星彩の乗った船が往く。
 水面に映る影さえ見えなくなるまで、はじっとそれを見送っていた。
 両脇にぴったりと寄り添う気配を感じる。二喬だった。遊んでくれるのを待つ子犬のように、黙ったままを見上げている。
 虎の一族のはずなんだけどねぇ。
 にしてみると、呉と言う国は猫科と言うより犬科に近い気がする。統率の良さといい、敵に対する態度、腹を割った後の無邪気さが実にそぐっているような気がした。
 に、と笑いかけると、二人の顔もぱっと綻ぶ。
「大姐」
「大姐!」
「はい、何ですか」
 きゃあっ、と湧き上がる歓声と共に、二喬が腕にぶら下がってきた。
「大姐」
「大姐!」
「はい、だから、何です?」
 問い掛けても、二人からの返事はない。ただにこにことして『大姐』を繰り返すだけだ。
 星彩からを取り戻せたことが、異様に嬉しいらしい。
 何でまたそんなに嬉しいかはにはわからなかったが、飛び切りの笑顔でぴっとりくっついてくる二人はとても可愛らしかった。
「……戻って、お茶でも飲みますか」
 また歓声が上がり、二人に引っ張られるようにして歩き出す。元気が有り余っている犬の散歩をしている気分になった。
 背後を振り返っても、もう船の影は何処にも見えない。
 星彩に託した手紙が、蜀で待つ彼らに痛みを与えなければいいなと思った。

 の室に入ると、茶器は既に調えられていた。
 ふと、これに毒が入っていたら、自分などはあっさり死ぬのだろうな、と考える。
 星彩が蜀に帰り、一人きりという自覚が出てきたのかもしれない。
 脇から小喬がひょっこり顔を出したが、が手にしている茶が粉茶だと知れるとがっかりしたのを隠さない。
 一般的には粉茶が普及していたが、二喬が目を輝かせる得意の茶の淹れ方は粉茶では披露できない。高い位置から湯を注ぎ込む手管では、茶器の底にある粉茶を吹き飛ばしてしまう恐れがあるからだ。
「これも、ちょっと癖はあるけど美味しいお茶ですよ」
「でもぉ」
 ぶー、とむくれる小喬の肩を押し、湯を注いだ粉茶を卓に持っていく。少し濃い目の色をした茶は、香りも高く口に含んだ時の苦味も慣れてしまえば癖になる。
 そっと口に含んだ大喬も、少し小首を傾げはしたものの二口三口と重ねていく内にだいぶ慣れたようだ。
「本当ですね、少し癖がありますけど……体が温まってきた気がします」
 小喬は渋々一口含んで、思い切り眉を顰めた。
「えー、コレお薬湯じゃないの?」
 そう言われれば、不思議に甘く香る微かな湯気は薬湯を連想させなくもない。
「……どうなんでしょう、私も用意していただいているのを、そのまんまいただいちゃってるだけなんで……」
「薬湯だよ、絶対そうだよ! あたしはコレちょっと駄目ー」
 へにょりと卓に顔を伏せる小喬は、無作法を姉に叱られて更に口をへの字に曲げた。
 は茶碗の中の濃い色をした液体をじっと見詰めた。薬湯と言われればその通りの味だ。薬と言えば薬局で売っているような錠剤に慣れきったにはイマイチ実感がなかったが、仮にも薬であれば二喬に飲ませるのは良くない気がした。
「……一応、止めておきましょうか。どういうお茶かはっきりしないと、私もちょっと不安ですし」
「わ、私は全然平気ですよ?」
 大喬はを気遣ってか湯飲みを手元に引き寄せるが、は笑って取り上げた。
「薬に慣れちゃうと、それだけ効き目も薄くなるし、何より体の治ろうって力を弱らせちゃいますからね。用心に越したことはないですよ」
 しかし、そうなると出せるものがない。
 が蜀から持ち込んだものといえば、着替えや身の回りの品と姜維が持たせてくれた干果、幾許かの金くらいだ。干果はいいが、これを食べると微妙に喉が渇くので、はだが、茶がないと食べられない。主が手をつけなければ行儀のいい大喬は手をつけないだろうし、そうなると小喬も手をつけないだろう。
「……買ってきてもらうわけには行きませんよねぇ」
 孫堅の願いもあり、には手持ちの兵も護衛もいない。居たとしても無闇に町に降りられるはずもないから、ちょっと買い物、と頼むわけにもいくまい。
「私の室にいらっしゃいますか?」
 大喬の申し出により、好意に甘えて移動することになった。
 の執務を気に掛けてくれたが、実際のところにやるような仕事はない。呉の武官文官と交わりを深めて来いとしか言われていないし、尚香に送る『お話』の竹簡は星彩に託したからもうしばらくは何もしないでいい。二喬と交流するのも交わりを深めることには違いないから、これも仕事だ。
「わぁ、やったぁ!」
 説明すると、小喬は飛び上がって喜んだが大喬は複雑な面持ちになってしまった。
 あまりを大勢の人と会わせたくない、と正直に申し出てきた。小喬は何の話かわからないらしく、不思議そうに姉を見詰める。
「だって、あんまり大勢の人に大姐が好きになられるの、困るわ」
「どうして?」
 小喬の問い掛けはあくまで無邪気だ。自分の好きなが、他の人にも好かれるのは嬉しいことだと思っているらしい。
 大喬は言いにくそうに口を噤んでいたが、ふと手を伸ばしての手を握り締めた。
 篭められる手の力に、大喬の不安が映っている。
「大姐は、誰にでも優しくされるから、その人が大姐を独り占めしたくなるんじゃないかって、私不安なんです……」
 大喬の願いは、自分と共にに孫策を支えて欲しい、というものだ。孫策の目が一人に注がれるのを見て、醜い嫉妬を抱いたのはつい先日のことで、罰を当てられるようにの子供が死んだという報を届けられた。
 そうして、泣いて、考えて、やはり自分はが好きで、となら共に居られると改めて感じた。醜い気持ちも、ならきっと理解を示し一緒に考えてくれる。
 けれど孫策が熱を抱くように、同じようにを好きになる人が現れたらどうしよう、と不安になった。
 まさしく星彩がそのいい例だった。冷たい目を周囲に向け、の周りに誰も近寄らせないように背に庇う。あからさまに一人が星彩のすべてなのだと誇示するかのような態度に、辟易としたものは少なくない。
 その気持ちでさえ、実はの傍に居られる星彩に対してのやっかみが多大に含まれているのを大喬は知っている。
 心を穏やかにしてくれるが、同時に刺々しくもするのがと言う人なのだ。それが自身の罪ではない、としてもだ。
 の心を独り占めしたいと、に危害を加えようとする者が現れるかもしれない。
 の瞳を独り占めしたいと、の愛するものを傷つける者が現れるかもしれない。
 想像で終わらない予感が、大喬を脅かしていた。
 けれど。
「そんな馬鹿な」
 けろりとして言い放つに、大喬は苦笑する。
「馬鹿な、じゃありませんよ大姐。特に、お戻りになってからの大姐は本当にお綺麗で」
 大喬が説教に入ろうとした途端、が盛大に吹き出した。
「お、お綺麗って、そんなそんな!」
 げらげらと笑い出す。
 ちっとも自覚がないのだ、と大喬は呆れた。
 やつれた訳でなくほっそりとした感のあるは、何処か翳を宿して粛々とした空気を纏っている。綺麗というと確かに語弊があるかもしれないが、それでも大喬にしてみれば他に言いようがなかった。
 これが甘寧あたりなら、グッと来る、とでも言い表したかもしれない。
 造作云々でなく、雰囲気から人を惹き付けると言った方が近い、それは不思議な魅力だった。
 触れたくはなかったが、やはり生まれてこなかった子が残した母の面影がをそんな風に見せるのかもしれない。
 特に荒くれ者の多い呉の武人達には、今のの美しさは眩く映るに違いない。母親と言うものに弱い気質が見受けられるからだ。
 大喬は背筋に悪寒を感じて身を竦ませた。
 何が何でもには孫策のところに来て欲しい。他の人と並ぶのは絶対に嫌、考えたくもない。
 思い込んだらまるで他に道はないように思い込む。
 花の二喬と謳われる大喬も、やはり年頃の娘の一人なのだった。
「……あぁ、居た居た。探したっつの」
 廊下の向こう側から声が掛かり、三人がそちらを向けば気安く手を掲げる凌統の姿があった。
 二喬には、ども、と軽く拱手の礼を取り、に向き直る。
「今日から、俺があんたの護衛に付くことになったから。よろしく」
「えー!!」
 真っ先に不平を漏らしたのは小喬だった。
「どうして凌統様なのっ! 大姐の護衛なら、あたしがなるのにぃっ!」
「さーぁ、どうしてでしょうねぇ。前回も護衛に任じられたから、そのせいってとこじゃないですか」
 詳しいことは俺にもわかりませんよ、と凌統は肩を竦めた。
「何なら、周瑜様に伺ってみたら如何です。今回任じられたのは、都督殿からですからね」
 周瑜の名を出された途端、小喬は怯んで口を閉ざした。愛する夫と言うだけでなく、呉での周瑜の命はある意味絶対なのだ。年かさの将でさえ、周瑜の命に逆らう者はいない。これまでの成果と経歴が周瑜の命を強力に擁護しているだけに、誰も何も言えないのだ。
「……さて、じゃあ本日は如何いたしますかね」
 大袈裟に手を広げ、を茶化す凌統に、は眉を顰める。
「つか……これから大喬殿のとこ行って、おしゃべ……お話しするだけですから、特に予定は……」
 ふ、と口篭り、上目遣いに凌統を伺う。
「……何」
「う、あの、今日でなくてもいいんですけど……買い物したいんですが、それってどうすれば……」
 意外な申し出に、凌統は目を丸くした。前髪をかき上げ、少し考えるように視線を彷徨わせる。
「とりあえず、許可申請だけでも出してみるさ。大喬殿のとこから戻ったら、自分の室で待っててくれないか。後で行くから」
 付いて来ないのか。
 の顔からそれと察したらしく、凌統は肩を竦めた。
「どうせ俺はお邪魔扱いだろうしねぇ。それに、俺もそれほど暇じゃないっつの」
 三人を避けて届けを出しに向かう凌統の背に、小喬が喚きたてた。
「あ、あたし達も行きたーい! いいでしょ?」
 凌統は首だけ振り向いて、駄目デス、と軽く切り捨てた。
「何でよー!」
「二喬連れじゃ、さすがに目立ち過ぎるでしょう。あんまり要らん騒ぎを起こしたくないんですよ」
 理屈は正しいので、小喬は頬を膨らませて不満を表すに留めた。
 背中を向けた凌統が、やたら機嫌良くにこにこしているのを見たら、それだけでは済まなかったかもしれない。

← 戻る ・ 進む →

Arrange INDEXへ →
TAROTシリーズ分岐へ →