常日頃は身なりに無頓着なが、今日に限ってああでもないこうでもないと、それは熱心に鏡に見入っている。
 化粧品もそれほど持ち合わせているわけではないから、それほど弄りようもないのだが、虎の子として秘蔵していた口紅を取り出して塗っている辺りなかなか気合が入っていると言えた。
 星彩が複雑な面持ちでを見ていると、くるりと振り返ったがおいでおいでをする。
 何だろうと思いつつ、最愛の姉に呼びつけられた星彩に断る理由はない。足早に駆け寄ると、目の前に座らされた。
「ん、てして。ん、て」
 やはり何なのかわからないまま、星彩は唇を軽く尖らせた。
 ひょっとしたら口付けてくれるのかもしれない、と考えた瞬間、体がじわっと熱くなる。ここ最近、星彩の体は浮き立つように熱を帯びることが多い。
 に触れられたからだろうか、と考えると恥ずかしさと嬉しさがないまぜになった。
 胸の高鳴りは緊張のせいではなく、体の熱は愛しさから、と教えてくれたのはだった。毎夜何かが物足りないと感じていたのは、が足りなかったのだとそれで自覚した。
 夫婦の契りと教えられたことは不完全であり、補う知識をは実践して教えてくれた。嬉しかった。身の内から沸き立つ悦は、昂ぶれば昂ぶるほどへの思慕を募らせた。
 劉禅の妻になることに微塵の嫌悪もない。それでも自分が一番愛しいのはだと思った。
 夫としてお迎えするのは劉禅様。心からお慕いしているのはお姉さま。
 星彩の中で、二人への思慕はまったく別物なのだ。
 頬にの指が添えられ、勢い目を閉じると、唇にしっとりとした感触がある。
 けれど温もりはない。どちらかと言うと冷たい感触だった。
 星彩が目を開けると、が満足そうに微笑んでいる。
「グロスをね、ちょっとね、塗ったの」
 鏡を見せられる。
 の持つ鏡は、小さいけれどそこら辺の銅鏡など比べ物にならないほどよく映る。と共に在った星彩は、この鏡を見るのは初めてではない。だがしかし、自分の唇が艶やかに輝いているのを見て、油でも塗られたのかと眉を顰めた。
「……嫌かなぁ。そんな多く塗ったわけじゃないんだけど」
 似合うと思うけど、嫌だったらとが手巾を差し出したのを見て、星彩は謹んでその手巾をに押し返す。
「お姉さまがそう言うのなら」
「でも、嫌ならホントに落としていいんだよ」
 星彩はふるふると首を振った。
 の言葉が絶対だ。例え万人が否と言っても、が正しいに決まっている。は自身の都合で無理強いをする人ではないからだ。
 絶対の信頼を惜しみなく捧げる星彩に、はほんの少し苦笑いをした。

 広間に案内され、入り口に立ったは足を止めた。
 宴の主人公である星彩は前に居たが、気配を察してすぐに足を止める。
「どうかなさったのですか、お姉さま」
「う、いや、ちょっと待ってね」
 言うなり深呼吸を繰り返すに、星彩はがどれだけ緊張しているかを感じ、痛ましく思った。
 無理矢理にでも連れて帰ってしまいたい。
 外交の重荷など背負うべき人ではないのに、と星彩は涙ぐむ。
 自由に歌い、舞い、笑っているのが一番相応しい。
 その為になら何だってするのに、と考えると、星彩は自分の無力を呪いたくなった。
「……うし、気合充填! 行こう、星彩」
 笑いかけるの顔が引き攣っているように見える。
「お姉さま」
 蜀へ、帰りましょう。
 言いかけた言葉は、喉元に引っかかったまま声になってくれなかった。が不思議そうに星彩を見詰めている。
 好きだといったら好きだと答えてくれるだろう。けれど、帰ろうと言っても帰るとは言ってくれないに違いない。が一番大切にしているのは蜀という国なのだから。
 競いようがない。
 はぁ、と溜息を吐く星彩に、は心配そうに手巾を差し出した。
「無理しなくていいよ、嫌だったら取っちゃって」
 ぐろすのことを気にしているのだと思ったらしい。
 お姉さまったら、本当に気がまわらない方なのだから。
 でもそこが愛しいと思ってしまい、星彩は自分が男でないことに何度目かの嫌悪を抱いた。

 と星彩が連れ立って入ると、場の空気にうねりを感じる。
 肌がざわめき、異質な物が紛れ込んだと警鐘を鳴らしているかのようだった。
 星彩が一歩前に進み、孫堅に礼を取る。
「今宵は私の出立に際し宴を催していただけるとのこと、ご招待に預かり厚かましくも参上した次第です」
 浮かべた微笑に似合わぬ物固い挨拶に、孫堅は苦笑を浮かべて立ち上がる。
「固いことは抜きだ、今宵は楽しまれよ。さあ、こちらへ」
 言葉の内容の割に孫堅の返事もまた堅苦しい。と二人で居る時とは段違いだ。
 何だかな、と首を傾げると、孫堅が目敏く気付いてにやりと笑った。
 歌えってんだろ、わかってるわい、とは投槍に席へと進む。
 ちくちくとした感触は、恐らく気のせいではない。皆、星彩ではなくを見ている。
 あんなことがなければ場の注目は星彩にのみ集まるに違いない。美女よりも醜聞の方が人の気を引くのだなと、は憂鬱になった。
 星彩が孫堅の隣に着き、はその隣に座す。
 前回と同じように、文官達が居並ぶ列だ。しかしその目は微妙な色に転じていた。
 見渡すのも気が引けて、は視線を卓に落とす。
 宴が始まり、空々しい笑い声がそこここで上がった。
 星彩は酒を控え、それも座を盛り下げる要因になっていた。情の濃い気質である呉では、酒を酌み交わすのが何よりの親交の証となる。細身の娘だから致し方あるまいと呉勢も大目に見てくれたのだが、代わりにに杯を勧める訳にもいかず、場を盛り上げようもなく白けた空気が流れていた。
 卓の下でそっと手を握られ、は俯いた視線をわずかに上げた。
 星彩が微笑んでいる。直に終わるから、我慢しましょうと語りかけているかのようだ。
 艶やかな唇が、微笑むと尚彩り豊かに輝く。
 やっぱり似合ってるや、とが笑うと、星彩は微笑みながらそっと手を離した。
 意識がに向かっていた隙を突かれた、と星彩は後で悔やむことになる。
 いつの間にか面前には甘寧が立っており、当然だというようにを抱え上げた。
「へ」
 間抜けた声を上げるを、甘寧はそのまま自席にお持ち帰りしてしまった。星彩が止める間もない。
「椅子だ、椅子」
 嬉しげにの椅子を言いつけ、まず自分が温めていた席に座らせると、甘寧はその背もたれに寄りかかるようにしてを見下ろす。
「もう、いいんだろ?」
 困惑するを他所に、自分の杯を握らせ酒を注ぐ。
「甘寧殿」
 呂蒙を挟んで腰掛けていた陸遜が、堪えきれずに声掛けてきた。咎め立てるような声色に、甘寧の目が険しく細められる。
「やらねーぞ。お前ぇはおっさんと小難しい話でもしてな」
 再びをひょいと抱え上げると、今度は自分の膝の上に座らせてしまう。無論、横抱きにして陸遜には背を向けるようにする嫌がらせも忘れない。
 威嚇するように唸った陸遜を面白げに見遣り、甘寧は上目遣いにを見上げた。
 戸惑っていたが、ちびりと酒に口をつけると椅子が届けられる。
 しかし甘寧はを膝に抱えたままで、椅子には見向きもしない。
「甘寧殿! あまりに無作法ではありませんか!」
「……そうか?」
 陸遜には見向きもせず、に訊ねてくる。訊ねられても、はいともいいえとも言い難い。
 仕方なく酒をちびりと煽り、返答を誤魔化した。
 甘寧は得意げに陸遜を振り返り、にっと笑ってみせる。
 陸遜の殺気が背中越しに伝わってくるが、には何ともしようがない。またちびりと呑る。

 甘寧はの呑み掛けを取り上げると、そのまま勢い良くぐっと煽った。
 セクハラ親父か。
 呆れて見入るだけのに、陸遜は我慢の限界を来たして椅子を蹴って立ち上がる。
殿っ、そこは怒るところですよ!」
「はぁ」
 誤魔化す為の酒は甘寧が取り上げてしまったので、は仕方なく生返事を返す。
、ほれ」
 甘寧は自分が口を付けた呑み口を拭いもせず、再度酒を満たした杯をに握らせようとする。
 何が楽しいんだか知れないが、と思いながら杯を手にすると、体がひょいと浮き上がった。
 周泰だった。
 寡黙な武人は何も言わぬままを甘寧の隣の椅子に下ろし、そのまま孫権の背後へと戻った。
「……おい」
 黙って見ていた甘寧が、眉を吊り上げてを睨めつける。
 されるがままだったの頬が赤く染まり、何とも言えない恥じらいを浮かべていた。
「……う?」
 甘寧の視線におたつくに、甘寧はぐっと顔を寄せる。
 背筋を逸らしてかわすものの、の赤面は引く気配もない。
 秘密めいた匂いを嗅ぎ付け、本当に鼻を鳴らす甘寧に、の顔はますます赤くなる。
「な、何、です?」
「……お前ぇ、周泰と何があった」
 率直な追求に、はぐうの音も出ない。まさか自分の股間に突きこまれていた張形に感付かれ、引っこ抜かれましたなどとは到底言えたものではない。強姦されましたと言った方がまだマシだ。
 言わないが。
「ない、です、何にも」
「嘘吐け」
 避けるのも限界のに、甘寧は容赦なく身を乗り出す。は体を反らせているが、甘寧はただ前に乗り出せばいいのだからどちらが有利かは一目瞭然だ。
 周囲の目は興味津々で、誰も助け舟を出そうとはしない―ようだった、が。
「にゃーんとぉっ!」
 ごす、と鉄拳を繰り出し甘寧を退治する小喬の傍らから、大喬がささっと飛び出しの手を引く。
 突如現れた救世主に、は目を白黒とさせる。
「すみません大姐、もっと早くにお助けするべきでした」
 末席の安全圏にを連れ出すと、大喬は腕を広げてを庇うように立つ。
 小喬も反撃を食らう前にすたこらと逃げ戻り、の隣にちょこんと座る。
「何か大姐が楽しかったらイヤだなって思ったんだけど、あたし達と一緒のが楽しーよ、ね?」
 ね、と畳み込み、にっこりと笑う小喬に、もおずおずながらも微笑み返す。
「人の頭ど突き回した挙句に言う台詞がソレかよっ!? 売られた喧嘩は買うぞコラァッ!」
 甘寧が卓に足を掛けて熱り立ち、腰掛けたまま空咳を続ける周瑜を無視して怒鳴る。
「イーッだ、大姐にべたべた触るからよーっだ!」
 年頃の娘がはしたなくも舌を出し、顔の皮を摘んで滑稽に嘲う。飛びかかろうとする甘寧を呂蒙が取り押さえ、凌統がぽそっと嫌味を言って火を煽る。
 騒然としだした宴の間で、が声を立てて笑った。
 二喬に挟まれ笑っているは気がつかなかったが、途端に宴の間は緩やかな空気に包まれ、強張っていた文官達の顔も一斉に和んだ。
 悪しき感情は既に消え去り、誰もがの心が平らかであれと願っていたのだと知らされる。
 私のお姉さまなのに。
 星彩は、そっと唇を噛み締めた。
 を連れ帰れない以上、少しでも安寧にと望む気持ちも真実だ。だが、居心地が良過ぎて蜀のことを、星彩のことを忘れられるかもしれないと思うと逆に胸が痛かった。
 そんな星彩を、孫堅は盗み見ている。
 これ程を慕っている娘は早々居るまい、と思いながらも、悪戯めいた笑みを押さえることは出来なかった。
 悪いが、は俺達のものだ。
 と星彩の永劫の別れになるだろう出航が今から待ち遠しく、孫堅は思わず零れる笑みを杯を煽ることで誤魔化した。

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