翌朝、は朝早くに目を覚ました。
 昨日は何だかんだで遅くなったというのに、外が暗い内に目を覚ますなどどうしたことだろう。
 ぼんやりと考えていると、外から盛大なくしゃみが聞こえた。
 星彩は上手く言いくるめて自室に下がらせたし、誰かいるのかと起き上がろうとして派手にすっ転んだ。
 縄を縛り直したのを忘れていたのだ。
「どうした!?」
 焦った声が立て続けに問い掛けてくるが、痛みと未だ寝惚けている頭がまともな返事をさせてはくれなかった。
 唸り声を上げてじたばたとしていると、扉が開き誰かが飛び込んできた。
「どっ……」
 声の主は、孫権だった。
 の姿を見るなり、絶句して固まっている。
 いいから助けてくれないかな、と呑気に考えるは、自分がパンツ丸出しで引っくり返っているという事実を未だに認識していなかった。

「……いやぁ、もう、何と申しますか……」
 ようやく正気に返ったが、室の中をうろうろとしている。星彩はから少し離れてその後を追うようにしてついてくる。まだ昨夜のことを気にしているに違いない。
 へこへこと頭を下げつつ茶の仕度をするに、孫権はむっつりとしたままだった。
 縄を解いてもらった挙句に助け起こしてもらい、そのまま立ち去ろうとした孫権を引き止めて茶を勧めたのだ。
 起き掛けのことでもあるし、ちょうど星彩が来たから良かったものの、そうでなかったら湯の用意もままならなかっただろう。
「侍女を雇ったら如何だ」
 ようやく口を開いた孫権は、手前に置かれた茶碗を傾けながらそんなことを言い出した。
「星彩殿……も、近々蜀に戻られるのだろう。そうなっては、何かと不便ではないか」
「え」
 そうなの、と振り返るに、星彩は申し訳なさそうに頷いた。
「そっか……」
 昨夜の星彩の激情に、それも理由の一つだろうと当たりがついた。
 改めて姿勢を正し、孫権に向き直る。
「でも、侍女と言っても私には心当たりがありませんし、迂闊に人を雇って騒ぎになっても、やっぱり困ります。仕事も、未だ何もできていない状態ですし……」
 仕事と言っても、現在で言うところの外交の仕事などさっぱりわからない。
 せいぜいが人と会って親交を深めるとか、蜀に居る尚香にあててお話を書き綴るぐらいしかない。諸葛亮からも『貴女が貴女のままでいること』という不思議な言いつけをもらっただけで、後は誰からも何をしろという指示を受けていない。
 ならば人に会いに行くなりすればいいと思うのだが、の体調不良が原因で宴に呼ばれなくなってしまった。
 が呉の重職の面々に会う機会など、あの宴を置いて他ないのだ。面会の約定もなく押しかけるなど、には到底出来そうもなかった。
 考え込むに、孫権もまた掛ける言葉がなかった。
 元より人を楽しませるような話術は持ち合わせていない。真面目一方で、皆で酒を酌み交わすことは好きだったが、普段は一人で鍛錬なり書を読むなりするのが常だった。
 普段は周泰が居たし、困るようなこともなかったのだが、いざ女性と向かい合わせとなると話題の乏しさに心細くなる思いだ。
「そう言えば」
 内心焦る孫権とは裏腹に、は気にした様子もなくふっと話を振ってきた。
「何だ」
 言い淀むを、孫権は軽く促した。から話題を振ってきてくれれば、それに越したことはない。つくづく受け身なのだと情けなくもあったが、自分の気質という奴がなかなか変え難いのもわかっていた。
「……最近、大喬殿と小喬殿をお見かけしないなぁと思って」
 以前呉に来た時は、最初こそよそよそしかった二人だったがすぐに打ち解け、毎日のように押しかけてきていた。
 が呉に来て、すぐに牀に着いたのもいけなかったろうが、見舞いにも来てくれない。
 牀に着いた理由も理由だったから、来辛いのもわからないではない。けれど、寂しいと思う気持ちも否定できなかった。
「義姉上達なら、里帰りしているはずだ」
 思いがけない言葉に、の目が丸くなる。
「え、でも」
 確か以前、大喬と話をしていた時だったか、今付いている家人でさえ孫家が用意したという二喬だ。実家と言ってももう両親も亡くなっていて、という話を聞いた気がする。
「屋敷や親族は残っているはずだからな。この時期に急に思い立ったのが何故かはわからぬが、今は特に何があるというでもなし、あるいは親族の様子を伺いに行ったのかもしれん」
 それは知らなかった。
 どおりで姿も見せないわけだ、と納得した。
 嫌いになったから姿を見せなかったわけではないのか、少し安堵した。
 ほっとしたような笑みを見せたに、孫権は我知らず胸が高鳴った。
 こうしていると、が流産したという話がまるきり嘘のように感じる。話を聞いただけでに対して嫌悪感を持った自分が恥ずかしいとさえ思えた。
 事実は事実だ。しかし、こうして以前と変わりなく振舞うに罪があるわけでもない。誰が悪いわけではない、ただ、運が悪かったのだろう。
 子は、また生せばいいのだ。さえ無事なら、それも叶うに違いない。ひょっとしたら、自分の子を孕む可能性とてないではない。
 無為な思索に耽っていた孫権が、視線を感じて顔を上げると、恨みがましい目で見詰めていた星彩がふいっと目を逸らした。
 はっとして昨夜のことを思い出す。
 女同士で、という思いも過ぎるが、そういう話も聞いたことがないわけでもない。まして、星彩の熱い眼差しは真実を如実に物語っているように思えた。
 だとすれば、星彩にとって孫権は紛れもない恋敵と言うわけで、その男が親しげにと話しているとあっては複雑極まりないに違いない。自分が男で、星彩が女というだけで妬ましい気持ちを持ってもおかしくない。男であれば、はばかることなくを妻に迎えられるのだ。
 まじまじと星彩を見るに付け、自分とて妬まれるほどの立場ではないと主張したくなる。兄に許可を得て、本気で狙えと示唆されるような立場が羨ましくなれるとは思えない。
 考えれば考えるほど腹の底が苦くなり、孫権は退室を申し出た。

 孫権を扉まで見送りに出たが、ふと廊下の片隅に目を遣った。
 何事かとその顔を見詰めていると、は真顔に戻って孫権を見上げた。
「一晩中、見張っててくれたんですか」
 その通りだ。
 孫権は、何故か自分の顔が赤くなるのを感じた。
「……兄上から、頼まれているからな」
 嘘だ。
 孫策は、孫堅の命令にぶつぶつと不平を述べたのみで、孫権には『俺の居ない間、頼んだぞ』としか言っていない。拡大解釈すればのことも含まれていたことになるかもしれないが、実際のところ直接頼まれたわけではない。
 けれど、自分の意思でそうしたと暴露はできなかった。ただの好意や親切を上回ると取られるのは耐えられない。
 これを機に、などと図々しく考えることができない、損な性質だった。
「そうですか」
 は孫権の葛藤になど気付かぬようで、ただにっこりと微笑んで見せた。
「でも、大変だったでしょう。有難うございます」
 礼を言い、頭を下げると、しかし今晩からはもういいと断りを入れてきた。
 孫権の胸が、ぎしりと嫌な音を立てた。
「……何故だ」
 むっとしたような孫権の顔に、は困ったように苦笑を浮かべた。
「だって、大変でしょう。それに、足縛っとけばふらふら出歩くこともなさそうですし、見張ってなくても大丈夫だと思いますし」
 途端、牀から落ちて引っくり返ったの姿を思い出した。剥き出しになったの足と、割れた裾から見えた薄い色の下着が脳裏に浮かび上がる。
 下腹部で急激に猛るものに、孫権は赤くなるより先に青褪めた。
 様子のおかしい孫権にが首を傾げていると、表が急に騒がしくなってきた。
 室の奥に居た星彩も騒ぎを聞きつけ、廊下に出てくる。
 三人で訝しげに騒いでいるらしい方を見遣っていると、どうもこちらに近付いてくるようだ。
 顔を見合わせていると、斜向かいに見える廊下に、赤い色が飛び出してきた。
 まさか、と目を疑うが、いくら目を凝らしてもその姿が消えることはない。その内、向こうの方もの姿に気が付いた。
っ!!」
「は、伯符!?」
 何故ここに孫策が居るのか。早々に討伐を済ませ、戻ってきたのだろうかと思うが、孫権の驚きようではとてもそうは思えない。
 孫策の後ろから、追いかけてきたかのように大喬と小喬が現れた。
 二人の姿を見て、里帰りの話は嘘だったのだとは直感した。きっと、孫策を迎えに行ったに違いない。
 何の為にと言えば、答えは一つしかない。
 急に胸がむかついて、は眉間に皺を寄せる。
 中庭を横切ってに向かって来る孫策の顔もまた、憤りに満ちていた。
 思い掛けない不穏の空気に、居合わせた孫権や星彩、二喬の顔に不安の色が浮かんだ。

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