は暗く沈んだ面持ちで寝台に腰掛けていた。
 あんなことを言うつもりではなかった。大喬にも酷いことを言ってしまった。
 ただ、心の準備もないまま孫策の顔を見た瞬間、堪えきれなくなってしまったのだ。
 確かに孫策が言う通り、孫策の子だったかもしれない。しかし、何も確証はない。同じ時期に趙雲とも馬超とも体を重ねた以上、誰が父親かははっきりさせようがないのだ。
 子供が大きくなって、誰かに面影が似てくれば話は別だったろう。
 けれど、この腹にその子はもう居ない。
 と言うより、居たと言う確信すらにはない。
 皆が皆、口を揃えて腹に子が居た、流れたと言うが、当のに自覚はまったくなかった。悲しみようがないのだ。
 悲しまないのではなく、わからない。それをわかってくれたのは、凌統だけだった。ここ数日は忙しいのか顔を見ていないが、凌統だったら自分の話を聞いてくれるだろうか。そっか、じゃあ仕方ないな、とさばさばと頷いてくれるだろうか。
 凌統に会いたい、とは思った。
 一人で居るのがどうしようもなく寂しく心細く、凌統でなくてもいい、味方になってくれる人が欲しかった。ただ頷き、お前のせいではないと慰めてくれる人が欲しかった。全部嘘だったと証してくれる人でもいい。とにかく、を否定しないでくれる人が、ただありのままに受け入れて甘やかしてくれる人が欲しかった。
 そんな人が誰一人居ないとわかっていたからこそ、切実に求めたのかもしれない。
 涙が零れた。
 様々な感情が渦巻いて、解決する糸口すら見出せぬまま、出口を求めて涙と化した。
 一度零れた涙は、堰を切って溢れるように次から次へと流れた。
「……うっ……えっ……え、えぅ……」
 いい年して、子供のようだ。
 情けなかった。こんな泣き方をしていいとは到底思えなかった。
 自分はいったい幾つになったのだ、こんな、小さな子供のような、と考えるにつけ、涙の苦さは増していった。
 突然、扉の向こうが騒がしくなった。
 鍵を掛けた扉が、ばん、と大きな音を立てて軋んだ。ぎょっとして身をすくめると、扉を立て続けに乱打する者が居た。
っ!!」
 戻ったと思ったはずの孫策の声だった。
 戸惑いに、は思わず立ち上がる。が、扉を開けることも逃げ出すことも叶わず、ただ肩を抱くのみだ。
……っ!!」
 声が途切れ、が疑問に思う間もなく孫策の体が扉をぶち破って飛び込んできた。
 礼儀知らずなどと言うものではない。破れるから破るなどと言うのは、いわば反乱だの弑逆だのという時のみに行われる行動であって、少しでもこれからお付き合いしていこうと思っている相手ならばやってはならない最基本の行為だ。
 呆然と立ちすくむを、孫策は当然のように肩に抱き上げ、窓から飛び出した。
 室の中から、駆け込んできたらしい星彩の悲鳴が響き渡る。
 の姿を捜し求めているようだが、よもや躊躇いなく窓から飛び出したとは思いもしないに違いない。
 星彩の真っ直ぐな思考を逆手に取ったわけではないだろうが、孫策の突拍子もなさを星彩に理解し予測しろと言っても無理だろう。
 孫策は素早く建物の死角に飛び込み、窓から見渡しても何処に居るかわからないようにしてしまった。
 未だ状況についていけてないは、ただ呆然としているだけだ。
 孫策は得意げに微笑み、次いで泣きそうな顔をして、の額に口付けを落とした。
 再び走り出した孫策を止めようという気力は、にはもうなかった。

 孫策の私室に連れ込まれ、牀の端に腰掛けさせられた。
 隣に孫策が腰掛ける。
 沈黙が落ちた。孫策が握り締めたまま離そうともしない手だけが、奇妙に暖かく違和感を感じる。
 孫策は、突然うーんと唸ると、前を見たままぽつりと漏らす。
「……お前に何でだって訊くと、喧嘩になっちまう。だから、俺が考えてること、言うな」
 聞きたくない、と思った。けれど、何故かそれを口にすることはできなかった。
「俺は、お前には、真っ先に俺を頼って欲しかった。一番に、俺に教えて欲しかった。俺は、お前がそうして欲しいってぇなら、何時だってどんなことだって叶えてやりてぇ」
 わかるか、と孫策が問う。
 わからない。
 は、沈黙で答えた。わかるはずがない。一国の跡取りたる男が、既に娶った女性がいる男が、何を言っているかと反感だけがあった。
「子供が居たって聞いた時、正直俺だって何のことかわかんなかった。けどよ、でも、何でそれをお前が言わないのかって考えたら、頭にきた。どうしようもなくムカついて、だってよ、俺はお前のこと、すっげぇ好きなのに、何で俺、お前が大変な時に傍にいねぇんだって、言えば、絶対ぇ駆けつけたのにって、何か……何か、お前にとって俺は、どーでもいいのかって、思って」
 の唇が強く噛み締められる。
 孫策は、話を続けた。
「大喬から、お前が普通にしてるって、それ見るのが辛いって聞いて……俺は、何で俺はそれ見られねぇんだって、それがすっげぇ辛くて、どーしてもお前の顔が見たくなって、陳武に後頼んで、すぐ戻るっつって……でも、お前が俺の顔見た時、すっげぇむかついたって顔して……何で、俺の顔見るのも嫌なのかよって、何か、腹立って。俺はすげぇ会いたかったのに、お前はそうじゃねぇって、何か……何か、すげぇ嫌だった」
「……っ……」
 声にならない嗚咽と共に、の目からひっきりなしに涙が零れ落ちる。
 吐き出したいものが喉につかえて吐き出せないというような、重く引き攣ったような嗚咽だった。
 孫策は驚き、また戸惑い、の手を握り締めた。
「……って、わか……わかんな、だも……」
 わからないのだ。そして、わからなかった。
 子を宿していたこともわからなければ、子が去ったこともわからなかった。それでどうして悲しめようか。
 だというのに、人々はを哀れみ、悲しまないに冷たい視線を浴びせる。
 どうしろと言うのか。実感のわかない、腹に居たとかいう子を思ってぎゃあぎゃあと泣いて見せれば満足するのか。
 茶番だ。真っ平御免だ。
 自分の思いだ。自分の心だ。
 感じるままに振舞って何が悪い。ましてや、自身のことではないか。天下国家が覆る一大事ではない。
 有体に言えば、騒がれ過ぎたのだ。がそれと感じ、それと気付くまでに時間が必要だった。その時間も与えられぬまま、周囲の人間は自分達が感じるままに勝手にを哀れみ詰った。お陰で、は悲しいと思う暇もなくなってしまった。は実感することも許されぬまま、ただ人々の傲慢な身勝手さをのみ肌で感じ取り、神経をささくれ立たせることになってしまった。
 責めるなら、責めれば良かったのだ。遠巻きから送られる、真綿で包むようなじわじわとした圧迫は、にとっては何の救いにもならなかった。
 ぶちまけることも喚きたてることもできない。
 は、孫策の隣に腰掛け、ぼろぼろと涙を零す。
 みっともないと、子供のようだと己を諌める余裕もない。
 ただ、ぼろぼろと零れるままに涙を落とした。
「あぁ」
 孫策が頬を寄せてくる。
「……わかんなかったんだよな。俺だって、わかんなかったもんよ。お前がわかんなくったって、しょうがねぇよ」
 誰も、わからなかったのだから。
 胸の内が、熱くなるほど暖かい。涙から、体の中に詰まっていたものが溶けて流れていくようだった。
 おかあさん。
 誰かの声が聞こえた気がした。
 居なくなってしまった。
 お腹に居た子が、居なくなってしまった。
 やっと実感した。したような気がした。
 お腹の中に、子供が居たのだ。もう居ないのだ。居なくなってしまったのだ。
 優しい、いい子だったと医師が言っていた。
 優しい、いい子だったのだろう。
 でも、もう居なくなってしまった。
 お母さん、と一度も呼びかけることもなく、それどころか泣くことすらなく、もう居なくなってしまった。
 わっ、と堰を切ったように泣き出したを、孫策は戸惑いながらも抱き寄せ、その体を包んだ。

 泣き疲れたが、腫れ上がった瞼を擦る。
「馬鹿、擦ると余計に腫れるぞ」
 孫策は水を探すが、長く主の居なかった室に水差しの用意がされていようはずもない。
 仕方なく舌で拭うと、の体がぴくりと撥ねた。
 柔らかな吐息が熱く弾み、孫策は生唾を飲む。
 戦場で発散されることのなかった体は、これ以上もなく素直にを求めていた。もまた、泣きじゃくった為か体が過敏に反応しているようだ。恥ずかしげに、おずおずと孫策の胸に頬を寄せてきた。
 不謹慎だ、という気持ちは孫策にはない。
 自分が愛おしいと思う女が手の中に居て、嫌がられていないのだと言うなら当然のことだと思う。
 むしろ、今こそ種を仕込んで自分との子を生すべきだと言う、使命感めいたものすら感じた。
「……
 熱く名を呼べば、の目がわずかに揺らぐ。
 よし、と気負って体を反す。埃避けの布が掛けられたままだが、事の最中に足で蹴り落としてしまえばいい。
 の体を横倒しに倒し、上から見下ろせばしどけない肢体が何ら抵抗することなく横たわっている。上目遣いに見上げる目は赤く腫れていたが、手首で隠された影が幸いしてか、艶めいてさえ見えた。
 よしっ!
 異様にやる気になった愚息が、孫策を早く早くとせっついていた。
「……あのー……」
 の帯に手を掛けた瞬間、間抜けた声が掛かる。
「いやぁ、俺としても、こんな無粋な真似はしたくないんですがね……大殿が、何が何でも、そのぅ、事の最中でも引っ張って来いってご命令でしてね……まぁあの、突っ込んでる最中にお止め立てするよりは、と、俺なんぞは思うわけですよ」
 如何にも嫌そうに大袈裟に手を広げてみせる凌統に、孫策は歯軋りしは赤面した。
「……見逃せ、凌統」
「駄目ですよ、大殿がホントにお怒りになったら、何仕出かすかわかったもんじゃないでしょうが」
 何仕出かすと言うか、ナニ仕出かすかですけどね、と凌統は口に出さずに目で訴える。何せ、以前孫堅が出した『を口説き落とせ』の命は取り消されていないのだ。これと見込んで落とせなかった女はいない、ともっぱら評判の孫堅が本気を出したら、如何なでも危ういに違いない。
 何となく、自分が嫌だと感じたせいでもあったが。
 しばらくまんじりともせず凌統を睨めつけていた孫策だったが、未練を振り切るようにの上から飛び降りた。
 大声で何か喚き散らしながら、足を踏み鳴らして去っていく孫策に、凌統は付き従うでなくただ見送った。
 ちらりとを見遣ると、起き上がって赤くなった顔を両手で押さえている。
 何か言ってやろうと口を開いた凌統より早く、がぽつりと漏らした。
「……さっき、凌統殿に会いたいって、思ってたんですよね……」
 思い掛けない言葉に、凌統の胸がどくんと脈打った。
「もう少し、早く来るか……」
 消え入るような声が、しかし『遅く来てくれたらいいのに』と言ったのをはっきり聞き取って、凌統は口をへの字に曲げた。
 犯すぞ、この女。
 冗談にならなくなりそうで、凌統は慌てて首を振った。

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