夜明け前、孫策は既に馬上に在った。
 いつまで経ってもの姿が現れないので、大喬が呼びに行こうとしたのを孫策が留める。
 不機嫌な顔をしている。
 人前で表情を取り繕うほど器用な兄ではないが、これでは昨日と対峙した時、いやそれ以上の不機嫌さだ。
 孫権はそう分析し、ならば自分がとの室に向かおうとした。
「権」
 直々に名を呼ばれ、慌てて孫策の元に馳せ参じると、孫策が身を屈めて孫権の首に腕を絡めてきた。
「さっきまで顔見てたからいーんだ」
 それが誰と何をしていたかを指すのか、瞬時にわかってしまった。
 孫権は、怒りとも羞恥とも羨望とも着かない複雑な心持に陥って眉を寄せる。孫策の顔がかすかに笑い、ふたたび不機嫌な表情へと急降下した。
「権」
 ぶすくれた顔が孫権の名を呼び、今度は悪戯するでなく耳元に囁いて寄越す。
 孫権の顔がぎょっと引き攣った。
「……行くぜ!」
 聞き違いかと無言で孫策を凝視する孫権に、出立を宣告した孫策はもう一言も声掛けることなく、ただ軽く手を挙げて見せるのみだった。
「孫策様、何か仰ってましたか?」
 大喬が無邪気に尋ねてくるのを、孫権は苦笑いして返答を避ける。
―――俺が居ない間に、抱いとけ。
 それが誰と何をしろと言っているのか、間違いようはないが信じ難い内容だった。
 命令、なのだろうか。
 言葉の体裁は紛うことなく命令だった。しかしその命に従う意味は、孫権には理解し難いものだった。

 白い肌、円い体が身を寄せ合ってくねっている。
 を抱こうと忍び込んだ孫策の眼前で、信じ難い光景が繰り広げられていた。
 趙雲や馬超と同時にを苛んだこともある孫策ではあったが、この光景は理解しようにもし難い、したくもないと方寸そのものが完全に拒絶していた。
 話に聞いたことがないわけではない。
 けれど、よもやと星彩が……と、目を擦っても状況は何ら変わらなかった。
 男が欲しくて、その代用なのか。
 考えても己を納得させるものはなく、ただ気配を殺し事の成り行きを見守るしかできなかった。
 やがて星彩が果てたようで、気だるげなが牀を離れて出てきた。
 寒がりの癖に肩に上着を引っ掛けただけのしどけない姿に、相応の熱を感じていたのだと嫌でも見せ付けられる。
 屈辱だった。
 星彩は未だに眠っているようだ。連れ出して、と考えていた孫策の気持ちは、暗い怒りに捻じ曲げられた。
 の背後から襲い掛かり、有無を言わさず貫いた。
 自分がこれ程昂ぶっていたのだと、孫策はその時点でようやく気付いた。
「……けっ」
 わずかに赤くなっている指を見ながら、孫策は渋い顔をする。
 指の赤みは、に噛ませようとして失敗した痕だ。どうしても嫌がって噛もうとしなかった為、傷にはならなかった。
 何でもいいから、体にを刻みつけたかった。の肩口には己が噛んだ痕を残してきてある。互いに互いの痕など残しても、虚しいだけとわかってはいたのだ。そうせざるを得ない衝動が、孫策を突き動かした。
 女なんかに。
 それは、星彩に対する嫉妬だった。
 趙雲に対しても馬超に対しても、あの姜維に対してですら、もうカッと身を焼くような気持ちを持つことはない。
 だのに、男ではない星彩がと睦みあっている光景が孫策を苛立たせる。
 星彩とだけは、嫌だ。自分が戦場で駆けている間、がどれほどその身の淫猥さを持て余したとしても、星彩相手に慰めることだけは我慢ができなかった。
 勢い孫権に託してしまったのだが、それが孫権をどれだけ困惑させたかなど孫策は思いも寄らない。脳裏に焼きこまれた光景が、孫策を苛立たせる。
 馬に鞭くれて戦場への道をひた駆ける孫策は、星彩が蜀に帰る日が間近いことを知らなかった。

 が目を覚ましたのは夕方近くなってからだ。起きだしてからもぼーっとしていたから、あっという間に日が暮れた。
 夜中、星彩が眠っているとは言え隣室に居るにも関わらず、孫策は激情を何度も叩きつけてきた。
 優しさの欠片もない熱いだけの狂おしい交わりに、は声と物音を潜めるのが精一杯で、後は孫策のいいように翻弄されてしまった。
 星彩が居るのは、孫策にとっては先刻承知のことだったのだろう。普段は牀でするのに、昨夜に限っては牀に向かおうともしなかった。
 ひょっとしたら、星彩とそういうことを致していたのを見られてしまったのかもしれない。
 考えた途端、顔が火で炙られたように熱くなった。
 誤解もいいところだが、誤解ではすまされない行為だ。
『噛め』
 耳元に囁かれる孫策の声が蘇ってくる。
『噛めよ』
 切羽詰った声は途方もない色艶を放っていたが、は呑まれなかった。孫策の指に傷など付けたくないと頑なに拒否し、遂には孫策も諦めたようだった。
 代わりと言うことでもなかろうが、の肩には孫策の歯型が残っている。
 確認したわけではないが、未だにじんじんとした疼痛を伝えてくるから、それなり強く噛みつかれたに違いない。
 怒ったのだろうか。
 当たり前だとも思うが、誤解だとも思うから微妙な心持だ。
 寝台に腰掛けてぼんやり考え事をしていたら、星彩がやってきた。
 食事を持ってきたという。
 が見上げると、星彩は何ら変わりなく微笑み返してくる。本当に、何も変わらない。
 夢でも見たような気分になった。
 子供に着付けるように装束を着付けられ、卓に着いて手を合わせる。星彩も同じように手を合わせていた。
 何でもと同じようにするのだ。
 セックスだけは真似してくれるなよ、と密かに念じた。
 何と言うか、星彩にそんなふしだらな真似はそぐわないような気がしたのだ。自分がやっておいて何だが。
 言い訳するなら、アレは相手が半ば無理矢理にしてくるのであって、自分は何とか抗おうとするも段々気持ちよくなってって訳がわからなくなって
 って、一番駄目じゃん。
 悲しくなった。
 もそもそと食べても、時間を掛ければ食事は終わる。
 綺麗に平らげ、ご馳走様を言い、食後のお茶を淹れようと席を立つが星彩がついてこない。
 おや、と後ろを振り返ると、星彩は墨の仕度をしていた。
「手紙を、お書きになるのでしょう?」
 硯に擦りつけられる墨の音が、耳に心地よく響く。
 お茶を淹れ、卓に戻る頃には星彩も墨を磨り終わっていた。
 真新しい竹簡が目の前に広げられ、さぁどうぞと言わんばかりに墨に筆が添えられた。
「…………」
 何も思い浮かばない。
 書き出しが思いつけば後も続くような気がするのだが、その書き出しがまったく浮かんでこなかった。大好きなサークルに声を掛けてもらったゲスト原稿なのに、何も思い浮かばず真っ白な原稿用紙に向かう感覚に似ていた。時間だけが悪戯に過ぎていくのだ。7時ぐらいだと思ったら11時回ってたりするのだ。嘘ーんとか言ったりするのだ。
「お姉さま?」
 顔を上げると、星彩が困ったように見詰めていた。
「もう、夜も遅いですし…もし何も思い浮かばないのでしたら、明日になさったら如何です?」
 時間を尋ねると、日付変更線を跨ぐぐらいだった。
「岐阜ゥ」
 ろくでもないことを口走るが、星彩に伝わるわけがない。
「ごめん、星彩。ほったらかしで悪かった」
 寝てくれと言うと、星彩はもじもじとし始めた。
「あの、お姉さま。これ……」
 卓の下からとん、と出してきたのは、例の張形だった。
「あの、星彩」
「はい、お姉さま」
「悪いけど、それ、立てて出すのやめてくれる。後、下っ側を両手で持って支えるのもやめてくれる。お願いだから」
 星彩はわからないながらもの言う通り卓の上に寝かせて置き、手を離した。
 先程まで食事をしていた卓に、とんでもないものが置かれている。シュールだった。
「あの、お姉さま。あの、本当に挿るものなのでしょうか」
「何が」
「これが」
 立てるなとも言ったし下側を持つなとも言ったが、両手で恭しく掲げて持つものでもない。
 眩暈を感じて脱力しつつも、はこっくり頷いた。
「本当ですか」
「嘘言ってどうすんの」
「……そうですね」
 星彩がまじまじと張形を見入っているのを見て、は徐々に居た堪れない気持ちになってきた。金属でできたそれは、割合リアルに出来ているのだ。何だか体がむず痒くなる。
「挿るものでしょうか」
「じゃないの」
「……お借りしても、いいですか」
 ひっくり返りそうになった。そんなを、星彩は困ったように見下ろした。
「な、何に使うの何に!」
「え、あの」
 やっぱり今夜もお使いになりますか、と訊ねられるに及び、は自分の疲労値が倍掛けで蓄積されていく気がした。
「挿れるつもりなの!?」
「はい」
 もがー。
 呻く。が、状況は一向に好転しない。
 非処女になる気かと詰ると、星彩は首を傾げた。
「でも、母が」
 星彩も、一旦完成された知識が邪魔をしてどうしても本当のところが理解できないらしい。正すには、もう実践しかないのだろう。
 だろうがしかし、星彩の処女膜を破らせるわけにはいかない。
「〜〜〜〜〜〜〜〜っっっ!!」
 声なき悲鳴を上げ、は椅子を蹴って立ち上がった。星彩が驚くのも尻目に、その手を引き寝室に向かう。
「濡らさないとねっ! 挿んないからねっ!」
 はぁ、とわかったようなわからないような声を出す星彩に、は半泣きだった。

 周瑜がの室に繋がる廊下に出ると、の室の前に孫権が立っているのが見えた。
「仲謀」
 気安く字を呼び捨てると、孫権の肩がびくっと跳ねた。
「何をしている。あの女に何か用か」
「……いえ、その……遅くなってしまいましたし……」
「ちょうどいい。私も、大殿から伝言を預かって参上したのだ。夕刻まで寝ていたというから、まだ起きているだろうし構うまい」
「……と、思いますが……」
 孫権の口は何時になくしどろもどろだ。周瑜は訝しく思いつつ、中を伺った。
 扉の細い隙間から、灯りが漏れている。ならば起きているのだろう。
「周公瑾だ! まだ起きているなら、入るぞ!」
 声掛けた途端に、中からぎゃあっと不可思議な悲鳴が漏れる。
 周瑜が血相を変えて飛び込むと、寝室の方から複数の気配がある。
 孫権ははっとして周瑜を留めようと腕を伸ばすが、間一髪間に合わなかった。
「何を……」
 そこには、牀の上で全裸にかろうじて上着で前を隠すと、に上掛けを被せられている星彩の姿が在った。
 周瑜の顔が、呆気に取られて表情を失くす。
「今っ、今そっち行きますから、外で待ってて下さいっ!!」
 孫権に腕を引かれ、ようやく事態を把握した周瑜の顔が赤く染まる。孫権の顔もまた、赤い。
 兄の言わんとしたことを察した孫権は、言いようのない衝動に体が震えるのを感じた。怒りとも羞恥とも違う感じだった。
 すぐさまが飛び出して来て、二人を遮二無二押し出す。
 押し出されるまま、二人は赤い顔を見合わせ、居心地悪く目を逸らした。

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