿が、脳裏を過ぎる。
どちらも柔らかで、見る者の心を落ち着かせるのは変わらない。
が、馬超の屋敷に閉じ込められたようなの笑顔は、如何しても儚さが先に立った。
しかし今、こうして早歩きで一生懸命ついてくるは、活き活きとしているではないか。
握った手に、もう少し力を篭めた。
僅かながらの手にも力が入って、孫策は喜びに、口元を緩める。
純粋に、嬉しい。
自分のこの浮かれた気分に青臭さすら感じるが、そんな事は如何でも良いとすら思えた。
兎に角、と一緒に遊び倒す。
を楽しませる事だけを考え、孫策は更にの手を引いた。



「食べられません…」
「ふぁん?ふぁらふぁんふんふぉ、」
「…伯符、口の中のものを飲み込んでから…」
「…。…未だ半分しか喰ってねぇじゃねぇか」
「大き過ぎますよ、この肉饅。…!?え、もう食べ終わったんですか!?」
「おう。朝喰ったのが早かったからな。腹減ってたから…もう三つはいけるな」
「三つ!!?」
「余裕で入るな。、喰い切れねぇなら其れ、くれ」
「え?」

店で買った肉饅を、齧りながら歩く。
小さいので良い、と言うの訴えを無視し、顔ほどの大きさが優にあるであろう肉饅を二つ、孫策は頼んだ。
数分歩く内にあっさりと食べ終えてしまった孫策に対し、は未だ半分ほども食べ切れていない。
孫策が旨い、と情報を仕入れてきた店だけあって確かに味は絶品だったが、幾らなんでも大きさが大きさだった。
歩きながら食べる事に慣れないのも加え、片付け切れないの肉饅をひょい、と取ると、孫策はぱくり、と齧り付く。
返事を返す前の其の行動に、は怒りなどより先に、驚きが先立った。
まぁ、未だ食べようとしていたものを取られたとしても、は怒らないだろうが。

「ふふぇー」
「………」
「…。…何だよ、怒らないのか?」
「…え?あ…」
「温かいうちに喰わねぇと。あー、やっぱ旨ぇな」

とても幸せそうな顔をして、残りもあっさり胃に収める。
自分の食べ掛けなのに良いのだろうか、そんなに食べれるものなのだろうか、など様々な思いが頭の中を渦巻いたが、孫策の顔を見ていたら次第に如何でも良くなってきた。
もふもふと口を動かす孫策の横顔を見て、の顔も段々と笑みに変わっていく。
其の上、最後の一口を飲み込んだ孫策の顔が余りにも満足そうで、は思わず笑い声を漏らした。

「何だよ」
「いえ…ふふっ」
「…何だよ」
「ふふふ…美味しかったですか?」
「おう」
「其れは良かったです」
は如何だったか?」
「そうですね…ちょっと大きかったですが、あんなに美味しい肉饅は、初めて食べました」

歩きながら食べる事も初めてであったし、あんなに大きな肉饅を頬張る事も初めてだった。
美味しい、と言うよりは楽しい、と言う思いが先立ったような気がする。
食事と言うには行儀が悪いかも知れないが…にとって、一番楽しい食事だった。

「そりゃ良かったぜ。お、あれが硝子細工の店だな。入るか?」
「はい!…あ、良いですか?」
「態々聞かなくて良いぜ。の好きな店に入れ。俺も、好きなところにを連れ回すからな」
「…はい!」
「良し。じゃ、合図の確認だけどよ、」
「!は、伯符!!」
「ははっ!冗談だぜ、冗談!!」

昨日の話を持ち出してきた孫策に、が慌てる。
店の物を壊して、剰え逃げる事など、に出来よう筈もなかった。
が本気で慌てているのを見て、孫策が思わず笑う。
もう、とは顔を逸らすが、しかし其の顔には隠し切れない笑みが、浮かんでいた。

「…俺、動けねぇんだけど…」
「普通にしていれば大丈夫ですよ?」
「其れが出来ねぇから怖いんだろうが」
「…普通に出来ないんですか…?」

硝子細工が所狭しと並べられた棚と棚の間の通路は、恐ろしく狭い。
少しでも動けば肘で倒してしまいそうで、孫策は恐々との後を追う。
すいすいと進んで行くを見ていると、先程人の波に呑まれそうになっていたのと同じ人物とは思え
ない。
まぁ、状況が全く違うので、比べるものでもないとも思ったが。

「わぁ…!」

とある棚の前で歓声を上げると、はぴたりと足を止めた。
もっと良く、もっと近くで見ようと、身体を前屈みに傾ける。
孫策もまた最小限に身体を傾けると、が見ているものが、親指ほどの大きさの雫の形をした首飾りだと言う事が分かった。
綺麗と言えばきらきらとしていて綺麗だったが、取り立てて華やかでもない其れに、何故が興味を示したのか孫策は解らなかった。

「可愛いです…!」
「地味じゃねぇ?」
「シンプルなところが、良いんですよー!」
「…しんぷる?」
「はい!」

感嘆の声を上げながら、透明な雫を右から左から様々な角度で眺める。
シンプルの言葉の意味を訊ねた孫策の言葉にも、見入ってしまっているは只頷くだけだ。
良く見れば少し形の悪い其れに惚れ込むが、孫策は益々以って解らない。
芸術の面から見れば、少しがたがたした形もまた、良いのだろうか。
やはり孫策には解らなかったが。

「買うか?」
「え!…いえ、良いです」
「遠慮しなくて良いぜ?」

の手の中にある雫から視線を少しずらして、値札を見る。
そして、孫策は驚いた。

――安っ!?

幾ら大衆向けの、其れも形の悪い品物だとて、身を飾る物がこんな値段で売られていて良いのか。
どちらかと言えば確りとした、高価な物ばかりを身に着ける生活を送ってきた孫策には、其の安さに驚くばかりだった。

「いえ、本当に良いんです」
「…そうか?」

そう言うの瞳には、確かに本当に欲しそうな色は浮かんでいなかった。
其の様子に、孫策は胸中安堵する。
どうせならば、にはもっとちゃんとした物を買いたかったから。

「あ、これ、良いですね」
「うん?…何だこれ?」
「急須、ですけどお酒を入れても良いかもしれませんね」

硝子で作られた、上品な作りの器。
其の横には急須もあり、急須が一つ器が二つで纏めて売られているようだった。
成る程、冷酒を呑むには風情があるかも知れない。

「器が四つぐらいあれば良いんですが…」
「は?四つもか?」
「子龍さんの分と、あと、孟起が割ってしまった時の為にですね」

割れ易いであろうから、馬超が意識を飛ばして器を落としてしまったら、簡単に割れてしまうだろう。
、馬超、そして趙雲の分と馬超の予備。
孟起の予備は二つ必要でしょうか、と笑うは楽しそうで。
自分の知らない状況を思い描き笑んでいるを見て、孫策は心の奥に何か重たいものが溜まる感覚を覚えた。

「良いですね、これ」
「でも買って如何すんだよ。何処で手に入れた、って聞かれるぜ、絶対」
「あ…」

にこにこと、小さな器を両手で持って眺めていたに、孫策が淡々と言う。
今日は、馬超に黙って出て来たのだ。
貰い物、と言っても、其れでは今度は誰に貰ったかを言わねばならないだろう。
今になってまた、無理に押し込めていた罪悪感が零れ出てきた。
は静かに、器を元の場所に戻す。

「行こうぜ」

言うと、孫策はさっさと店の外へと向かった。
慌ててが後を追うも、孫策は後背でが追い付いた気配を感じると、振り向きもせずに歩き出す。
何も掴まれていない孫策の右手。
店に入る前のように、手を繋げる雰囲気ではなかった。

「………」

と孫策、二人が黙って歩く。
孫策の右斜め後を、人の波に飲み込まれないようにが一生懸命について行っている。

「きゃっ!?」
「…え?」

――ずしゃっ

何も気遣わずに歩く孫策の歩幅は、無論にとってはとても大きく、小走りで後を追っていたが為に何処かに足を引っ掛けたらしい。
小さく上がった悲鳴に孫策が振り返ると、転んだが地面に手を付いて起き上がろうとしているところだった。

「あは…は、す、すみません…」

――何してんだよ、俺は

ぎり、と孫策が唇を噛んだ。
邪魔にならないように早く、と痛みを堪えて立ち上がろうとしている
孫策に向かって恥ずかしそうに笑っているが、其の瞳には明らかに涙が溜まっている。
其の涙の原因は、痛みからだけではなくて。
自分の態度が何よりの理由なのだと理解しているだけに、益々自分に腹が立つ。
普通に店を出て、店に入る前と同じように手を繋いでいれば良かったのだ。
そうすれば、小走りに後を追うが、人にぶつからないようにと其ればかりを気にして足元を疎かにする事もなかった。
転ぶ事もなかったのだ。
全ては、自分のくだらない嫉妬のせいだと思うと、孫策は自分で自分を殴りたくなった。

「済まねぇ…済まねぇ…!」
「は、伯符?」
「俺のせいで、痛い目に遭わせちまった…っ!」
「べ、別に伯符のせいでは、…あの、伯符?」

地面に手をつくに視線の高さを合わせるように、孫策が膝を折る。
唇を痛いほどに噛む孫策の顔のほうが、余程泣いているように見えた。
そんな孫策に驚きを覚えるが、しかしは、此処が大勢の人間が通る街中だと言う事が兎に角先立ち、早く立たなければ、と其ればかりを考える。

「っ…!」
!?」
「ほ、ほら、伯符、私はこの通り、大丈夫ですから。ね?」

立ち上がった瞬間、普段顰められる事のない眉が痛みに跳ねた。
しかし、歩けない、立ち上がれないほどの怪我でもない為、は気丈にも微笑むと、膝を着いたまま見上げてくる孫策に、手を差し伸べる。
傷口がずきずきする。
其れ以上でも其れ以下でもない。
大した事はない、が、断続的に続く痛み。
は其の痛みに気付かない振りをして、只管に笑顔を浮かべた。

「行きましょう、伯符。未だ行くところは沢山あるんですよね?」
「…おう」
「伯符、笑ってください。伯符が笑ってくれないと、私は楽しくないですよ」
「…そうか、そうだな!」

の言葉に、にかっ、と孫策が笑みを浮かべた。
差し出された右手を掴むと、少しだけに頼りながら立ち上がる。
最後にもう一度だけ、悪ぃ、と呟きの頭をぽん、と叩くと、の左側に立った。
そして、歩き出す。
の左手を、手に取って。

「何処へ行きますか?」
「んー?…あそこにすっか」

孫策の右手の温かみに顔を綻ばせ、孫策の横顔を見ながらが訊ねる。
若干下の位置にあるに顔を向けると、孫策は前を向き…そして、三軒向こうの向かって左手にある一角を指した。

「…、人の家じゃないですか?」
「だろうな」
「…?伯符…?」

店が立ち並ぶ間に、点々と民家がある。
孫策が指差した先も、其の内の一つ。
知り合いでも居るのだろうか、とが思っている内に、孫策は堂々と其の家に入って行く。
小さな小さな家だった。
馬超の屋敷の、の部屋ほどの広さもないのではないか、と思えるほどに。

「悪ぃ、誰か居ねぇ?」
「何だい?」

開きっ放しの戸口から顔を突っ込む。
すると、一組の老夫婦が卓に向かい合わせで座っているのが見えた。
不思議そうな表情で、家の中を覗き込む孫策の顔を、見詰めている。

「俺の連れが怪我してんだ。手当してやってくんねぇか?」
「あーあーあー」

言って、ぐい、とを狭い家の中に押し込む。
老婆はよいしょ、と立ち上がると、一旦何処かへ消えた。
少しして濡らした布を持って戻って来ると、部屋の奥隅にある木箱を手に、二人の傍に寄って来た。

「上がんな。ほれ、傷口も見せてみい」
「あ、え、」
「おう、邪魔するぜ」
「え、あ…」
「ほれ」
「あ、…はい」

状況について行けないを余所に、孫策が然も当然のように上がり込み、先程まで老婆が座って居た位置に座る。
孫策が卓に頬杖を着きながら見守る中、幾度も老婆に急かされたが漸く家に上がって傷口を晒した。

「あーあー、良く我慢したねぇ」

膝上まで衣服をたくし上げると、両膝に痛々しい傷が出来ているのが見えた。
裾の長い服だった為に気付かなかったが、流れ出た血が今にも床を汚しそうになっている。
転んだにしては重い傷に、何より驚いたのは自身であった。

「痛いだろうけど、我慢すんだよ」

――べちゃ

「―――っ!!!」

木箱の中にあった、小振りの壷の中身を豪快に掬うと、老婆はの右膝の傷口に塗る…と言うか、乗せる。
其の瞬間、傷口を針で連打されたように、鋭い痛みが広がった。
恐らく染みているだけなのだろうが、此処まで来ると痛みとしか思えない。
歯を食い縛り悲鳴を耐えたの目の端で、老婆がまた壷の中に指を突っ込んだ。
左の膝が残っていたのだ、再び衝撃が来るのか、と思うと、意識を飛ばしてしまいたくなる。

――べちゃ

「―――っ!!!!」
「おうおう、良く我慢するねぇ。大の男だってのた打ち回りたくなるってのに」
「――っ、――っ!!」
「ま、痛い分だけ効き目はあるよ。延々続く痛みを、纏めて受けてるだけだと思いな」

涙目でぶんぶんと頭を縦に振るに、老婆は呵呵と笑う。
何処までも気丈なに、口には出さずとも感心しているようだった。

「綺麗な譲ちゃんだな」
「ん?おう。じーさんも綺麗な女と暮らしてんじゃねぇか」
「かーっかっかっか!!良う言うわ!!」

治療を受けるを、卓を囲んで見遣っていた男達が、に視線を向けたまま言葉を交わす。
の痛そうな姿を見て痛そうな顔をする孫策が、老人に小生意気な言葉を返すと、老人もまた、呵呵と
笑った。

「おい、若造。茶でも飲むか」
「淹れてくれんのか?」
「おう。おい、婆さん!聞こえたか」
「煩いねこの糞爺!見ての通りあたしゃ忙しいんだよ」
「だとよ」
「爺さん淹れてくれねぇのかよ!!」
「馬っ鹿、俺は自分じゃ湯だって沸かさねぇよ」
「威張る事じゃねぇー!!」
「何だ若造、御前ぇ自分で湯ぅ沸かすのか」
「沸かさねぇな」
「かっかっか!!人の事言えた義理か!」
「違ぇねぇ!!」

大口を開けて笑う歳の離れた男二人に、痛みに歪んだ顔の中に、は思わず笑みを交える。
察するに、全くの赤の他人、知り合いでも何でもない家に乗り込んだようなのに、孫策は既に打ち解けてしまっていた。
歳の差も何もない、遠慮のない会話。
しかし、何処か温かい。
そんな会話が出来る孫策と共に居れる事が、酷く幸せな事のように、は感じた。

「やっかましい男たちだねぇ」

疎ましそうな声を上げるも、老婆の皺くちゃの顔の中には確かに笑みが浮かんでいた。
老婆は濡らした布での足に垂れた血を力強く、しかし何処か優しさが窺える手付きで拭いて行く。
其れが終わると、木箱の中から白い…包帯だろうか、布を取り出しては傷口に巻いて行った。
指先まで皺くちゃな老婆の手がくるくると動く様を、は不思議な気持ちで追う。
包帯が、異様なまでに白く見えた。
今はの血で赤く染まった布も、繰り返し大切に使われてきたのだろう、元は白かった筈だが今は其の面影もない。
其れは其の布だけではなく、家全体の物に言えた事だった。
言ってしまえば、汚れても買い換える金がないのだろう。
そんな中、に惜し気もなく使われる包帯は、酷く白くて…は何かを言いたかったが、浮かんできたどの言葉も伝えたいものではなくて、は口を噤んだ。

「さって、此れで良し、だ。寝る前に洗い流すんだよ」
「あ、はい。ありがとうございました」

包帯をきゅっ、と結び、の衣服を整えると、老婆は木箱を元の場所に戻そうと立ち上がる。
もまた急ぎ立ち上がると、其の背に向かって深く頭を下げた。

「ん?終わったのか?」
「あんた達が馬鹿話してる間に終わっちまったよ」

老人と何かを話し、未だ大口を開けて笑い合っていた孫策が、立ち上がったの姿に気付き、振り返る。
老婆はごそごそと木箱を片付けながら、暢気な孫策の言葉に小憎たらしい言葉を返した。
しかし其れすらも、孫策は笑い飛ばす。

「おう、突然悪かったな!御蔭で助かったぜ」

よっ、と卓に手を着いて立ち上がると、孫策は懐に手を突っ込み、何かを引っ掴むと卓の上に置く。
じゃら、と言う音に、向かい合って座っていた老人も、背を向けていた老婆も振り返ると、一瞬目を見開いた。

「…何の真似だい」
「礼だ」
「要らないよ」
「くれるって言うんだから、遠慮する事ぁねぇだろ」
「!何言ってんだい!全く、意地汚い爺だね!!」
「ぺっ、何とでも言え。おい、若造。理由は、大切だから…だな?」
「…勿論だ」
「かかっ!なら、遠慮なく貰う事にするか!」
「爺さん!!」
「何、婆さんには俺から伝えといてやる。男心って奴をな」
「おう、頼んだ!」
「半分くらいは伝わる筈だ」
「ははっ、頼りねぇー!!」
「しかし、何だ。若造、御前ぇ金持ちの坊ちゃんか」
「さって、如何だろうな?ま、美味いもんでも喰って、しぶとく長生きしてくれ」
「かーっかっかっか!!もうちぃとまともな口は利けんのか!」

決して少なくはない額を置き、孫策は笑いながら家の外に向かう。
其の後に、既に痛みの引いたが続いた。

「また来な」

最後に二人で礼を述べると、老婆が唯一言、そう言った。
別れらしい別れの挨拶はなく、まるで家人を送り出すように、卓に座ったまま老夫婦がひらひらと手を
振る。
其の姿に、はもう一度深く、頭を下げた。

「婆さん、茶」
「自分で淹れな、糞爺」

既に二人の日常に戻っている様子が聞こえてきて、は振り返る。
開かれたままの戸から、老婆が立ち上がる様子が見て取れたが、直ぐに見えなくなった。

「あの、伯符!」
「大丈夫か?」
「あ、はい。あの、今の方達とはお知り合いじゃないんですよね?」
「おう」
「お医者さんかと思った、とか、そう言うのもなくて?」
「おう」
「では、何で…」

突然乗り込んできた人間を、当然のように手当てしてくれた。
孫策が選んだのだから、何か理由があっての事かと思ったのだが。

「何となく…だな」
「え…?」
「あの家で手当てして貰おう、って何となく思ったから、行ってみた」
「…それだけなんですか?」
「おう」
「そう…ですか」

頭を掻きながら話す孫策の顔を見て漸く、は何となくではあるが納得した。
言葉では言い表せないが、孫策の中の何かが、今の老夫婦の家へ導いたのだろう。
あの、口は悪いが根は優しい、喧嘩しているようで仲の良い、老夫婦の家へ。

「また、お会いしたいですね」

肩越しに振り返れば、両隣の店に隠され、家は既に見えない。
首を元に戻してが孫策の顔を見遣れば、孫策は天をゆっくりと仰いだ。
僅かに浮かぶ雲が、風に流されていく。

「…そうだな……」

歯切れ悪く、孫策が答えた。


←BACK ・ NEXT→