呼びつけたに、何ら異変は見えない。
昨夜のことは何も覚えていないから、それが異変と言えば異変なのだろう。
周瑜は孫権の脇に控え、尋問めいた質疑の遣り取りを聞くに徹していた。
夜、庭を歩き回っていたことを告げると、は小さく呻いて頭を抱えた。しばし後に気まずげに溜息を吐き、昨夜星彩が話した内容とあまり変わらない内容のことを告白した。
呉に向かう船の中では何もなかったので、完治したのだと思っていたのだという。
やはり子が流れたことで、心が不安定になっているのかもしれない。
頭の隅にはそれがあったが、しかし口に出して言うことはなかった。
「うぁー……何か、申し訳ないです……」
は恐縮しているが、無意識であればどうすることもできない。
孫策のように抱きかかえて押さえつけてくれるような者が居れば別だが、さすがにそういうわけにもいかない。一晩中抱えているのは考えるよりも重労働だろうし、そもそも道徳的にもやらせられることではない。
と言って、見張りを立てるにしても下手すればおかしな噂が立ちかねない。は『病気だ』と言っているが、傍から見れば怪異の仕業にしか見えず、少しでも臆病な者であれば噂に尾ひれ背びれをつけて世間に放流させるに違いない。
どうしたものかと考え込む。
「いや、いいです。足、縛って寝るようにしますから」
「……解くのではないか?」
孫権のもっともな指摘に、は腕組みして考え込んだ。
「……ほどく……かも……しれませんね……じゃ、じゃあ、重い鎖とか引き摺るようにすれば!」
「引き摺って歩くのではないか?」
またもが黙り込む。
「……う、でもまず、やってみないとですね……」
「縄で縛るのはともかく、鎖を引き摺って歩けば音もしようし目立つであろう。今の時点で、未だ知っているのが我々だけだというのが不思議なくらいなのだぞ」
実際は周泰が最初に見つけたわけだが、それを話すとややこしくなりかねないのでには黙っていた。
とりあえず、の病を片付けるのが良いと思われたのだ。病が重いなら、蜀に戻ることも考えられ、そうであれば周泰も事を荒立てることなく余計な咎めを受けずに済む。
しかし、と周瑜は昨夜の星彩の言葉を思い返した。
は、帰りたがっているのだろう、と星彩は言っていた。
呉では勿論ない、蜀でもなく、自分が生まれた場所に帰りたがっているのだろうと思う、と言った星彩の顔は、暗く沈んでいた。
帰してやれればそれに越したことはない。一時の里帰りでいいなら星彩も喜んで随行したろう。
けれど、それは不可能なのだった。
趙雲ですらの生まれ故郷への道を知らない。賊に襲われ、尽く焼き払われる中、命からがら脱出した二人は闇の中をひた駆けた。は村から出ることはなく、趙雲は気を失っている間に村に運び込まれ療養を余儀なくされていた為、村の所在はしかとは知れない。見つけたとしても、そこは恐らく焼け野原と化しているはずだ。
詳しく語られることはなかったが、隠れ里のような場所だったらしい。乱世を避け、慎ましくも穏やかな生活を望む者が集まれば可能だったのだろう。いや、可能だったに違いない。
誰も存在を知らぬ閉ざされた世界で、独特の文化が花開きそれがに知識を与えたのだと星彩は解釈していた。
実際とは天と地ほどの開きがあったが、帰ることができないという点においては何ら変わりはない。
の病は心が安らげば落ち着くものであり、鬱屈された願いが叶えば治癒されるものである。
帰すことができない以上、はこの中原の何処に居ても孤独なのだ。
「まぁ、とにかくやってみますよ。星彩に頼んで、今夜見張っててもらいますから。それで上手くいくなら、一人でいても大丈夫だろうし」
蜀の文官として来ているのだ。だから、の言葉におかしな点はない。共連れもなく、侍女の一人もつけていないのだから、当然なのだ。
けれど、『一人でいても』という言葉は周瑜の胸に痛ましく響いた。
憐れだと思った。
「何かあれば、私に言うがいい。お前は」
そこまで口にして、何と続けていいか戸惑った。
「……お前には、小喬が懐いているからな」
結局、一番無難だと思われる言葉を口にした。孫権が少し不思議そうな顔をしている。
孫権はに向き直ると、その手を握り締めた。
握ってから数瞬緩まった力が、思い直したように強くなる。
「私も、何時でも力を貸そう。躊躇わずに申し立てるといい」
唇を閉ざすと、孫権の目が揺れた。
「……周泰も、そう言うだろう……いや、言っている」
周泰の名を出した瞬間、の顔付きがやや強張った。
やはり事実だったかと、二人は確信した。しかし、ならば何故言わないのだ。
問い詰めようとして鎌をかけたのではないから、孫権もそれ以上は続けなかった。
早速ですが、と周瑜に細い縄を用意してもらった。
用意された縄はきつく縒られていて、かなり丈夫そうに見えた。
寝る仕度をすっかり整えると、は自分の足に縄を結わえ付ける。
「……お姉さま、何もそこまで……」
具合が悪くなるようなら帰ると聞かされていた星彩は、症状が出たのは他ならぬ孫権が認めたのだから、このまま蜀に帰ればいいではないかと思った。蜀なら、自分も何時までもの傍に居てやれることができる。
が周瑜達に呼び出されている間に決まったのだが、星彩は後七日で呉を発つことになった。今のを一人置いていくのは、どうにも心細かった。
帰りたいと一言言ってくれればいい。
蜀に帰りたいと思っているのではないと、昨夜察してしまった。
けれど、蜀の地の方がの故郷には近いのではないだろうか。蜀の地ならば、星彩も心置きなく時間が使える。使えなくても、使ってみせると気負っていた。
は星彩の胸の内を覚ることなく、へらへらと笑いながら足首と寝台を繋いでいた。
念の為、と両足をそれぞれ左右の寝台の脚に括りつけた。少しゆとりを持たせ、確認すると、やっと星彩を振り返る。
「そこまでっていうかさ、元からまた夢遊病が出たらこうしようって決めてたから。星彩も、びっくりしたでしょう、ごめんね」
話は聞かされていたが、が実際に歩き回るのを見たのはこれが初めてだ。
表情の茫洋とした様、魂が抜け落ちてしまったかのような声音は星彩を恐怖させた。大切なが、目の前でどこか遠くに消え失せてしまうかのような恐怖だった。
固く瞑った目を開き、星彩はの居る寝台の横に腰掛けた。
真剣な眼差しに、はきょとんとしている。
「……あ、もしアレだったら星彩も一緒に寝る?」
要は寝ている間に出歩かなければいいのだ。だったら、別に星彩も徹夜で見張る必要はない。星彩なら、が起き出した気配でわかるだろう。
ほい、と上掛けをめくると、星彩はの横に滑り込んできた。
そのまま唇を奪われる。
頭の中が真っ白になった。
重ねるだけの口付けは、如何にも不慣れで力押しに近いものだった。口紅の味が染みて、これが夢ではないと知らしめている。
「ちょっ……星彩!?」
口付けと口付けのわずかな合間に、何とか制止しようと星彩の名を呼ぶ。
だが、星彩は尚更懸命になって唇を押し付けてくる。
足を縛っているのがまずには不利だった。
「!! ……ちょっ、星彩、駄目っ!!」
襟を寛げ、露になった乳房から冷気が忍び込み鳥肌が立つ。星彩の舌が先端を舐め上げると、呆気なく固く勃ち上がった。
押さえつけられた両肘を解放させようと、必死になって身を捩るのだが叶わない。
腕を使えない星彩は、舌と唇だけでの乳首を愛撫する。ぴちゃぴちゃと舐め啜るような音がの羞恥心を煽った。
「……駄目……っ……だってばっ……!」
久しぶりの他人の肌、それも相手が星彩だという異常さに、情けないことに却って興奮している自分を誤魔化せない。艶やかでしっとりとした肌は、趙雲や孫策とはまた違った心地よさがあった。
音を立てて吸われ、の肩がびくびくと撥ねる。
「私がいます、お姉さま。私がいますから、だからどうか」
ようやく口を開いた星彩は、泣きそうな声でに哀願した。
歩き回っていたことは知らされたものの、口走ったことは教えられていない。だから、には星彩の言わんとすることがまったくわからなかった。
何をとち狂っているのかと遮二無二暴れると、星彩も意固地になってを煽ろうとする。
堂々巡りの上に、すれ違う勢いだけが加速していく。
「いいからっ……離して、星彩!」
にしてみればただ行為を留めたくて口にした言葉だったが、星彩からすれば全否定されたも同然だった。
押さえる箇所を肘から手首に変えると、星彩はの下腹部に顔を埋めた。
「いやぁっ!!」
反射的に悲鳴を上げると、扉の外から物音がする。
「どうし……」
駆け込んできた孫権と周瑜は、しかし目の前の光景に絶句するしかなかった。
半ば裸体を晒しているが、星彩に抱きかかえられて泣き崩れている。
星彩はその体での体を隠しながらも、不法な侵入者をきつくきつく睨めつけていた。
その目の光が、異様に強い。
昨夜の視線ですら生温いと思えるような、ぎらぎらと光を放たんばかりの鋭い眼だった。
「出て行って」
声もまた、凄絶な重みを加えていた。
「しかし」
尋常でない様子に、孫権は怯みつつも譲ろうとはしない。
星彩の眼が歪に歪んだ。
「貴方達が出て行ったら、私も出て行くから。……出て行って!」
言い募ろうとした孫権の肩を、周瑜が押し留めた。
未練がましく振り返りながら扉に向かう孫権の眼には、星彩がを抱えているのがまるで自分の恥部を懸命に隠しているように見えた。
見ないでやるのが、情けだ。
何となくそう感じて、孫権は振り返るのをやめ、後ろ手で扉を閉めた。
「……ごめんなさい、お姉さま……ごめんなさい……」
星彩は泣いてはいなかった。けれど、怯えたように体を細かく震わせている。
どんな凄まじい衝動が星彩を襲ったのかはわからない。想像もつかなかったし、考えたくもなかった。
女に、同性にこんなことをされるとは思ってもいなかった。ショックで泣き出しはしたものの、もう涙は止まっている。
けれど、今すぐ星彩を許せるほどには、の気持ちは落ち着いていなかった。
「ごめん、星彩。……ちょっとだけでいい、一人にしておいて」
そう言うのがやっとだった。
星彩が傷ついたように目を細めたのはわかったが、それ以上はどうしても口を開く気になれなかった。
やがて体を覆っていた熱が離れ、冷気が体に染み込んでくる。
扉が閉じる音が、の胸に強い痛みを与えた。