が室に戻ると、凌統は室の前にある手すりに腰を降ろして待っていた。
「中で待ってればいいのに」
「さすがにそういうわけにも行かないっつの」
 が扉を開けようとすると、凌統が手招きする。
「別に、そのままでも構わないだろ?」
「って、え? もう許可出たの? ってことです?」
 凌統にはだいぶ打ち解けたせいか、気安いタメ口を聞いてしまう。
 慌てて直すに、凌統は呆れたように苦笑いを浮かべるが、何も言わずに先立って歩き始めた。
「許可って、孫堅様にもらったの? ですか?」
「うんにゃ、周瑜殿にさ」
「よく許しもらえましたね!」
 の声が引っくり返る。それだけ意外だったらしい。
 周瑜もいくらか態度を軟化させてはいるが、城ほど安全な場所はない以上そこからを出したいと思うわけがない。
 凌統も、否定こそしたが結局は孫堅が裏から手を回したのだろうと思う。
 あっさりと降りた許可に肩透かしを食った形で退室しようとする凌統に、周瑜は何気なさを装って孫堅にこの話をしたのか確認を取ってきたからだ。
 ご機嫌取り兼ねていの一番に周瑜の元に参じたので、正直に申し立て否定した。
 そうか、と軽く流した周瑜の眉間にくっきり皺が浮いていたのを凌統は盗み見ている。美周郎の名も高い周瑜だったから、そんな嫌悪の顔も様になるといえばなるのだが、あれでは神経がもたないだろう。孫権はともかく、孫堅孫策の二人と来たらわがまま好き勝手を通し、それがまた上手い方向に転がってしまうのだから周瑜のような秀才にはたまらないだろう。
 世の中は不公平なのだ。
 足を緩めてを振り返ると、何、というように小首を傾げて凌統を見上げてくる。
 孫策がこの女と真っ先に出会ったのも運だろうし、抱きはしても物に出来ないのも運だろう。
「……あんたさぁ、好きな男とか居ないの。これっていうような」
 突然の話に目を丸くするの顔が可笑しく、つい笑ってしまった。
 からかわれたととったのか、はつむじを曲げてそれきり口を閉ざしてしまった。
 なし崩しになって、凌統はの答えを聞き出すことが出来ぬまま厩に向かう。
「……あー、そういや、さあ」
 沈黙が重く、凌統はすぐに耐え切れなくなって口を開いた。
 何が欲しいのかと思ったら、茶葉が欲しいという。
「切らしたんなら、そこらにいる女官に申しつけりゃいいだろうに」
 思わず漏らすと、別に切らしたわけではないという。
 じゃあ何で、という話になって、小喬が薬湯だと言い出した件に及んだ。
「代えてくれっていうのも何だか申し訳ないし」
 は何気なく話していたが、凌統は青褪めた。
「阿呆か、それ、もし毒だったらどうすんだっつの!」
 慌てて踵を返し、室に戻ろうとする凌統をは驚き諌める。
「だ、そんな、だったら私、もうとっくに死んでるよ!」
「そ……」
 それはそうだ。遅効性の毒にしても、の話に因ればもう一月近く飲み続けていることになる。弱っていて然るべしだが、どう見てもぴんぴんしていた。
 一瞬、の子が流れた真の理由はそれかと疑ったぐらいだが、その茶が用意されるようになったのはが倒れてからであり、凌統自身もご相伴に預かっているから馬鹿な話だ。
「あ、あー……あの茶、ねぇ」
 確かに妙な甘味を感じたが、甘茶が混じっているのかと気にもしなかった。薬湯と言われれば確かにそんな気もしないでもない。
「でも、薬湯だったらあんな風にご自由にってことにはならないだろ? あんた、飲む時は牛みたいに飲むんだから」
 牛は余計だと怒られたが、凌統からすればそうとしか思えないのだからしょうがない。
「……でもまぁ、小喬殿はアレお好きじゃないってことなんで。違うお茶が欲しいんですよ」
 ほてほてと歩くの脇で、凌統は何事か考え込む。
 が凌統を伺うと、誤魔化すように笑みを浮かべた。
「新しい茶なんて入れたら、都督夫人はあんたの所に入り浸りになるだろうと思ってね。もしそうなったら、都督殿の反応が楽しみだねぇ」
 が渋い顔をする。どうにも周瑜が苦手なのだ。
 凌統にもそれと見破られ、からかうように理由を問われる。
「……だって、凄い美人なんだもん」
 渋々白状したのあまりの台詞に、凌統は呆れて物が言えない。
 美人と言う言葉は女に使う方が相応しかろう。間違いではないかもしれないが、当の周瑜が知ったらえらい不機嫌になりかねない。
「あんまり綺麗な人の前に立つと、緊張しちゃって」
 溜息を吐く横顔は、決して冗談や戯言を言っているようには思えない。
 だが、誰が見ても美人と名高い二喬や星彩にあれだけ好かれているの言葉とも思えなかった。
「あの子達は……ぶっちゃけ『子』なんで、何ていうかな、まだ年上の余裕といいますか?」
 才溢れる美人に敵視される。対抗するには、あまりに対抗手段がなく心許ない。その必要がないなら、出来る限りはお傍に寄りたくないとは嘆いた。
「……はぁん、そんなもんですかねぇ」
 普通は逆ではないかと凌統は思うのだが、がそう言うならそうなのだろう。
「……そんなら、あの趙雲って武将、あの人とはよく一緒に居られたね、あんた」
 趙雲の名を出すと、の目がふっと曇った。
 懐かしさと思慕の念が湧き上がったのかと思ったが、そうではなかった。
「あ、の、男は、ねぇ……」
 何考えてるかちっともわかんないから、と盛大な溜息を吐き出す。
 確かに、何を考えているかわからないというか、思惑を見せないように取り繕っている傾向が見えた。わざとではなく、もうそういう風に癖がついているのだといった態だった。
 相思相愛なのかと思っていただけに意外だったが、が置かれた状況を考えるだに通り一遍には行かないのだろう。
「あ、太史慈殿ー」
 廊下の端から現れた姿に、は気安く手を振った。
 わずかに苦笑している。
 星彩を送り出す宴の時もそうだったが、ここのところの太史慈は特に寡黙で人を寄せ付けない雰囲気がある。酌は受けていたが、それもさっさと受けてさっさと終わらせようと言うような素っ気無さがあった。
 もそれは感じていたが、空元気を使って懸命に何でもないように振舞っていた。
 太史慈が理由なく態度を変えるような人物でなく、また変えさせるような理由が他にあるほどが呉に居た時間は長くない。
 恐らく、ではあったが、太史慈はが子を守れなかったこと、それ以前に子を宿していたことすら気がつかなかった鈍さを許せずにいるのだろう。
 それは仕方ないことだと思った。
 他の皆がに優し過ぎるのだ。本来であれば、太史慈のように怒りを覚えても仕方ない。
 空元気の燃費は非常に悪い。
 の笑みが引き攣り始めたのを見て、凌統は太史慈に手を振った。
「太史慈殿! 真に申し訳ないが、ちょっとこの女を厩に運んどいてもらえませんかねぇ!」
 唐突な申し出に、はもとより太史慈もぎょっとしている。
「ちょ、な、あの」
 慌てふためくに、凌統は軽く肩を竦めた。
「忘れ物。すぐに取ってくるから、厩で待っててもらえるかい?」
 言い捨てるようにしてさっさと背を向ける凌統に、は恨みがましい目を向ける。凌統は笑って、意地悪するように駆けて行ってしまった。
 廊下の床がきしむ。
 の横に太史慈が立っており、複雑な顔でを見下ろしていた。
「……こちらへ」
 背を向け先行する太史慈に、は気後れしながらも着いて行くより他なかった。

 無言で太史慈に付き従うは、誰ともすれ違わない廊下に目を落としていた。この世に太史慈と二人きりなのだというような気さえする。太史慈も話しかけてこないから、の耳に入るのは廊下に敷かれた板が軋む耳障りな音だけだった。
 不意に太史慈が足を止める。
 廊下のど真ん中だ。両脇には扉が並んでおり、とても厩の傍とは思えない。
 どうしたのかと太史慈を伺っていると、突然の手を引き扉の一つを開けた。
 押し込まれるように押し出され、その背後で音もなく閉まる扉に、は息苦しさを感じる。正面から見上げる太史慈の顔は、思っていた以上に険しかった。
 問い掛けの声を発するのも躊躇うような緊張が、室の空気を重苦しいものにしている。
 太史慈の腕が伸びてくるのが異様な程ゆっくりと見え、は自分が怯えているせいだろうと客観的に考えた。
 温和な太史慈に怯える理由がない。まして、太史慈がを害する理由があろうはずがなかった。怯えていい訳がない、とさえ思った。
 だから、肩を掴むごつい手がもたらす痛みにも悲鳴を堪えた。悲鳴を上げる理由がない以上、悲鳴を上げる自分が滑稽に思えたのだ。
 そんなを見て、何故か太史慈の目が痛みを堪えるように細められた。
「……申し訳ない」
 肩に置かれた手から力が抜け、太史慈の姿は萎れた花のように見えた。
「太史慈殿」
 どうしていいかわからないまま、はただ太史慈に呼びかけた。
 顔を上げた太史慈の目が、それとわかる程暗く沈んでいるのがわかる。
 掛ける言葉が見つからず、は口篭った。
 腹に居た子の死が、自分の態度がそれほど太史慈を傷つけたのかと思うとやりきれなかった。
「申し訳ない」
 再度詫びる太史慈に、は首を振った。太史慈が詫びる理由はない。
「私が……悪いのかもしれません……し……」
 自覚はなかった。だが、太史慈が傷ついている以上謝らなければならないのは自分だと思った。
「なるべく……態度、改めますから……」
 太史慈の目が静かにを見詰める。暗く沈んだ色は変わらないが、何処か疑いの色が滲んでいるようにも見受けられた。
 これから凌統と町に下りようと言うのだから、疑われても仕方ないのかもしれない。
 それでも他に言い訳のしようもなく、は項垂れた。

 厩に着いてすぐ、凌統が追いついてきた。
「申し訳ない、太史慈殿。助かりましたよ」
 自分の居なかった間のことなど考えもせず、気楽なものだとは凌統に八つ当たりする。
「……これから、どちらへ?」
 言葉に詰まった太史慈が、苦し紛れに凌統に問い掛ける。
「町へ。買い物に行きたいからと仰いますんでね、このヒトが」
 何もそんな風に煽らなくてもいいではないか。
 親指で指されたが、泣きたい気持ちを堪えて抗議しようとすると、太史慈が割って入った。
「買い物か。それはいい、存分に楽しんでこられるが良かろう」
 陰鬱だった表情が、笑みに崩れ綻んでいる。
 あれ。
「何か、買って来ましょうか。要るもんがあれば、ついでに承りますよ」
「いや、俺のことは結構。それより、殿の護衛をしっかりと頼む」
「護衛っつか、面倒見るって感じですけどね」
 あれー?
 男同士、本人を前にして好き勝手に話し込んでいる。
 買い物などと浮かれて、と嫌悪する顔を想像していただけに、太史慈の笑顔は予想外だった。
 ぽかんとして太史慈を見入っていたに、不意に太史慈が目を向ける。
 真剣な眼差しに射抜かれるようだ。
「……約束を、忘れずにいてもらいたい」
 すかさず凌統が聞き咎めるが、太史慈は笑っていなした。

 馬に同乗する二人を、太史慈は長いこと見送ってくれた。
 門を出て町に続く道に出ると、凌統が太史慈の言っていた『約束』について訊ねてきた。
「……さあ……」
「さあって、あんた、約束したんじゃないのか?」
 約束と言われれば約束だが、が考えていたのは、己の今の立場を弁え慎み深く禁欲的な生活を送るというものだった。笑って見送ってくれた太史慈の態度からして、どうも見当違いしているとしか思えない。
 いったい、太史慈は何を訴えたかったのだろう。
 真剣な、切羽詰った太史慈の顔が浮かんで、まるでを責めているようだ。
 馬の背に揺られながら、は必死に考え込んでいた。

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