身軽く廊下に飛び上がった孫策は、無様につんのめることもなくの前に立った。
 その目が険しいことに、は無性に腹立たしくなる。
 しばらく互いに向き合って相手の顔を見つめあった。けれど、そこには甘い感傷など欠片もない。ぴりぴりとした空気が、周囲の者を怯えさせた。
「……俺に、何か言うことあるだろ」
 しばらくしてようやく口を開いたのは、孫策の方だった。
 ぶっきらぼうな言い方に、の唇はますます固く閉ざされる。

 苛立ちを隠さない声に、は視線を横に逸らした。その顎を取られ、無理矢理目を合わせられる。
 乱暴だ。
 かっとして、は孫策を睨みつけた。唇がわずかにめくれ、獰猛な顔付きになる。
 孫策は眉を顰めた。
「……
 幾分か声を潜めたのは、怖気づいたからではなく宥めたかったからかもしれない。
「お前、俺に言わなきゃいけねぇこと、あるだろ?」
 噛んで含むようにゆっくりと紡がれる言葉は、にとっては嫌味ったらしい、押し付けがましいものでしかなかった。
「ない」
 きっぱりと言い放つに、孫策の顔が一瞬怒りに引き攣った。
 何とか押さえ込み、強張った顔のまま同じ言葉を繰り返した。
「ないったら!」
 顎を取る孫策の手を払いのけ、は身を翻して室に戻ろうとした。孫策は許さず、その手を掴み引き摺り戻す。
「あんだろうがっ!」
 最早憤りを隠すこともなく、孫策は地声の大きさのままを怒鳴りつけた。
 の目に怯えが過ぎり、薄く涙が浮くが零れるほど溜まりはしなかった。
「ないっての! だいたい、何で伯符がここに居るのよ! 討伐は!?」
 怒鳴り返され、孫策は言葉に詰まる。ふと背後に目を遣ると、大喬が力強く頷き返した。
「孫策様は、私がお連れしたんです。私が」
「余計なお世話です」
 勢い込む大喬の言葉を、は冷たく切り捨てた。
 大喬がはっと息を飲む音と、の頬が弾かれる音はほぼ同時だった。
「お前、なぁ!」
 怒りも露にを睨みつける孫策に、は打たれた頬を押さえ唇を戦慄かせた。
 何か言いたげな唇が歪み、きつく噛み締められた。
 その様に胸に痛みを覚えた孫策は、やや怒気を緩めを打った手を握り締めた。
「……俺の、子かもしれなかったんだろ」
 途端、は大きく頭を振る。違う、と完全に否定した。
 再び孫策の怒りが爆発する。
「俺の子だろ!? 俺の……俺と、お前の……!!」
 は否定する。声もなく、ただ頭を振ることで否定し続ける。悔しげに歪んだ口元の皺に沿って、涙が零れ落ちた。
 孫策の口は、もう何を言っていいかわからないというように固く引き結ばれた。
 沈黙が落ちた。
「戻りなよ」
 ぽつり、と呟いたのは、だった。
 歪んでいた顔はいつの間にか表情を失って、青褪めていた。
 孫策が何か言いかけ、開いた唇が再び閉ざされる。
「命令違反、まずいでしょ。跡取りだからって、やっていいことと悪いことがある。戻りなよ」
 孫策の目が、痛々しいものを見るように細められた。
「……跡取りとか、関係ねぇじゃねえか。何で、俺に言わなかった。何で黙ってろなんて言った。ずっと、俺に秘密にしてるつもりだったのかよ」
「言う必要なんか、ない」
 空気が凍てつき、ぴしりと音を立て亀裂が入った。
 錯覚かもしれないが、居合わせた全員がその音を聞いた。
「……そうかよ」
 孫策は言い捨て様、身を翻して元来た道を帰っていった。
 もその姿を見送ることなく、自室に入り扉を閉ざした。
 おろおろと二人の去った方向を見比べる二喬と、呆然と成り行きを見ているしかできなかった孫権がその場に取り残された。

 孫策が馬を乗り捨てた前庭に戻ると、周瑜がそこに居た。
「孫策!」
 怒っていると態度に出す周瑜に、孫策はかったるそうに首を回した。
「討伐はどうした! 此度の討伐は、君の勝手な振る舞いに対する罰なのだぞ! それをまた勝手に抜け出すなど……」
「周瑜」
 低い呼びかけの声は、恫喝と同義の意図を以って周瑜の憤りを封じた。
「何で、俺に言わなかった」
「……何の話だ」
 孫策は、道端に唾を吐き捨てた。怒りが頂点に達した時の、孫策の悪い癖だった。
のことだ。……何で、俺に言わなかった。何で、俺だけに……」
 怒鳴らないだけ、孫策の怒りがどれほど凄まじいかを物語っていた。
 周瑜は眉を顰めた。孫策の顔が青白い。怒りで、吐き気すら催しているようだ。痛ましかった。
「……彼女が、そう願ったからだ。戦の最中に、お前が余計なことに気を取られぬよう」
「余計なことって何だよ!!」
 孫策の声に、悲嘆の色が混じった。
「余計なことって何だよ、周瑜! 何が余計なことなんだよ、全然、余計なことなんかじゃねぇだろ、そうだろ、なぁ周瑜!!」
 喚きたてる孫策の声が、そこに集う人々の胸を抉る。
 あの孫策が、これほど傷ついているのを誰も見たことがなかっただろう。体が傷ついても、弱音を吐くような孫策ではなかった。周瑜だからこそ幾度か孫策の弱音を耳にしたことはあっても、孫策がこんな悲痛な叫びを上げるのを聞いたことはなかった。
――俺、あいつのこと、好きになり過ぎる
 そう言って顔を赤らめた孫策を、周瑜は今の孫策に重ねていた。
 やはりは、危う過ぎる。
 孫策の心に食い込み過ぎている。危険だ、と感じた。
 たかが女一人、国の大事を考えればちっぽけなことだ。そのはずだ。
 しかし孫策は易々と命を破り、軍規を乱すのも厭わずの元に駆けてきてしまった。
 その情熱が、いつか孫策自身を滅ぼすのではないか。
 周瑜は訪れるかどうかもしれない未来と覚りつつ、鳥肌立つのを止められなかった。
 肩で息をしていた孫策が、不意に手綱を握り締めた。
 軽く反動をつけて馬に跨ると、周瑜を振り返る。
「……戻る」
 弱々しい声に、周瑜は思わず孫策の手綱を握り締めた。今、戦場に戻してはならぬと感じた。
 孫策は力なく笑い、周瑜の手に己の手を重ねる。
「親父には、適当に言っといてくれ。罰なら、後で受けるから、よ」
 そんな風に言われては、もはや周瑜に孫策を引き止める言葉は、ない。
 ずるり、と滑り落ちるように離れた周瑜の手を、孫策は苦く笑って見詰めた。
「じゃあな」
 馬を走らせようと手綱に力を篭めた瞬間、孫策の前に走りこんできた者が居た。
 星彩だった。
 驚き、一瞬表情を失くす孫策に、星彩は矛を突きつけた。不敬と言うにも度を過ぎた振る舞いに、周囲が殺気立つ。
 それを制したのは周瑜だった。手を翳し、黙って成り行きを見ろと命じる。
 いざとなれば、己が星彩の矛の前に立てば良い。今、孫策を行かせる訳にはいかなかった。
「お姉さまを、置いていく気?」
 孫策の顔に怒りが蘇る。置いていきたくて置いていくわけがない。受け入れなかったのは、の方だ。拒絶し、否定したのは孫策ではなく、の方だ。
「置いていくと言うなら、誓って。もう、お姉さまには近付かないと」
「な……」
 唐突な星彩の申し入れに、孫策は目を見張った。周瑜も、居合わせた他の者も、皆、驚きのあまり声もない。
 星彩は孫策以外は見えていないかのように、淡々と言葉を綴る。
「お姉さま、貴方にだけは怒ったわ。私達には笑って、ただ詫びるだけだったお姉さまが、貴方と顔を合わせて初めて怒った。実感がないと言っていたお姉さまが、どうしたらいいかわからないと言っていたお姉さまが、初めて、貴方にだけ怒ったの。それがわからないなら、そんなお姉さまを平気で置いていけるというなら」
「平気じゃねぇ!!」
 弾かれるように否定した孫策の言葉を、星彩はあっさりと却下した。
「平気だわ。平気でないのだったら、何故貴方はそんなところに居られるの」
 ぐ、と詰まる孫策に、星彩はもうそんな価値もないと言うように矛を下ろした。
「貴方がただお姉さまを傷つけるだけなら、もうお姉さまに近付かないで。誓って。約束して。でなければ、お姉さまは滅茶苦茶になってしまう。優しい方なのに、脆い方なのに、きっと一生懸命何でもない振りをなさってぼろぼろになってしまう」
 星彩の目が悲しげに伏せられ、しかしすぐに強い光を灯して孫策を貫いた。
「貴方なんかより、私の方がお姉さまをわかってあげられる。さぁ、誓って。もうお姉さまには近付かないと」
 孫策は言葉に詰まったまま、怒り狂った目を星彩に向けている。
 対する星彩は、びくともせず、その凛とした目を孫策に向け続けた。
 きん、と張り詰めた空気が満ちる。周囲の者は、誰一人として手が出せずに居た。周瑜でさえも、だ。
 孫策は、不意に星彩から目を逸らした。星彩の目が怯んだように揺れる。
 しばし中空を見詰めていた孫策は、馬から飛び降り、星彩に背を向けすたすたと歩き出した。屋敷の中の方に向かっていく。
「待ちなさい、何処へ行くの」
「うるせえ、のとこに行くんだよ!」
 吐き捨てるように言い、肩を怒らせて徐々に歩く速度を速めていく。星彩は驚いたように眉を吊り上げ、次いで怒った顔をして孫策の後を追いかけ始めた。
「待ちなさい、お姉さまは今、貴方の顔なんて見たくないはずだわ」
「あっちが見たくなくても、俺が見たいんだよ!」
「そんな勝手は許さない!」
「お前が許さなくても、俺が許すんだよ!」
 終いには全力疾走し始めた二人を、周瑜は唖然として見送った。見送らざるを、得なかった。
「……何の騒ぎです?」
 間の抜けた声が掛かる。
 周瑜が振り返ると、凌統が飄々とした態で孫策の馬を見上げていた。
「何です、この馬。……どっかで見た馬だなぁ」
 当たり前だ。孫策の馬なのだから。
 周瑜は頭痛のするこめかみを押さえると、凌統を手招きした。ちょうどいい。

 本当に事情を知らない方が、知らぬ存ぜぬで押し通せる。
 そんな訳のわからぬ理由で孫堅への孫策帰還の報告を託された凌統は、己の間の悪さと逆らえない素直な性格を天に呪いながら、孫堅の執務室に向かう羽目になった。

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