は覚束ない足取りを周泰に支えられつつ、自室まで戻ってきた。
 扉の前に立つと、周泰はそこで立ち止まる。ここまで、ということだろう。
 抱き締められただけで達したことに衝撃を受け、訳もわからず泣き出してしまった。
 周泰は、が泣き止むまで一言も口を聞かずに待っていた。膝の上にを抱えたまま、己の衝動をもやり過ごしただじっとが泣き止むのを待っていた。
 面倒な女だ。ただの顔見知りだったら、気分を害して然るべき話だ。
 けれど、周泰は待っていてくれた。が泣き止み、自分勝手に立ち上がり周泰に背を向け歩き出しても、腹もたてずに無言で寄り添い支えてくれた。
 護衛の領分を遥かに越えている。もし誰かに見られたら、恋人同士が睦まじく歩いていると思われたかもしれない。
 が振り返ると、月が逆光となって周泰の顔はよく見えなかった。
 屈んでくる影を避けなければと思うのに、足が動かない。
 口付けは目を閉じるまでもなくすぐに終わった。
「……せ……せっかく……孫権様が……」
 今さっき不問にしてもらったばかりにも関わらず、周泰は四度目の口付けを落とした。意味がわからない。
 孫権の好意ですらむげにするなら、周泰を留められる者はこの世に居ないのではないか。
「……仕方が……ない……」
 何が。
 周泰の言葉は、いつも足りない。
 必要最小限であれと思っているのかもしれないが、にしてみればあまりにも少な過ぎる言葉だった。
 が何故あんなものを埋め込んでいたか、訊こうとは思わないのだろうか。責めようと、詰ろうとは思わないのだろうか。
 抱こうと、思わないのだろうか。
 ぞく、と体の奥がざわめいた。
 どうかしてしまったのだろうかと思う。孫策に滅茶苦茶に突きこまれたのは、昨夜のことなのだ。
 したい、と思った。
 情けなくて涙が浮く。骨の髄まで淫蕩になってしまったのだろうか。
 周泰の大きな手が、の頭を優しく撫でた。
「……お前は……混乱している……休め……」
 混乱の一因は紛れもなく周泰なのだが、頭を撫でられていると徐々に落ち着いてきた。
 ぐすぐすと、子供のように鼻を啜ると、周泰の目がふっと和む。
 扉を開け、の体を押し込むと、周泰はそのまま去っていった。
 涙でひりつく目元を擦りつつ寝台に向かうと、既に人の気配はなく、綺麗に整えられた牀は冷たく冷え切っていた。
 星彩も自室に戻ったのだろうか。
 とんでもないところを、よりにもよって周瑜と孫権に見られてしまったのだから恥ずかしくなっても仕方がない。恥ずかしいだけで済めばいいが、世を儚んでいたらどうしよう。
 心配ではあったが、星彩が首吊りしているところなど想像もつかない。
 うろうろとしていると、卓の上に広げられていた竹簡に何か書いてあるのがわかった。室の中では薄暗くて見えないので、窓を開けて月明かりを頼りに見てみると、帰りが遅くなりそうなので明日出直す旨、星彩からの伝言が書き付けてあった。
 明日来るというなら大丈夫だろう。
 ほっとして窓を閉めると、寝台に潜り込む。
 寒さ故に足を擦り合わせると、足の間が湿っているのに気がついた。
 本当に、体がどうかしてしまったのではないだろうか。
 悩んだ挙句、指を伸ばした。

 朝日が差し込むと同時に星彩がやってきた。
 まだ寝ている頭で、世を儚んでなくて良かったーとぼんやり考える。
 しかし。
「お姉さま、起きて下さい、これから孫権殿と周瑜殿のところに行きましょう」
 何でそうなるの。
 上掛けを引っぺがされ、着ている物をも剥ぎ取られる。朝の冷気で心臓が止まりそうだ。
「なんでーなんでしゅーゆどのんとこいかなきゃいけないのー」
 舌が回らないが、星彩は正確に聞き分けてくれた。
「昨夜の入室、あれはあまりに無礼です。私も気が動転してしまいましたし、格好が格好でしたから苦情も言えませんでしたが、私が居なくなってからもあのような無作法を繰り返されるのでは困ります」
 いい機会だから、きちんと話を着けるのだと星彩は血気盛んだ。
「いそがしーかもしれないよー」
「多忙は口実にしかなりません、苦情と言ってもくどくど申し上げる訳でなし、時間はとらせません。さ、お姉さま。お支度なさって下さい」
 きびきびと動く星彩に、羞恥の面影はまったくない。
「きのーのせーさいはかわいかったのに」
 ぼそりと呟くと、星彩の顔がぼん、と音を立てて赤くなった。
 手の平を広げて顔を覆う星彩に、の寝惚け眼も大きく見開かれる。
「お姉さま!」
 八つ当たり気味に怒鳴られ、は首を竦めた。

 まだ眠いと駄々をこねるを、最早意地になったのか引き摺りながら星彩は足を進めた。
 いきなり君主の血筋に当たるのはまずいと思ったのか、それとも単に近かったからかはわからないが、周瑜の執務室に向かい面会を求める。
 護衛兵は、星彩のきつい眼差しを直に喰らい、泡を食って中に飛び込んでいった。残された方は、見るからに縮み上がっている(首が)。
 しばらくして中から侃々諤々と言い争う声が聞こえ、飛び出してきたのは甘寧だった。
 の姿を認め、驚いた顔をしている。
「待たぬか、甘寧!」
「都督、そんな奴言うだけ無駄ですって…と、噂をすれば影だ」
 後を追いかけ周瑜と凌統が顔を覗かせる。
 影、と周囲を見渡すと、三人の視線はに集まる。が自分を指すと、一様にこっくりと頷いた。
「……何か……」
 首を傾げると、甘寧はふいっと横を向く。
 甘寧がのことで何か持ちかけ、それを周瑜が蹴り飛ばしたので揉めていた、というところだろうか。凌統が居合わせた理由まではわからなかったが。
「……お前を街に連れて行くといって聞かぬのだ」
「端から却下じゃ、納得いかねぇっつってるだけじゃねーか!」
 怒り狂ってるのか、決して目上に対する言葉遣いではない。甘寧の目元が吊り上っていて、怖いはずなのだが何故か胸が高鳴った。
 やばい。
 冷や汗が流れる。やはり、どうかしてしまった気がする。
 まして、甘寧の装束は半裸に近い。剥き出しの腕や胸元に、の頭がくらくらとし始めた。
「せ、星彩、何か取り込み中みたいだし、帰ろう。私、この後孫堅様んとこにも行かなきゃいけないんだよ」
 星彩の顔が、不思議そうに見開かれる。
「では、お支度を……私も、付き添います」
「いや」
 割って入ったのは周瑜だった。
 視線を一斉に浴び、珍しく動揺している。
「……一人で、と念を押されている。すまぬが、君は遠慮して欲しい」
「他国の文官と会うのに、その護衛も人払いなさるとはどういうおつもりですか」
 星彩の言葉は容赦ない。それもそのはずで、武芸の心得もない他国の文官に、君主が前もって人払いを依頼するなど有り得ない。家の主人に来訪者が人払いを依願することさえ特別の事例なのに、来訪者に対して丸腰で来いとは非常識も甚だしい。
 呉の家臣とは言え、凌統も甘寧もこの奇異過ぎる申し出に眉を顰めた。
 ところが、は話の流れがまったくわかってないらしい。
 きょとんとして、何の話だと周りを見渡している。
「いつものことじゃないの?」
 前に来た時もそうだった気がする、と呑気なものだ。
 そもそも、御付の下っ端から正当な外交官へと立場が激変しているにも関わらず、この呑気さは何なのか。
「……あのな。この間はちゃんと、文官なり俺なりが送り届けてやっただろ? 忘れちゃったのかね」
「そうでしたっけ」
 あれ、と首を傾げるに、星彩は毒気を抜かれたのかがっくりと肩を落とした。
「……わかりました。けれど、せめて室の前までは送らせて下さい。その後は……室に下がりますから」
 星彩の譲渡に、周瑜にも否やはない。
 鷹揚に頷くと、星彩がぱっと顔を上げた。
「それから、お姉さまの室に入るのは女官のみにしていただきます。あんな夜更けに土足で踏み込んでくるなんて、非常識にも程があります」
 言うだけ言うと、の手を取ってすたすたと歩き出す。と、きゅきゅっと半回転して戻ってきた。
「孫権様にも、そのようにお伝え下さい」
 そしてまたすたすたと歩き出す。
 主と護衛というより、被保護者と保護者といった塩梅だ。何を思ったか手を振るに、凌統はひらひらと手を振り返してやった。
「……何の話だよ」
 完全にキレたと思しき甘寧が、周瑜に問い詰めに掛かる。
「孫堅様からの伝言を伝えに行っただけだ! 私とて、仕事が終わって室に下がる直前に呼び出されての言伝だったのだ、致し方あるまい!」
「孫権様まで一緒にか!? おかしいじゃねぇか!」
「それは」
 それを言えば、周泰の奇妙な乱行を説明しなければならなくなる。言えなかった。
「……何だよ」
 今更取り繕ったところで甘寧には通用しないだろう。周瑜は腹を決めた。
「言えぬ」
「……おい」
「言えぬと言ったら、言えぬのだ! 甘寧、お前は午前に練兵の予定ではなかったのか、仕度はどうした!」
 周瑜がこうなったら、もう梃子でも動くまい。
 甘寧は歯噛みして周瑜を睨めつけていたが、腹立たしげに足を踏み鳴らして行ってしまった。
 深い溜息を吐く周瑜に、凌統は同情したげに話しかける。
「あんな馬鹿の言うこと、気にしちゃいけませんよ……で、ホントのところはどうなんです?」
「孫策の次の討伐には、お前が付き添うか?」
 肩を竦める凌統に、周瑜は厳しい視線を惜しみなく向ける。
 孫策が戦場に赴き周泰が動き出すことによって、それまで均衡を保っていた何かが一気に崩れようとしている。
 そんな気がして、周瑜はまた一つ溜息を吐いた。

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