俯いていた星彩が人の気配に顔を上げれば、が笑って立っていた。
 何気なく星彩の隣に戻ってくると、星彩に杯を握らせ注いでしまう。
「お姉さま、私は……」
 先程呉の武官や文官の勧めを断ってしまった以上、酒に口を付ける訳にはいかない。
 しかしは胸を張り、『呑め』と厳命してきた。
「私の酒が、呑めないって言うの!」
 張飛並に横暴な言葉だが、言っている本人の顔が柔らかに崩れているから怖くも何ともない。が、却って断り辛く、星彩は仕方なく酒に口を付けた。
「そうそう、上手上手」
 茶化すようなの素振りに、星彩の頬が染まる。
「お姉さま」
「あい?」
「子供では、ないのですから」
 星彩の言葉に、は薄く微笑むだけだった。物言いたげな笑みに尻の座りが悪くなる。
 もじもじとする星彩の手を引き立ち上がらせると、は星彩に酒瓶を持たせ孫堅の前に立った。
「星彩、お酌お酌」
 通常、宴の主役たる者が自ら腰を上げて酌をしてまわるなど聞いたこともない。主役とはあくまで歓待される側であり、上座にある以上酌はされてもしないのが極当然だ。
 呉の武官文官も驚いているようだが、は気にした様子もない。多少酔っているのもあるのだろうが、それにしても意図が読めない。
 孫堅も一瞬驚きはしたものの、黙って杯を差し出した。こうなれば酌をする他ない。星彩は、不承不承ながら孫堅の杯を酒で満たした。
「有難く頂戴する」
「自慢の娘の酌ですから、味わって飲んで下さいね。もう、こんな機会は二度とないですからっ!」
 孫堅が取り繕ったように礼を言っているのにも関わらず、はにっこり笑ってとんでもないことを言う。突っ込みどころが多過ぎて、何から突っ込んでいいか見当もつかない。
 戸惑う星彩を引き連れ、は次の獲物の元へと急ぐ。
 辿り着いた先は孫権の席だった。
「お酌に来ましたー」
 あくまで明るいの声に、孫権も戸惑っている。同情したような視線を星彩に送るので、星彩も恥ずかしくなって肩を竦めた。
 星彩が酌をしていると、は孫権に周泰にも酌を、と持ちかけてきた。
「一口だけでも」
 ね、と星彩を振り返るが、星彩は別に酌が出来なくても構わない訳で、返事のしようがない。
 見るに見かねて、と言った態で孫権が周泰に命じて酌を受けさせた。
 長身の寡黙な武人は、星彩の酌を受けながらもを見ている。星彩の胸に不安が過ぎった。熱の篭った三白眼は凶相を思わせ、いつかの身に仇なすのではないかとさえ思えた。
 は別の方を見ていたが、意識は強烈に周泰に向いているのがわかる。二人の間に何があったのかはわからないが、星彩は周泰を好きになれそうにないと感じていた。
 杯に満ちた酒を、周泰は水のように飲み干す。どれだけ強いのかしれない。
「有難うございました」
 が頭を下げるが、何に対して下げているのか判然としない。酌をしてやったのはこちらなのに、と星彩は眉を寄せた。
 けれど、は笑ってみせる。次だ次だと、無邪気に笑っている。星彩はただ従うしかなかった。
 孫権の次は周瑜だった。間に周泰を挟んでいるから、最早順番などないのだろう。席の並び順なのだと知れた。
「……何を考えている」
 渋い顔で星彩の酌を受けながら、周瑜はを睨めつけた。
 何がです、ときょとんとしているに、周瑜は溜息を吐きつつも宴の主役が酌をしてまわるなど聞いたことがないと説明してやった。
 の『きょとん』に更に拍車が掛かる。
「そんな決まりがあるんですか」
 決まりと言うわけではない。古くからの慣習に近い、だがそれだけに誰もやらないことなだけだ。
「じゃあ、別にいいですよね?」
 は星彩を振り返り、ね、と同意を促す。鈍い反応に、は首を傾げた。
「だって、星彩は明日でもう蜀に帰っちゃうんだから。もうこんな風にお酒を酌み交わすなんて機会はないかもしれないし」
 場の空気に、冷たい何かが混じった。
 それはどういう意味なのか、と誰もがの本心を伺う。
 しかしはあっさりと言い放った。
「星彩、お嫁に行っちゃったらもう呉の宴に出ることなんてなくなるでしょ?」
 それはそうだ、と誰もが納得するような、何の含みもてらいもない言葉だった。それが証拠に、の目には欠片の動揺も見られない。
 確かに星彩が誰ぞの正夫人に納まってしまえば、このような宴の場に顔を出すことはなくなる。大喬小喬がこの宴に顔を出しているのは、あくまで自国の宴であるからで、これが他国から招かれての宴となればまず顔を出すことはない。
 とは言え、『こんな機会は二度とない』『酒を酌み交わす機会はない』と言った言葉から連想されるのは両国の戦に他ならない。本人は己の言ったことの重さに気がついていないのか、淡々と言葉を綴る。
「一期一会って言ってね、今ここで会えた人とは一生に一回しか会えないかもしれないから、その時その時心残りのないようにしましょうって言葉があるのね」
 初めて聞く言葉だった。
 星彩がそう言うと、は笑って自分の国の言葉だから、と告げた。
 その言葉は、星彩の胸に小さな棘となって刺さった。
 お姉さまの国は、蜀ではないのですか。
 問い掛けたい衝動は強かったが、この場で訊くことは叶わなかった。呉の面前で、の口から『否』と言われることは耐えがたかった。
 は素知らぬ振りで話を続ける。
「星彩にとっても、この宴が一期一会かもしれないから。私に付き添っててくれたから、星彩あんまり呉の人と話できなかったもんね」
 多大な誤解だ。
 星彩は呉の人間と話したいと望んだことはない。ただの傍にいて、と語らっていればそれで満足だった。呉にを行かせること自体、を残して蜀に戻らねばならないこと自体が星彩にとっては納得しがたい現実なのだ。
 だがしかし、蜀での宴でに声を掛けることがなければ、見舞いの時にが外出の話をしてくれなければ、こうしてを姉と慕い呉まで赴くことはなかっただろう。
 そういう意味では、星彩にとっても一期一会の言葉は重く尊いものだった。いつか、こうして酌をした相手と戦場で見えるかもしれない。その時に、出来得るならば共に馬首を並べて戦う友であれば良い。再び酌をし、酌を受ける仲であれば良い。
 これがの外交なのだと、星彩は初めて覚った。
 ならば、星彩に否はない。
「……お姉さまを、よろしくお願いいたします」
 笑みを浮かべ、頭を下げる。
 周瑜が泡を食って、口の中でごにょごにょと返すのが可笑しかった。
 が星彩の手を引き、次だ次だと笑う。星彩も応え、笑みを浮かべて連れて行かれる。和やかな空気が宴を包んだ。
、こっちまだかよ!」
「まーだー!」
 焦れた風な甘寧がを催促し、は幼子を叱り付けるように『めっ』と顔を顰めた。笑いが起こる。
 宴の和やかさとは別に、孫堅の顔は渋い。黄蓋にそれとなく注意されるほどだ。
 星彩が去れば何とでもなると思っていたのが、どうも当てが外れそうに思えた。難攻不落の方が落とし甲斐はあるが、それにしても強固な砦だと、孫堅は改めての攻略法を考え直すことにした。

 宴が済めば、皆和やかな顔をして席を立つ。
 孫堅を見送った後、も星彩を促し席を立つ。結局歌は歌わなかったな、と思っていたのを見抜かれたかどうかはわからないが、年若の文官が一人、すすっとの元にやってきた。
「今度、是非我が屋敷の宴にもおいで下されませ。歓待いたします」
 不意を突かれて目を丸くしていたも、話の内容を理解した瞬間飛び上がらんばかりに喜んだ。
「はい、是非! お声掛けていただいて、ホントに有難うございます!」
 それを遠巻きに見ていた武官文官も、の返事を聞いた瞬間殺到してきた。あまりの勢いに星彩が前に出てを庇ったほどである。
「わしの屋敷にもおいで下さらんかな」
「いや、是非わしの屋敷に」
「いやいや、まずは私の屋敷にて」
「当家には、殿と年頃の同じ娘が居りますゆえ、是非に」
「我が屋敷は自慢の梅の木が」
 一遍に誘いがかかるもので、は星彩の背に庇われたままうろたえるばかりだ。
「あーあ、そら御覧なさい。こうなると思ったんですよ、俺は」
 傍らで渋面を浮かべる周瑜に、凌統はわざとらしく非難の声を上げる。
「……護衛兵を倍つける、それで事は足りよう」
「本当に? ホントにそれで足りますかねぇ?」
 長身を折り曲げ、わざわざ下から見上げる凌統のいやらしさに周瑜は眉を顰める。
「だからと言って、将軍職にある者をわざわざ他国の一文官の護衛に付けられるか!」
 声は小さいが、怒り狂っている。おっかなかったが、努めて冷静な周瑜のことだから、怒り狂っていてくれた方が実は交渉しやすいのだ。
「そうは仰いますが、前回だって俺が護衛していたわけですからね。向こうさんはこちらを全面信用して、孫堅様の仰るままあの女一人を寄越したわけですし、これで何かあったらそれこそ一大事じゃありませんか」
 前回、という言葉に力を篭める。周瑜の副官がを狙った件を匂わせたのだ。
 周瑜の眉が吊り上がる。
 整った美麗な眼差しは、それだけで魂が凍りつきそうな冷たさを孕んでいたが、凌統は笑みを浮かべて余裕を取り繕う。
 しばらく無言の対峙が続いていたが、周瑜の溜息で突然途切れた。
「何事かあれば、貴様の首を飛ばすぞ」
 冗談など言っていないとあからさまにわかる言葉に、凌統は首筋に冷たいものを感じて思わず手を当てた。
「……全力を尽くします」
 それでも辞退せずにしゃあしゃあと護衛の任を承る凌統に、周瑜は惜しみなく白い目を向ける。
 凌統はにやりと笑い、拱手の礼を取ると広間を去った。
 その足がわずかに浮き足立っているのを見て、周瑜は更に頭痛を覚えるのだった。

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