薄い雲が天頂を流れていく。
 月は見え隠れしながらも周瑜と孫権の足場を照らしてくれた。
 周泰の話を聞く限り、がここに現れるのは毎晩というわけではないのだろう。もし毎晩現れているとしたら周泰はそう言っただろうし、言わずにおく理由もない。
 無駄足になる可能性も高かったし、腰を据えて長期戦を覚悟しなければならない。
 実りある仕事ではないだけに、二人の胸の内も何処か曇っていた。
 かさり、と枯れ草を踏む音がする。
 せめても期待に応えようとしたのではないだろうが、そこにの姿が在った。
 声を上げかけた孫権の口を、周瑜は無礼を覚悟で手で押さえた。
 乳兄弟の弟に当たるとは言え、身分の上では孫権が上だ。
 しかし、孫権は憤ることなく逆に自分の迂闊を無言で詫びてきた。
 周瑜は申し訳ないと微笑みで返し、この弟が兄を支えてくれるのなら、呉の天下は見えたも同然と希望を新たにした。
 だが、今はとりあえず目前の厄介事を片付けなければいけない。
 の顔はよく見えないが、足取りは確かによたよたとして心許ない。
 周瑜に言わせれば、この女の歩き方はいつもこんなものだと思う。鈴が鳴るように軽い足取りで歩く二喬とは比較にもならない。
 よって、異変らしい異変とも思えないのだが、隣の孫権は眉を顰めてを見詰めている。やはり何かおかしいのかと、周瑜は困惑した。周瑜には、幾らを見詰めてもその異変はわからない。
 やがての足が止まった。
 池の淵だ。
 月を見上げている。
 ちょうど雲間から月が見え、差し込む月光をの夜着が照り返した。
 薄っすらと白く光っているように見えなくもない。
 周泰の話と合致する。
 突然、孫権が立ち上がった。
 勢い良く立ったので、植え込みの茂みが派手に鳴る。
 ぎょっとして孫権を見上げるが、孫権は周泰の話をなぞってみせているのだと気付き、慌てて視線をに戻す。
 のろのろとした動作でが振り返り、孫権の顔をまじまじと見詰める。その顔に、表情はない。
 白痴じみた顔付きに、周瑜はただ寝惚けているのかという感想しか持てない。
 の顔がかくんと傾げ、しばらく孫権を見詰めていたが、やはり飽きたように顔を背けると、ふらふらと歩き出した。
 池の方ではない。
 しかし自室の方でもない。
 孫権はの後を追った。周瑜も仕方なく二人を追う。
 の足取りは変わらず頼りなく、速さもない。追いかける孫権と周瑜を振り返ることもなく、ただただ歩き回っているように見えた。
 見張りとかち合わないのは不思議とも思えたが、ここは屋敷の中でもかなり奥であり、気ままな孫堅の性質から私室が集まる箇所には見回りの兵をあまり置いていない為だろう。
 不用心だと思われた。
「周兄」
 呼び掛けが周瑜を無意味な思索から立ち返らせた。
「やはり、あの女は変です。捕まえてもよろしいか」
 確かにこのまま歩き回るのも愚策に思えた。頷いて是とすると、孫権は解き放たれるように勢い良く駆け出した。
 の腕を捕らえ、背後に引くと、の体は呆気なく孫権の胸の中に落ちた。
「……は……」
 呼吸を塞がれたというように大きく息を吸い込むに、孫権は視線を落とした。
 腕がのろのろと上がる。足が歪に曲げられる。
「……はな……し……て…」
 靴は履いていない。素足の指が乾いた土を掻いた。
「放し、て……放して……」
 声の切羽詰った感じに反して、体の抵抗は脆弱に過ぎる。違和感に惑いつつ、孫権はそれでもを抱き留める手を緩めずにいた。
 の目から涙が落ちた。
「何をしているの」
 鋭い、殺気の篭った声が孫権を脅かした。
 息せき切った星彩が、呼吸を荒げているのを隠しもせず孫権を睨めつけている。
 君主の息子に対し、一歩も引かぬ気迫を持って歩を進める。さすがはあの猛将張飛の娘と言うところか。
 しかし、孫権の方とていっかな引く気配もない。腕に抱き留めたを更に抱き込め、星彩の双眸にひたと視線を合わせている。
「返しなさい。……その人は、貴方が触れていい人ではない」
 理屈上では星彩に分があるように思われた。
 恋情に理屈が通じれば、だが。
 を抱く孫権の目には、言いようもない恋情が滾っているように見えた。少なくとも周瑜はそう感じたのだ。孫権は、に恋をしていると。
 己の気持ちに蓋をし、灼熱に滾らせるのはこの主従に共通している点に思えた。
 誰しも同じような質であるのかもしれない。
 孫権と対峙する星彩もまた、その眼に異様な強さの光を湛えている。
 危ない、と周瑜は肌で察した。星彩は武装をしている。孫権も腰に太刀を佩いてはいるが、が邪魔をして抜くことは適わないだろう。
 周瑜は密かに剣の柄に手をかけた。
「こわい」
 ポツリと呟かれた言葉が、張り詰めた空気を一掃した。
 こわいこわいと繰り返すは、脅えたようにおろおろと視線を彷徨わせた。幼い子供のような顔付きに、孫権も星彩も我に返って殺気を打ち消した。
「……かえりたい」
 星彩は矛と盾を投げ捨て、に駆け寄った。
「お姉さま、星彩です。もう、大丈夫ですよ。もう怖くありません、私と一緒に室に戻りましょう」
 優しげな言葉と共に差し出された指を、しかしは拒絶した。
「いや、かえりたい、かえりたいの、かえして」
「お姉さま」
 星彩の困惑は激しい。孫権も困惑している。周瑜も、また。
 孫策が居ないことが、こんなにも心細いとは思わなかった。孫策が居れば、もおとなしくなるだろうにと何故か思った。
 今度はかえりたいと連呼し始めたの目から、涙がぼろぼろと落ち始めた。
「……おかあさん……」
 そう言うと、は泣きながらも急速に体の力を抜いていった。
 痛ましげにを見下ろしていた星彩は、不意にきりりと目に力を篭め、孫権に向けて両手を突き出した。
 返せ、と言っているのだろう。
 孫権はの体に回した片腕を抜くと、横抱きに抱え上げた。
「お前では、抱き留めるのもままなるまい」
 自分が運ぶ方がの為だと、短くも強硬に主張され、星彩は唇を噛んだ。
 腹立たしげに己が得物を拾い上げると、無言のまま孫権を先導する。
 大した礼儀知らずだと周瑜は呆れ、それをさせるの寝顔をそっと覗き込んだ。
 先程の、白痴じみた表情は消え失せていた。寝顔であっても、いつものだと知らしめられる。
 では、先程のは一体なんだったのだろうか。
 こちらを見てはいても、決して視てはいないだろうと思わせる目だった。実際そうだったのだろう。寝惚けているにしても動き回り方が尋常ではない。
 思い起こすと、周瑜の体の奥底にずくりと衝動が走る。
 今にして、虚ろな眼差しと体に添う白い夜着から蹂躙を求められているような猥雑な艶を感じていた。
 そんな馬鹿な、と吐き捨てたくなるが、雄の印は如実に変化し周瑜に否定を許さなかった。
「お前は、知っているな」
 周瑜の少し前を行く孫権の声に、はっと顔を上げる。
 自分の内に灯った淫猥の火を見破られたかと冷や汗が出たが、孫権はその前を行く星彩を見ている。
 星彩は無言のまま足を進めていた。
「言え、この女はいったいどうしてしまったのだ」
「大きな声を出さないで」
 小さいながらもキツイ声音で星彩は孫権を睨めつけた。
「お姉さまが起きてしまったら、私は貴方を許さない。……貴方がお姉さまを運ぶと言ったのよ。ならば、勤めを果たすべきだわ」
 一々もっともな指摘で、孫権は口を噤んだ。
 星彩は厳しい視線をふっと緩め、を見詰めた。悲しげな目だった。
「……お姉さまを室に運んで、その後、別の室を用意してくれるなら。私の知る限りを、貴方達に話してもいい」
 返事も待たず、星彩は再び歩き始めた。
 孫権は首だけ周瑜を振り返り、周瑜も孫権に頷いて返した。何かあるなら、知っておかなければならない。
 それきり三人は黙り込み、深い眠りに落ちたを室に運ぶべく足を進めた。

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