暖かい室の中でしばらく横になっていると、だいぶ復調してきた。
 揺れないのが良かったのかもしれないし、呂蒙が手配した医師からたんと飲まされた苦い薬が良かったのかもしれない。
 何にせよ、は顔色も良くなって、自力で起き上がれるまでに回復した。
「もう動いて良いのか」
 心配そうな呂蒙の声に、は笑顔を見せる。
「はい、お陰さまで」
 痺れたように冷たかった手足も、今ではほこほこと暖かい。これでもかと暖められた室内に居たせいか、汗ばんでいるほどだ。
 また冷えないようにと何重にも上掛けを被せられてから女用の馬車に押し込められ、それをまた星彩がぎゅっと抱き締めての移動になった。
 暖かいのはいいが、星彩の整った美貌と柔らかな弾力に富む肢体をこれ以上はなく間近に感じ、焦るなと言う方がまず無理だ。
 が遠慮しても星彩はまったく引かず、孫堅らが待ち受ける居城に辿り着くまでずっとそんなだった。

 城に着くと、身支度もそこそこ歓迎の宴が開かれた。
 一文官の為のものだから、宴が開かれること自体おかしい。
 そう主張した者が居たのかどうかは定かでないが、宴の規模は極々小規模なものだった。但し、その面子たるや呉の中心人物を総ざらいしたかのような錚々たる顔触れであった。孫堅を筆頭に、孫策、孫権と孫家も揃って顔を連ねている。黄蓋、周瑜といった武官文官も軒並み出席していた。
 つまり、劉備の為の宴の時から蜀の面子を綺麗に外したようなものだ。蜀側の文官が居ない分しか規模が小さくなっていないみたいだとには思えた。
 は当然のように座席の一番奥、孫堅の隣に連れて来られていた。孫堅の後ろには黄蓋が立ち、の後ろには星彩が立っていて、は自分が偉い人にでもなったかのような錯覚を覚えかけた。
 前回と同じくコの字型に配列された席は、孫堅が座る側に孫家の男や周瑜達が並べられ、の側には文官がずらりと並んでいる。
 心なしか嬉しそうな文官達にが目を向けると、何人かは微笑み、何人かは顔を紅くして俯いた。
 以前とは打って変わった手放しの歓待ぶりに、却って気が塞ぐ。単純なのは孫策だけだと思っていたが、ひょっとしたらお国柄なのかもしれない。
 好かれていることは、嫌われることよりも人を滅入らせることがある。は自分は今まさにそれだと感じていた。
 過度の期待と好意をどうやって維持するかと考えると、ただただ憂鬱になった。
 できないではすまされない、しなければならないのだ。
 とりあえず宴が始まり、最初にまず孫堅が立ち上がった。
「皆も心待ちにしていたろうが、ようやく我らが歌姫がお戻り下さった」
 うわぁ。
 孫堅の言葉には引っくり返りそうになり、恐る恐る星彩を振り返る。
 顔は冷静を装っているが、口の端がわずかに引き攣っている。怒っているに違いない。
 ひええ、と呟くと、内心で桑原桑原と呪文のように繰り返した。
 わざとなのか、孫堅は知らぬ振りをして滔々と演説を続ける。
「――また、長旅の疲れもあろうし、体調も芳しくないそうだから今宵の宴はあまり堅苦しくなく執り行いたい。皆も、そのようにな」
 呉の宴で堅苦しいものなどあったろうか。
 は冷や汗をかきつつ、隣の孫堅を見上げた。
 視線に気がついたか、孫堅が振り返ってにっこりと笑う。白い歯が日焼けした肌に良く似合う。
 きらって光った気がするぞ。
 怖ぇ、と引き攣った笑みを浮かべ、はさり気なく視線を逸らした。
 孫策は不貞腐れていたようだが、の視線を受け途端に笑顔に転じた。席が遠いとでも思っていたのかもしれない。まだ孫堅が話をしているというのに手招きするので、苦笑いして応じた。
 孫権は相変わらず背後に周泰を従え、父・孫堅の話に熱心に耳を傾けている。
 周瑜もまた変わらぬ風体で、美しい武人然として居るだけで場が華やぐようだ。
 港で少しとは言え話をした呂蒙や凌統はさておき、姿を見るだけだった甘寧などは、今にもを奪い去りに来そうな雰囲気だった。陸遜もの視線を受けて微笑を浮かべる。
 太史慈に目をやれば、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。再会の喜びを素直に顔に出しているかのようだ。
 末席に陣取る二喬に目を向け、おや、と首を傾げる。
 小喬は弾けるような笑みを浮かべたのに、大喬は暗く沈んだ面持ちでふっと視線を逸らしてしまった。
 何かあったのだろうか。
「良いか、?」
 突然話を振られて、びっくりして目を丸くした。
 孫堅が人の悪い笑みを浮かべてを見詰めている。話を聞いてなかったろう、と、責めるほどではないが苛めに掛かっているのがわかった。
 笑って誤魔化していると、背後に居た星彩が助け舟を出してくれた。
「……歌を、歌ってほしいとのことです」
「歌」
 早速かという思いもあったが、その方がいっそ気が楽だという気もした。この上座は、どうにも居心地が悪くていけない。
「えと、どんな……」
 立ち上がりつつ尋ねると、孫堅はにやりと笑った。
「故郷に帰って、嬉しいと思う歌だ」
 星彩の顔がぴきりと引き攣った。そこでやっとわかった。孫堅は、がぼーっとしていて話を聞いていなかったことを怒っているのではなく、単に星彩に当てこすっているのだ。は自分達のものだ、と主張している。
 思い込みなら恥ずかしいが、困惑して振り返ると孫堅は悪戯する子供のように微かに笑った。やはりそうなのだろう。
 悪戯っぽい笑みを浮かべたその顔が、孫策にとてもよく似ている。
 遺伝子ってホントにあるんだなぁ、と思いつつ、は歌う歌を頭の中で探していた。

 宴も盛り上がり、はトイレに立つ振りをして大喬の席を伺った。
 居ない。
 小喬もいつの間にか姿を消しており、は思わず辺りを見回した。太史慈がそれに気がついて、声を掛けてきた。
「お二方なら、先程もう休むと言って出て行かれたが」
 避けられた。
 何となくそう思った。
 表情が曇ったに、太史慈は小首を傾げる。どうした、と誘い水を向けられているようだ。
 と言って、太史慈に話していいこととも思えない。有耶無耶に誤魔化し、太史慈を座らせると酌をした。
「……そう言えば、伯符……孫策殿から聞いたんですが、私に何か渡したいものがあるとか何とか」
 太史慈は、口に含んだ酒を盛大に噴いた。気管にでも入ってしまったか、激しくむせている。も慌てて後ろに回り、その背を摩ってやった。
 ぜいはぁと息も荒い太史慈だったが、の手を抑えて小さく頷いた。大丈夫だと言っているのだろうが、顔は赤いし涙まで浮いている。
「お水を……」
 の手を、太史慈がきゅっと握り締めた。
 慌てて離し、尚顔を赤くした太史慈に、の胸がどくんと高鳴る。
 まさか、まさかという気持ちがある。
 太史慈までが、そんなまさか。
 意識した瞬間、の顔も赤く染まった。
っ!」
 名を呼ばれ、顔を上げると孫策が不機嫌そうにこちらを睨めつけている。
 太史慈に一礼して孫策の元に向かうと、孫策は自分の膝をに向かってにずいと出し、てしてしと軽く叩いて見せた。
 はぽかんとしている。
 座れと言っているのだろうが、が座るわけがない。前に呉に居た時も、あれほど嫌がって見せたのだから。
 周瑜を筆頭に、誰もがそう考えた。
 さらりと衣擦れの音がする。
「……え、何、違った?」
 慌てて立ち上がろうとするを、一瞬呆けていた孫策が慌てて引き戻した。
「ちっ、違わねぇ、違わねぇ!」
 慌てるあまり、全身の力を篭めて抱きこんだもので、痛みを感じたが悲鳴を上げる。
 我に返った孫策が唐突にぱっと腕を放すものだから、は今度は転げ落ちそうになった。
 ようやく落ち着いて片膝の上に座ったは、訝しげに孫策を見詰める。
「何、ホントどうしたの……どうしたんですか」
 敬語に言い直しても、それと気付ける余裕がまったくない孫策は、ただふるふると頭を振った。
 を支える手の平が汗をかいている。
 具合でも悪いかと心配そうに覗き込むの視線を避け、孫策はらしくもなく口篭っていた。

 が席に戻った後、孫策は宴の間を抜けて庭に向かった。
 こっそり後を着けてきた周瑜が孫策を見つけると、池の水で顔を洗っているところだった。
 汚いとまでは言わないが、綺麗な水だとも言いがたい。
 やめさせようと近寄ると、孫策が突然吠えた。
「……周瑜、俺、マズイ!」
 また顔を洗い出す。まるで獣が行水する勢いだ。
「やめないか、孫策。幾ら君でも、風邪を引くぞ」
 さり気なく失礼なのだが、慣れ親しんだ二人の仲でこの程度の悪口は何と言うこともない。
 孫策は、やはり獣がそうするようにぶるぶると顔を振った。
「マズイ、俺」
「……何がだ、孫策」
 むっと口篭る孫策の眉間に皺が寄っている。
 きっとまたくだらないことで思い悩んでいるのだろうな、と思いつつも、周瑜はじっと孫策が口を開くのを待った。
「俺、あいつのこと、好きになり過ぎる」
 孫策の顔が、かぁっと紅く染まった。あの、孫策が顔を真っ赤にし、恥ずかしげに唇を噛んでいる。
 絶句した。
 再び顔を洗い出した孫策に、しかし周瑜はもう止める気力すらなかった。

 宴の間に戻ると、と星彩は長旅の疲れもあろうからと既に室に返された後だった。
 次いで、勝手に国を抜け出した孫策には罰として山賊討伐の任が命じられた。

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