星彩に身支度を手伝ってもらい、孫堅の執務室に向かう。久し振りだが、見知った廊下に出れば後の道程は楽なものだった。
 すいすいと迷いもせず廊下を歩くに、星彩の目が不安げに沈む。
「……どうか、した?」
 足取りが重くなり、やや離れた星彩に気付きは足を止めた。
 何でもないと言い掛けた星彩だったが、思い切ったように唇を開く。
「お姉さまは、蜀の、私達のお姉さまですよね?」
 何をかいわんや。
 呆気に取られて星彩を見詰めるに、星彩は恥ずかしそうに俯いた。
「……私、不安です……このままお姉さまが獲られてしまったら……と思うと……」
「ここに一生残ることにはなるかもしれないね」
 あっさりと返すに、星彩の顔が引き攣る。
 は笑い、星彩の手を取って歩き出した。
「大丈夫だよ、何処に居たって、私は『蜀の文官』だから」
 それでは駄目なのだと言ったところで、には伝わるまい。どうして駄目なのか、星彩にもわからなかったのだから。

 星彩を戻らせ、は改めて孫堅の執務室の前に立った。
 護衛も居ない。無用心甚だしいこの室から、それでも圧倒されるような気配を感じる。劉備とは真逆の印象を持つ男だ。気配も恐らく彼が原因に違いない。
 身構えるな、と幾度となく言われてきた。身構えないよう気遣いもされた。
 けれど、やはりどうしても体は硬くなり心はざわめく。
 何故かはわからないが、孫堅に対してはどうしても緊張を緩めることは出来ずに居た。
「失礼致します。蜀の、お呼びにより参りました」
 返事はない。
 声が小さかったかと、もう一度繰り返すがやはり返事はない。
 おや?
 約束の時刻より少し早かったろうか。それでも物凄く早いという時間でもない。
 こういう時は護衛兵が居ないのが不便だ。
 どうしようと左右を見渡すが、生憎誰も通り掛らない。
 仕方なく、もう一度怒鳴るように繰り返すと、扉がすっと開いた。
「蜀のを呼んだ覚えはないぞ」
 微笑を浮かべ、悪戯っぽくを見下ろすのは孫堅その人だった。
 言っていることがわからず、は思わず口を噤んだ。
「……俺が呼んだのは、ただのだ。今一度やり直せ」
「……あのですね」
 最初から聞こえていたに違いない。大の大人が何をしているのか。
 くつくつと笑う孫堅の手が素早くを捕らえ、扉の内側に引き摺り込んだ。
 扉はすぐに閉まり、廊下の影から二人の遣り取りを見守っていた星彩は、困惑した面持ちのまましばらく立ち尽くしていた。

「約定を違えたな。罰だ」
 言うなり、孫堅は軽々とを抱きかかえ、奥に拵えられた小さな室に入った。
 長椅子に腰掛けると、その膝にを乗せて機嫌良く笑っている。
「や、約定って」
「一人で来いと言った筈だ」
 星彩と来ていたのもわかっていたのだろうか。いったい何時から扉に張り付いていたのだろう。
「周瑜殿には、お許しいただいてますよ!?」
「俺は聞いていない」
 さわさわと腿の辺りを撫でられ、の体が過剰反応する。ぴくんと跳ねる肌を、孫堅が見逃す筈もなかった。
「……何だ、もうその気か。策は、お前を可愛がっていかなかったのか」
 可愛がるというかあれはどう考えても合意ではなかったと思うが、とはいらぬことを考えた。
 気が逸れたのも見抜いたのか、孫堅は笑っている。とてもこれから女を抱こうという顔ではない。
「お前は、不思議な女だ」
 を脇に下ろすと、孫堅は背もたれに手を回しての肩に手を置く。暖かな手だった。孫策の手と似ている。
「何故、こうも手に入れたくなるのだろうな」
 んなこと言われても、とは冷や汗を流した。倒れてからずっと顔を合わせていなかったから、それなり久し振りの再会になるのだが、孫堅に変わったところはまったく見られない。倒れていたことすらノーカンにされているような振舞いだ。ひょっとしたら、が気にしないように敢えて態度に出してないのかもしれない。
 ふっと孫堅と目が合った。
 あ。
 まずい、この空気はまずい。
 焦る内心とは裏腹に、体が固まってしまって動けない。
 孫堅の目が、優しく緩んだ。
 や、何でそういう目をするかなっ!
 包み込まれるような優しい目に、鼓動が高鳴るのを止められない。
 唇がわずかに開く。まるで、孫堅を迎え入れるかのようだ。
 違う、そうじゃないし、そんなつもりもないし。
 孫堅の目が閉じる。縁取られた睫が数えられるくらい近い。
 駄目、駄目だって、馬鹿、う、動かないと避けないとっ!!
 さわ。
「うひゃやあぁっ!?」
 びくんっ、と肩どころか腰から派手に浮き上がった。首筋に与えられた柔らかな感触は、の全身を隈なく鳥肌で覆う。
 衝撃から立ち返り、犯人と思しき人物に険しい目を向ける。孫堅は、長椅子の縁に掴まり身を折ってぶるぶる震えている。どう見ても爆笑を堪えている姿だった。
 の顔が、怒りと羞恥で赤く染まる。
 狭い小部屋に甲高い女の怒鳴り声が響き渡った。

 孫堅は、未だに息を荒げて滲む涙を拭っている。
「……そんなに面白かったんですか」
「面白いも何も」
 言うなりまた顔を俯かせてぶるぶると震えだすので、は呆れて物も言えない。
 美しい女官が淹れてくれた茶を啜りつつ、冷たい視線を惜しみなく向けてやった。それが嬉しいのだろうから、遠慮することもない。
 ようやく立ち直った孫堅は、柔和な笑みを浮かべていた。元が整っているだけに、日に焼けた肌と相まって好感を与える。
「……御用は何でしょうか」
 騙されるもんか、と瞳に力を篭めれば、孫堅が微笑み返してくる。の一挙一投足がこの男を楽しませるらしい。
 別にお笑い芸人でもあるまいし、受けが取れればそれでいいという訳ではない。誰かを喜ばせられるのは嬉しいが、孫堅相手に限ればそれも当てはまらない。何をしても言っても腹を抱えて笑われるというのでは、不愉快極まりないというものだ。
 が本気で不機嫌になったと覚ったのか、孫堅はようやく用向きを切り出してきた。
「話と言うのは他でもない、星彩殿が蜀に戻られるに当たり、出立の前夜に宴を催そうと思う」
 それは有り難い話だが、何故が呼び出されるのかがわからない。
「お前が出られるかどうか、直接聞いておこうと思ってな」
 使者や書状で宴に誘えば、断りを入れるのに角が立つ。用向きを伝えず呼び出せば、話の内容は外には漏れないから外聞を気にする必要もない。
 そういうことらしい。
 孫堅の気遣いに、は少し感じ入り、申し訳ない気になった。折角気を配ってくれたのに、無碍な扱いをしてしまった。
「じゃあ、周瑜殿を使者に立てたのも」
 口が固いのもあろうし、孫策に気遣って周囲に漏らすこともない。夜遅くまで職務に励んでいるだろうから、直後に用を申し付ければ時間としても人目に立つことはない。
 そういうことだろうか。
「いや、それは策に嫌がらせしただけだ」
 戻ってきた時に、周瑜なら真っ先に孫策に報告するだろうと思ってと続けられ、は気が遠くなる思いがした。
「……言っときますけど、君主直々のお招きで、護衛も着けずに来いってことで結構顰蹙買ってましたよ。わかっててやったんですか」
「気にもならんな」
 ああ、そうですか。
 疲れを感じて、は眉間の皺をぐりぐりと揉み解した。
「で、どうなのだ。宴には出られそうか」
「で、出るのは出ますけど」
 歌を歌ったり酒を呑んだりしなくてはならないのだろうか。
 疑問を口にすると、孫堅は不思議そうな顔をした。
「当たり前だろう。舞も舞ってもらう心積もりで居たぞ」
「……いや、あれを舞と言うと、踊り子さんに怒られますから」
 宴会芸で覚えた振り付けの他は歌に合わせて適当に動いているだけだから、舞などというおこがましい物ではない。呉の人々は何故かお気に召しておられるようだが、とて酒の力を借りねばあんなタコ踊りを披露しようとは思わない。
 孫堅はただ、俺は好きだがな、と見解を述べるに留まった。
「……まだ、体の調子が思わしくないか」
 孫堅の目に翳りを感じた。
 を気遣って敢えて触れないようにしていたのかもしれない。
「……体の方は、もう何とも。でも」
 この問題は、自身より周りの人間の方が重く受け止めている。が何でもないと振舞っても、周りの人間はそうは見てくれないだろうし、何より何でもないと振舞うに嫌悪を覚える人間が居ないとも限らないだろう。
「……ずっと、という訳にはいくまい?」
 が蜀の文官として赴任してきた以上、呉の人間と関わりなく居られる訳がない。まして伝らしい伝もないが、外交としての仕事をこなそうとすればどうしても宴に出てくる必要がある。他に機会がないからだ。
「そう、ですね」
 自身もわかってはいた。だが、踏ん切りがつかない。冷たい目に晒され揺るぎなくいられる自信という根拠は、未だには備わってない。
「そう……ですよね……」
 俯いたの横顔を、孫堅はじっと見詰める。
「俺の妻に、なるか」
 へ。
 意識が傷のついたレコードを辿る針のように飛び、は目を点にした。
「はい?」
「前から言っていただろう」
「は!?」
 初耳だ。
「そうだったか?」
 孫堅は呑気なものだ。思い出しているかのようにあらぬ方を見ている。
「呉、に、来い、とは、言われたこと、ありますけど……」
 突然のプロポーズに、の心臓は痛みを覚えるほど鼓動を高鳴らせている。口から飛び出しそうな勢いだ。
「そうか。そう言われれば、そうかもしれんな」
 孫堅は一人納得して頷いている。
「で?」
「……で、って……」
 何を言えというのだ。口が戦慄く。汗が噴き出しているのは、決して室が暖かいからではない。
 動揺するの様に、孫堅は声もなく笑う。
「俺の妻になれば、武官だろうが文官だろうが会いたい放題だぞ。無論、よからぬことに及ばぬよう見張りはつけさせてもらうがな」
「いりません!」
 何を言い出すのか。
 悪ふざけにも程がある、とは顔を赤くしながらも眉を吊り上げた。
「おお、見張る必要はないとくるか。お前の貞操を試せと言うのだな」
 にやにやと笑う孫堅に、はからかわれているとはっきり認識した。口を噤んで睨めつけると、孫堅は大袈裟に肩を竦めてみせた。
「そう怒るな」
「じゃあ、何に怒れって言うんですか」
 困った奴だな、と孫堅が嘯き、どちらがですか、とが返す。孫堅は嬉しそうに微笑んだ。
 孫策と共通の遺伝子を感じる。孫策も、が怒って怒鳴ったり一緒に腹を抱えて笑ったりすると異様に嬉しそうな顔をする。
 そういや、この人と一緒に腹を抱えて笑ったことってないなぁ。
 が怒りを忘れて孫堅の顔を見遣ると、孫堅も気がついたようで見返してくる。
「どうした。……策が居なくて寂しいと言うなら、何時でも俺が相手をしてやるぞ」
 無論夜の方もな、といらんことを付け足してくるので、のがなり立てる声がまた響く。
 孫堅は、声を立てて笑った。

 が孫堅の室を出る頃には、なし崩しに宴会の出席と宴会芸の披露が決定されていた。

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