「…今日は、楽しかったぜ。有難うな」
「いえ、お礼を言うのは私です。本当に、…本当に、ありがとうございました」
が楽しかったんなら、俺は其れが一番だ。…、御免な」
「………」

馬を使って塀を登り、屋根を伝って例の部屋の上まで行く。
鉄格子を外してをそっと、置かれた侭の椅子の上に下ろすと、孫策は手を離した。
静かな孫策の顔を、橙色が染める。
其れを見て、日が暮れ始めている事に、は気付いた。

「また…明日な」
「……はい」

鉄格子を嵌め、孫策は小さく手を振ると、去って行った。
足音はやはり、聞こえない。

「………」

暫く橙色に焼けた空を、鉄格子越しに眺めていたが、とすん、と椅子から下りた。
此の侭、花達に囲まれて寝転がってしまいたかった。
目を閉じて、此れからの事を…否、明日までに決めなければならない事を、考え込んでしまいたかった。
しかし、椅子を部屋に戻し、着替えたり何なりする事が先決だ。
此の侭椅子の背に抱き付きながら茫、としている場合ではない。
は心此処に非ずと言った様子で部屋の戸を開き、椅子を抱えると、頼りない足取りで自室に戻って行った。

「……あ」

椅子を戻す序でに着替えていると、包帯の巻かれた足が露になった。
あれから全く痛みを感じる事がなかったので、忘れていた。

――寝る前に洗い流すんだよ

老婆の言葉が、脳裏に甦る。
寝る前、と言われたが、もう洗い流してしまっても良いのだろうか。
馬超が帰って来る前に、終わらせてしまったほうが良いように思えた。
余計な心配をかけたくないから。
…否、本心は違うだろう、怪我をした理由を問い質されては窮するからだ。
答えるには如何しても、今日、街に出た事を言わなければならないだろう。
考えなければならない事が山積みで、は緩く頭を振った。
全ては、自分が馬超に黙って外に出たりしたから行けなかったのだろう、とは自分を責める。
そう考え出すと、この怪我も、罰が当たったのではないかとすら思えて来た。
だが、この怪我の御蔭で、あの老夫婦に会う事も出来た。

「………」

もう、何が良くて何が悪かったのか、訳が判らなくなってきた。
時間は、後丸一日と数時間。
ゆっくりと考え込む為に、は先に全てを終わらせてしまおうと、改めて先に完らせる事を頭に思い描い
た。
服を着替え、薬を洗い流す。
馬超が、恐らく趙雲も、帰って来るまで未だ未だ時間がある筈だ。
夕食を用意する前に、包帯も巻き直してしまおう。
は段取りを頭で整理しながら服を着替え終え、部屋を出た。
水場で足を洗い、傷口を見る。
やはり、こうして直に見ると中々に酷い傷だった事が良く判る。
痛みがないのが不思議なくらいで、薬を洗い流した今日の晩辺りにずくずく言い出すのかと思うと気が滅入りそうだったが、其れでも、目を覚ましているには良いかも知れない、と思いながら、は持って来ていた包帯を巻いた。

「大丈夫か?」
「あ、はい。………っ!!?」

手当てを終えたが立ち上がろうとした瞬間、極々自然な声音で声を掛けられた。
余りな自然さには返事をしたが、…しかし、今、自分に声を掛けてくるような人物が居る筈のない事に気付き、驚愕に顔を歪め、振り向く。
水場の入口に、趙雲が静かに立っていた。

「しっ……しりゅ、う、さん…?」
「勝手に入るのは忍びないと思ったのだが…包帯を片手に入って行くが見えてな。上がり込んでしまった」
「あ……はい…」

心臓がばくばくと音を立てている。
こんなにも焦燥りを覚えるのは、趙雲が突然後ろに立っていたと言う事実だけではないだろう。
怪我の理由を聞かれる事に恐れている。

「少し…時間はあるだろうか?」
「あ、はい…」
「立ち上がれる?」
「平気、です」

趙雲に見守られる中、がゆっくりと立ち上がる。
心配げな趙雲に小さく頬笑むと、は何時も三人で食事を取り、酒盛りをする場所へ行こうとした、が。

「あの、花の部屋へ行かないか?」
「え?あ、はい」

言って、趙雲が廊下を奥へと進んで行った。
例の部屋の戸を開くと、を先に入れ、趙雲自身も続く。


「…はい」
「何も言わないんだな」
「え…?」
「馬超殿が帰って来ていない事、私が一人で来た事」
「あっ」

二人が中央に腰を下ろすと同時に、趙雲が静かに口を開く。
趙雲に言われ、今更ながらに漸く気付きが口元を手で覆うと、趙雲は困ったように苦笑を浮かべた。

「馬超殿、今日は少し遅くなるそうだ。其れを伝えに来た…と言うのは口実なんだが、聞きたい事、…否、言いたい事が、あってな」
「は…い」
「其の前に、。迷っているんだろう?」
「!!」

胡坐を掻き、軽く背を丸め、足元で手を組みながら、趙雲が問う。
夕焼けの終わりが近付き、今日最後の橙の光を受けている緑の草を見詰めていたが、はっ、と驚いたように趙雲の顔を見た。
其処には、穏やかで優しい何時もの表情に、何処か哀しそうな辛そうな色を浮かべた趙雲の顔があっ
た。
何故そんな顔をするのだろう、と質問に驚くと共に、そんな思いが頭を過ぎる。

「孫策殿と、行くのか?」
「…え……っ?」
「孫策殿の滞在期間は明日まで、と。昨日、殿と孫尚香殿が話しているのを聞いた」

判らなかった。
趙雲が何故孫策の話を持ち出してくるのか。
迷っているのか、と問うた後に、孫策の話を何故持ち出してくるのか。

「馬超殿には、今日の事…言っていないのだろう?」
「!」
「ああ、別に責めている訳ではないんだ、そんな顔を…しないでくれ」
「…はい」

身体を、顔を強張らせたに、趙雲が優しく言った。
其の顔には先程まで浮かんでいた哀しい辛い、と言ったものは浮かんで居らず、も漸く小さな笑みを浮かべる。
恐らく、自分の為に潜めてくれたのだろう、と気付いたからこそ、も笑んだ。

「今日は、用事があって街に行ったんだ。…私も」
「…見られ、たんですね」
「ああ。自分では気付いていないのだろうが、は結構目立つからな…。そんなと、以上に目立つ孫策殿が並んで歩いていれば、目を引かぬ筈がない」
「私…目立ちますか…?」
「そうだな、目立つ、と言うよりは目を引く、か。孫策殿も、そうだが」

あの人は、黙っていても目を引くのに、更に目を引くような行動をするからな、と趙雲が笑う。
趙雲は全てを知っているのだ、と覚ったも、隠す事を諦め、笑った。

「まぁ…私が気付いたのは、やけに騒がしい一角を興味本位で覗き込んだからなのだが」
「!あ、あの時…!見ていらしたんですか!?」
「最後のの一口、良かったぞ」
「…っ!!」

ふ、と笑った趙雲に、が口元を抑えて顔を赤らめた。
あの時は、場の勢いがあったからこそ出来たようなものだ。
普段ならば、人の匙を強引に自分の口に運ぶなど、出来よう筈もない。
思い返してみればとても恥ずかしい事をしたのだ、とは顔から火が出そうになったが、孫策のあの時の驚いた顔を続き思い出して、更に顔を赤くした。

達が店を出た後は知らないが…勿論追う心算もなかったしな。だが、孫策殿のあの様子ならば、恐らく…を連れて行く、と言ったのではないか、と思ったのだ」
「…はい」
。孫策殿、昨日も来たのだろう?恐らく…この部屋の上から」
「え…っ!?」

趙雲が指差した先を、が驚きを以て見上げる。
薄闇の広がり始めた空の手前、鉄格子が鈍い色で佇んでいる。

「馬超殿は気付かなかったのだろうが…否、気付くのは私ぐらいかもな。鉄格子の位置が、ずれている」
「あ…!」

趙雲が、苦笑した。
言われてみて、初めて気付く。
そう言えば、頭上の鉄格子は、部屋の縦横に綺麗に沿っていたのだ。
円と言う形が、災いしたか。
も以前何気なく眺め、綺麗に沿っていると言う事には気付いていた筈なのだが、見落としていたのだろう。
しかし、成程確かに、馬超は気付きそうになかった。

「はは、しかし、無理をする…。今日は、も此処から外に出たのだろう?如何だったか?」
「…少し…怖くて、どきどきしましたけど、でも、わくわくして、楽しかったです」
「馬超殿の屋敷の周りは他に家が建っていないから…大きく城が望めて、壮観だろう」
「はい、風も気持ち良くて、空も広くて。凄かったです」

ふわり、と頬笑む普段のの笑顔に、趙雲が吸い込まれるように見入る。
風が気持ち良い、空が広い。
其れは、普段自分達が当然のように感じていて、当たり前過ぎて感じる事もなくなった思い。
其れが、新鮮だったのだろう、には。
何処か哀しくて、胸の奥が痛んだが、趙雲は顔には出さなかった。

「街も、凄かったろう?」
「ええ!人が沢山居て、色んなお店があって、とても賑やかで!!良い人達が、沢山居ました!」
「そうか。…良かった」

ぱっ、との顔が唐突に輝いた。
今日会った人々、行った店々を思い出して居るのだろう。
全て、この広い屋敷の中に居ても、体験出来ない出来事だ。

、成都は…蜀はな、どちらかと言えば落ち着いた街なんだ」
「えっ!あんなに、賑やかなのにですか?」
「はは、国柄…とでも言おうか。殿が穏やかだから、街も、国も、穏やかな傾向があるんだ」
「はぁ…信じられません」
「まぁ、成都は殿の居る城があるから此れだけ賑やかにもなるんだが、…建業は、もっともっと…賑やかだ」
「…子龍、さん?」

土地柄、何より国柄から、呉が、孫家が治める地域は、明るく賑やか。
趙雲の付け足した説明に、が何を言いたいのか判らない、と言ったように表情を失くした。
其の言い方は、まるで、…建業に行く事を、勧めているよう。

の中の迷いを簡単に纏めてしまうようで悪いのだが、今は、孫策殿について行くか、此処に残るか…其の二択で、迷っているのだろう?」
「…はい」
「私はな、。今日の街でのの様子を見て、正直…驚いた。あんなに活き活きと笑うは、見た事がなかったからな」
「………」
「だから、呉に行って…孫策殿について行って、がもっと沢山笑えるのであれば、が居なくなっても仕方のない事、寧ろ喜ばなければならない事のように思ったのだ」

活き活きとした自分。
では、この屋敷の中で笑っていた自分は、どんな笑顔をしていたのだろう?
若しや、笑えていなかったのではないか。

が再び視線を草の上に滑らせたのを見て、趙雲は苦笑して、頭を振った。

、此処で咲いている花と野草、何が違うか?」
「え?…この花と、野草、ですか?」
「ああ」
「咲いている、場所…」
「そうだな。この部屋の花は、自分で自分を護る必要がないから、力強さがない。だが、野草は逆だろ
う?雨風から身を護り、力強く育って…そして、太陽の下で輝くように花を咲かせる」
「…はい」
「だが、同じなのは、どちらも美しく咲き誇っていると言う事だ。どちらも、見る者を喜ばせる美しさ。…
も、変わらない」
「…ありがとう、ございます」

其処まで言われ、漸く趙雲が気遣っていてくれた事に気付く。
素直に、嬉しかった。
また、此れまでの数月を、安堵して思い返す事が出来る。

「済まない、
「はい?」
「只でさえ悩んでいるを…更に困らせる事を、言う」
「…はい」
「馬超殿が如何、ではなく、私は、私自身の想いから、には呉へ行って欲しくない」
「…え?」

其れは、如何言う…。
其の言葉は、呑み込まれ、表に出て来る事はなかった。
趙雲の表情に、再び辛そうな色が現れている。

「本当は、言う心算はなかった。言ってはならないと思っていた。私がに出来る事は、酷く中途半端であるから」
「…子龍さん?」
「私はが好きだ。出来るならば、沢山の笑顔を見て、隣に居たいと思っている。の顔を見る度に、何度想いを伝えたいと思った事だろうか。だが、言えなかったのは、が望む事をしてやれないのだと、
解っていたから」

さらり、と。
何気ない口調で、まるで挨拶でも交わすように、趙雲の口から言葉が流れ出す。
余りにも淡々としているものだから、好きだ、などと言われている感覚がなかった。
しかし、其れも、口調とは裏腹に辛そうな趙雲の顔を見れば、途端、言葉に重みが出てきた。

の笑顔を見たいが為に、様々な場所へ行く。私は其れがしたい、けれど、出来ない。忠誠を、御護りすると誓った殿の傍を離れる事は、出来無いから。だから、に応えて貰えるか否かの前に、私はに想いを伝えられなかったのだ」

資格がない、と、趙雲がぽつりと言葉を漏らした。

「孫策殿は、好きなところへ連れて行って、の望む事をしてくれるだろう。話した事はないが、昼間のを見ていれば…孫策殿について行く事も、納得出来る。だがな、。馬超殿も、孫策殿と同じだと、私は思うんだ」
「…如何言う、意味ですか?」
「分かる、だろう?徹底してを屋敷から出さなかったのも、全てはを危険から遠ざける為だ。だから、馬超殿は、が望む事の為に蜀将と言う立場が邪魔だと思えば、其れを簡単に捨ててしまうと思う。全てを捨て、が望む場所へ、望む時に行けるよう、自分を自由な場所へ置こうとするのではないかと思うんだ」
「…何故、」
「…私にも馬超殿の気持ちは解るが、全てを捨てきれない私には、説明する言葉が浮かばない」

何故自分の事を、其処まで…執着と言う言葉に置き換えられてしまう程に想ってくれるのか、には判らない。
同じようにを想う男の一人として、趙雲は馬超の心を伝えられれば、と思ったが、其れは余計な世話に過ぎないし、何より、に言った通り伝えきれるものではなかった。

「二人は、全力での望む事をしてくれるだろう。どちらについて行っても、は笑っていられる。だから、私は、其の点に関しては安心出来ているんだ。だが、言わぬと決めていた事を伝えてしまったのは、やはりには蜀に居て欲しいからだ。想いを伝える資格のない人間だと言う事は判っている、が、其れでも伝えたのは、私の我侭に過ぎない。済まない」
「いえ、…そんな」

空に広がる薄闇と同じくして、二人の間にも薄く沈黙が広がった。
しかし、趙雲はふと顔を上げると、苦笑とも取れるような、穏やかな笑みを浮かべた。

「なあ…
「…はい」
も、大変な事を押し付けられたものだな」
「…え?」
「前触れもなしに、突然決めろ、だからな。しかもたった一日で、だ。不安だらけだろう?考え、悩み、決断する事に」

が、趙雲の顔を見る。
目が合うと、趙雲は穏やかに、しかし何処か困ったように笑った。
其れを見て、は初めて趙雲に事の次第を知られていて良かったと思えた。
一人で悩まなければいけなかった事を上手く纏めてくれて、結局如何すれば良いのか…何だかんだ悩んだところで、結局は二つに一つを選ぶだけなのだ、と言う事を教えてくれた。
明晩まで悩むだろう、しかし、は少し、胸の痞えが取れた気がした。

「馬超殿が好きか、孫策殿が好きなのか、など比べられるようなものではないだろうが、の人生だ、の選んだ道を歩めば良いと思う。他の人間の心など、考えないほうが良い。決まるものも、決まらなくなるから」
「…判りました」

が頷き、真直ぐに顔を上げた。
幾分晴れた瞳に趙雲は安堵すると、腰を上げる。
も倣って、立ち上がった。

、今日は久々に陽に当たって動き回って、疲れたろう?先に休むと良い。私は馬超殿が帰ってくるまで待っているから」

玄関先で名前を叫ばれては、おちおち眠っても居られないだろう。
其れに、今夜は馬超に夕食を出すまで帰らぬよう、と家僕に伝えても置かねばならない。

「あ、じゃあ、お茶を淹れますから!座っててくださ…あ」
「良いから。が休んでくれないと、私もゆっくり出来無い」

急ぎ部屋の外へ駆け出そうとするの肩を掴むと、趙雲が苦笑しながら首を緩やかに振る。
茶は頼めば直ぐに出して貰えるから、と言うと、を無理矢理部屋へと連れて行った。

「御休み。ゆっくり寝ろ…と言っても無理な話かも知れないが、横になって目を瞑るだけでも大分違うだろうから」
「ありがとうございます。おやすみなさい」

掛布を被ったが、にこりと頬笑んだのを見て、趙雲はの部屋の戸を閉めた。
そして何時も三人で食事をする部屋に入り、何時も自分が腰を下ろしている場所に座ると、大きな溜息を吐く。

「何も出来無い癖に、蜀に居てくれなど…私も何と、烏滸がましい事か」

自身に嫌悪すると、趙雲は卓に肘を着き、頭を抱えた。


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