疲れていた。
それ故に早くの顔が見たくて、の名を玄関口から何時ものように馬超が呼ぼうとすると、しかし其れを制止するように名を呼ばれた。
声の主は、趙雲だった。
そう言えば朝方顔を合わせた時に、今日は遅くなる、などと言う話をしたものだから、趙雲の事だ、が心配しないように伝えてくれていたのかも知れない。
しかし何故、未だ此処に居るのだろうか。
馬超の疑問が顔に出ていたのか否か判らなかったが、趙雲は何時もの穏やかな笑顔で、は先に休みました、と伝えてきた。
遅くなったとは言え、何時もならば三人で酒盛りをしている時間だ、眠くなるような時間ではない、と馬超が廊下の一番奥を見遣ると、何も訊ねていないのに趙雲がまた口を開いた。
あの部屋でうっかり寝入ってしまったらしく、長い間直射日光を浴びて少し頭が痛くなったそうです、と。
其の後趙雲は馬超の食事を用意するよう伝えて、帰って行った。
食べて行けば良い、と言ったものの、断られてしまった。
馬超は一人で食事を摂ったものの、余り美味しくなく感じた。
数月前までは、当然のように一人で食していたと言うに。
偶に馬岱が来た時のみが、賑やかな食事だった。
最近は姿を見せないが。

大丈夫…なのか。
食事を早々に終え、何時ものようにの部屋に顔を見に行くと、寝台に横たわったが魘されていた。
掛布をぐっ、と握り締め、額には玉のような汗を浮かべて、痛い、と唸る。
そんなに頭が痛いのか、日光を浴び過ぎただけなのに、と馬超は焦燥った。
如何すれば良い、何かしてやりたい、と馬超は思ったがしかし如何せん、自分が病人として看護された覚えはあれ、看護した事はない。
こう言う時、趙雲だったら狼狽する事無くてきぱきと動けるのだろう、とふと馬超はそんな事を思って唇を噛んだ。
しかし、そんな事を言っていても仕方がない、馬超は如何すれば良いか判らないながらも、額に汗を出すを見て、部屋を出た。
食事を終えた後、早々に家僕を帰した事が悔やまれた。



「…ん…、…?あ、ら…?」

耳に入ってくる朝の音。
其れは鳥の泣き声だったりとか、朝特有の優しい風が揺らす木々のざわめきだったりとか。
其の音を耳にし、朝なのだと認識したものの、しかし目蓋を閉じていても感じる朝日の眩しさがない。
不思議そうにはゆっくりと目を開くと、何かが目の上に乗っている事に気付いた。
手を、ゆっくりと顔に持って行く。
顔の上半分を覆う何かを持ち上げ、見遣ると、其れが僅かに湿った布である事が判った。

「…?」

判ったのだが、何故其れが自分の上にあるのかは判らない。
は首を捻りつつ起き上がり、寝台から下りようとした。

「っ、ひ…!!?」

が、自分の横たわっていた寝台の下に、何かが踞っているのを見付けて思わず息を呑んだ。
大きな大きな塊、良く良く見てみると、其れは。

「も、…孟…起?」

口に手を当て、其の名を呼ぶ。
しかし、馬超と思われる塊は、全く動く気配がない。

「え、も、若しかしてこれは、孟起…が?」

手の中の、奇妙な形に折り畳まれた布を見て、しかしは成程、と納得した。
この不器用な畳み方は、馬超に違いない、と。
はふふ、と笑うと、寝台をそっと下りて、馬超の顔を覗き込んだ。
余りにも無防備な寝顔、恐らく、昨日先に休んだ事を体調不良か何かと理由付けて趙雲が説明してくれたのだろう、そして、其れを聞いた馬超が看病をしてくれた、と。

「ありがとうございます、孟起…」

床で眠る馬超の頭をそっと浮かせ、寝台を背に床に腰を下ろした自分の腿に、置く。
自分では馬超を部屋に運ぶ事は出来無いから、せめて、とが馬超の髪を撫でながら笑んだ。
昨日馬超が呑んだか如何かは判らないが、起きなければいけない時間には基本的に起きる筈、其れに未だ、普段馬超が起きる時間にはなっていないから大丈夫だろう。
はそう判断すると、思考の海へと深く深く沈んで行った。
決断するに残された時間はもう、一日もない。



「……く…」

寝返りを打とうとして、違和感に気付いた。
頭は柔らかいところにあるが、身体全体としては固いところにある、此処は、寝台ではない。
馬超が何故、と疑問を浮かべている内に、昨夜、の様子を見ながら寝てしまった事に気付く。

「…っ、は、」
「はい?」
「!?おおぉぅ!!?」

がばっ、と頭を上げると、頭上から声が降って来た。
其れに驚き首を捻ると、恐ろしく目近にの顔があり、馬超は思わず驚きの声を上げた。

「おはようございます、孟起」
「あ、ああ」

其の様子には口元を抑えて笑みを堪えながら、にこやかに頬笑む。
馬超は恥ずかしそうに視線を逸らすと、小さく呟くように其れだけを言った。

「………」
「?孟起…?」

――ぽすん

何か思案するような表情を其の横顔に見てが首を傾げると、馬超がゆっくりとの腿に頭を下ろした。
そして、の顔を見上げるように、身体全体の向きを変える。

「もう暫くこうして居ても、良いか」
「…はい」

何処かぎこちない口調に頬笑みながら、が静かに頷いた。
馬超が瞳を閉じたのを見て、はもう一度髪を撫でる。
しかし、何かに思い至ったかのようにぴたり、と其の手を止めると、は口を開いた。

「孟起、今日はまだ起きなくても良いのですか?」
「ん、ああ。今日は一日、休みだ」
「では、ゆっくりできますね」
「ああ。疲れたら、言え」
「はい」
「頭はもう、痛くないか?」

ぽん、ぽん、と穏やかに会話を交わす中、馬超の言葉にが小さく首を傾げた。
頭?と疑問符を浮かべるが、しかし恐らく趙雲が上手く言い繕ってくれた理由の事だろう、と考え、は瞳を閉じたままの馬超に小さく頷く。

「はい。孟起、ありがとうございました」
「…俺は何もしていない」
「いいえ」
「…そうか」
「はい」

きっぱりとした否定に、馬超は苦く笑うと、言葉を漏らした。
こう言った口調をは余りしないが、だからこそ、其れが出た時は絶対に引かない。
其れが些細な事でも、大きな事でも。

「温かい、な…」
「?はい?」
「人肌の温かさ、もう、感じる事はないと思っていた」
「孟起…?」
「一族全てが殺された時、岱だけが生き残ってくれた。だが、まさか岱に其れを求める訳には行かないだろう」

はは、と小さく馬超が笑みを零した。
岱、馬岱の事だろうか、と確か一度しか会った事のない馬超の従兄弟の姿を思い浮かべる。
馬岱は男だった。
確かに、求める訳には行かないだろう。

「失ってから其の大切さに気付く。…何も、かも」
「………」

閉じた瞳の上に、馬超は手を翳した。
馬超の脳裏に今、何が過ぎっているのだろう。
腿の直ぐ上に馬超の頭はあると言うのに、考えている事は何も伝わっては来ない。

「…温かいな」
「……はい…」

其の言葉は、心の奥底から吐き出されたように、深く、低い。
若し、こうしている事が馬超の何かを救えているのなら、どんなに大きな事だろう、とは小さく頷いた。



何だかんだで午前中を共に過ごし、久々に二人で昼食を摂った後、馬超はを自室に連れて行った。
を寝台に腰掛けさせると、棚の中をごそごそと引っ掻き回す。
何かを探しているようだった。

「あの、孟起?私も手伝いましょうか…?」
「否、良い。直ぐに見付か…あった」

余程奥に仕舞っていたのか、棚の中が整頓されていないのか、馬超が苦労して出してきた小箱は埃を被った様子もなく、最近仕舞われた事が見て取れる。
馬超は軽く箱を開けて中身を確認したりした後、寝台に座り首を傾げて馬超を見上げるに、手渡した。

「…?開けても、良いですか?」
「ああ」

視線を逸らした馬超を不思議そうに見た後、は上品な細工の施された小さな木の箱を、そっと開けた。
中には、銀に光る。

「…リング…?」

は中身を手に取ると、そっと顔の前に翳す。
陽光を照り返す銀の指輪には、透明な翠の石が付いていた。
六つの鉤爪が花弁のように見える、愛らしい創り。

「…如何だ?」
「…可愛いと思います、けど…」
「……気に入ったか?」
「え?」
「…は余り、こう言う物は好きではないか…?」
「え?…え、あの、孟起、これ…私に?」
「…他に誰が居るんだ」

若干緊張していた様子の馬超も、の其の反応に、気を抜かれたようだ。
脱力したように笑うと、ぼすん、との隣に腰掛ける。

「何だ、其の…街で遇々見付けてな。には色々世話になっているし、花みたいな形だから好きかも知れないと思って、…其の、何だ、兎に角、買ってみた」

人に…女性に贈り物をした事がないのかも知れない。
馬超の落ち着きのない様子を見て、はそう、思った。
遇々、とは言ったが、馬超はきっと、真剣に選んでいる。
自分の好みを予想して、一所懸命選びながら、自分が喜ぶ顔を想像しながら買ってくれた筈だ。
そう思うと、は何故だか、涙が出そうになった。

「ありがとうございます。…ありがとうございます、孟起、嬉しいです」
「いや、何だ、が喜んだのなら俺も、…嬉しい」

何処と無く赤い馬超の横顔を見ながら、が指輪を右手の薬指に嵌める。

「………」
「………」

入らなかった。

「あっ、でも、左手なら、…あ」
「…正直、心臓が止まったぞ」

広がる沈黙に気不味さを覚えたが、慌てて左手の薬指に指輪を滑らせると、余りにもあっさりと嵌ってしまった。
贈った品が合わない、などと言う洒落にならない事態を回避できた馬超は安堵しているようだが、其れに対し、の顔は薄らと色を失っている。

「……?」

指輪を外して、他の全ての指に試す。
の不可思議な行動を、馬超は不思議そうに眺めていた。

――着けられない

指輪は結局、左手の薬指にしか嵌らなかった。
左手の薬指の意味を知るには、この指輪は着けられない。
想い所が一つに定まらない自分に、着ける資格はない…そう、は思った。

「とても綺麗な翠色ですね」
「御前の輝きには劣る」
「………」

しかし、馬超の前では着けていよう、そう思ったが指輪を嵌めた左手を翳し、其の翠を楽しんでいると、馬超が酷く真剣な顔をして瞳を射って来た。
も、真直ぐに馬超の顔を見詰める。

――ぼすんっ

「…孟起、そんなに恥ずかしいのなら、言わなければ良かったのでは…?」
「ああ、この恥ずかしさは…死にたいな」
「ふふ…」
「だが、本心だ」

顔を腕で覆い、後ろに倒れこむようにして寝台に沈んだ馬超の顔は赤かった。
其の様子に笑みを漏らすだったが、しかし聞こえて来た低い声に驚くようにして振り向くと、先程以上に真剣な顔をした馬超の瞳と、ぶつかった。

「…言い慣れん事を言うと、疲れるな」

しかし、馬超は其の顔を直ぐに崩すと、再び天井を向く。
外された瞳にはそっと溜息を吐くと、自分が安堵している事に気付いた。

「あ」
「何だ?」

ふと、何か大事な事を聞いたまま其の侭流してしまっている、との脳が訴える。
何か忘れていないか。
必死に引っ掛かりを辿って行く。
すると、馬超の発した言葉が頭に甦った。

「街で…買われたんですか?」
「ん?ああ」

――街で遇々見付けてな

「…いつ……」
「…そうだな、一昨日、か?」
「そう、ですか」
「何だ?」
「いえ…」

若し、昨日だったら、と思った。
しかし、馬超が自分達の姿を見ていれば黙っている事もないだろうが、とは思う。
其れでも、確認せずには居られなかった。

「こんなにゆっくり出来たのは、久方振りだ」

の問いに然して疑問も感じなかったようで、馬超は後ろに倒れたまま伸びをした。
確かに、馬超がこの屋敷に日中居た事は余りなかった気がする。

「今日はのんびりされてくださいね」

ああ、と馬超が瞳を閉じて呟いた。
馬超の休みが今日で良かった、とは思った。





二人だけで夕食を囲むのは、酷く久しぶりだった。
馬超もそう思っていたらしく、少し嬉しそうに、久し振りだな、とだけ言った。
夕食後、やはり酒を呑みたいと言い出した馬超を、自分では部屋に運べないから、と言う理由で断った。
しかし、ならば部屋で呑めば良い、と馬超は言うと、を自室へと引っ張っていった。
そんなに沢山呑んでは駄目です、と言うの諌めも聞かず、結構な勢いで呑んでいった馬超は、普段より早い段階で酔い潰れ、寝てしまった。
困ったようには溜息を吐くと、馬超に掛布を掛け、酒器を下げ、洗い物を済ませて馬超の部屋に水差しを置きに戻って、そして、自室に行って、待った。
孫策との、約束の時間を。


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