町に下りると、早くも日が沈むところだった。
星彩を見送り、二喬とおしゃべりに興じていたのだから当然といえば当然だ。
かぁんかぁんと何処からか鐘を打つ音がする。
「市場が閉まったな」
凌統の言葉はごく自然だったが、は驚き振り返る。
「元からそのつもりで下りてんだから、そんなけったいな顔しなさんな。そら、ここからは歩きだ、降りた降りた」
を馬から降ろすと、凌統は手綱を引いてのんびりと歩き出す。
凌統と馬に挟まれるような位置の為、歩きにくさを感じたがずれようとすると叱咤された。
「弓で狙われたらどうするんだっつの」
言わんとすることがわからず呆けるに、凌統はくさくさとしながら説明を加える。
前回の襲撃を考えれば、敵がを狙って動かないとは限らない。何につけ用心するに越したことはないのだ。
「……じゃあ、馬から降りたのって」
「呑気に馬上で揺られてるあんたなんか、絶好の的だろうねぇ」
だからこの位置なのだ。
納得したが、納得できないこともある。
「凌統殿は?」
「は?」
何を問われたかわからず、今度は凌統が呆けた。
「だって、弓射掛けられたら、凌統殿は?」
が背後に居る以上、凌統が弓を避けることは許されない。
言いたいことはわかったが、凌統はしばらく呆れたまま、をじろじろと見下ろした。
「……あんたね、そんな大層な口聞く前に、もう少し鍛錬なり体力つけるなりしておけっての」
それもそうだ。
がせめても第一矢を避けるぐらいの反射神経か、それに耐えうる体力を持ち合わせていればともかく、そうでない以上凌統は甘んじて弓を受けるしかない。
顔を赤らめて俯くに、そんな芸当のできる兵士は数少ない等ということは教えてやらなかった。
意地悪と言うわけでもないのだが、何となく教えたくなかった。
街中に入ると、凌統は路地をすいすいと歩きながらとある大きな門を潜った。
「居るかい?」
門番と思しき男に手綱を託しながら問いかけ、屋敷から出てきた男に手を掲げる。
「これは公績様、お久しゅうございます」
「いきなりですまないね、連絡はやってると思うけど」
顔見知りらしい。
物陰から、年若い娘達が押し合い圧し合いしてこちらを伺っているのに気付いた。
の視線からそれと気付いた男が大声で怒鳴りつけると、娘達は甲高い悲鳴を上げてばたばたと逃げていった。
「……とんだところをお見せしまして。ささ、奥へどうぞ。室の用意は整えさせてございます」
凌統を振り仰ぐと、凌統も頷いてを促す。
入り口にレジ台のようなものが設えられており、普通の住居とは少し違う感じだった。
「宿なんだよ。俺の父親が懇意にしていた商人がやってる」
背後から凌統の注釈が入る。きょろきょろしていたからわかってしまったのだろう。
二階に上がると、一番奥の室に通された。炭でも焚いていたのか、ほんのりと暖かかった。
「俺の室は隣?」
凌統が声を掛けると、男は面食らったように目を瞬かせた。
渋い顔をする凌統に、は何事かと二人を見比べる。
「……そういうんじゃ、ないんだよ。そんなら悪いけど、俺はちょっと出かけるから、その間に支度しといてくれないか」
平伏して去る男を見送り、凌統は扉を閉めた。
「凌統殿、どっか行くんですか」
一緒に行ってもいいだろうか、と思ったのだが、凌統はが言い出す前にやんわりと釘を刺した。
「いいかい、すぐ戻るから、俺が戻るまでこの室を出るなよ。何かあったら、そこの鐘を鳴らして主を呼んで言いつけるんだ。さっきの男だ。他の奴は入れるな。いいな?」
鐘、と言われて凌統の指さす方を見遣ると、小さな釣り鐘が下がっているのが見えた。
確認してから頷くと、凌統の顔が少しだけ緩む。
「じゃ、俺が出たら、中から閂掛けな。いいね」
「うん、気をつけてね。いってらっしゃい」
途端、凌統の足がぴたりと止まった。
「……行ってくる」
すぐに動き出したが、硬直したようにも見える。
振り向きもせずさっさと出て行った凌統を見送り、は言われたとおりに閂を掛けた。
階段を下りた凌統を、主が平伏して待ち受けていた。
「ど、どうも勘違いいたしまして」
「……勘違いだってわかれば重畳。じゃあ、出かけてくる。すぐ戻るから、その間は頼むよ」
床に這い蹲らん勢いで頭を下げた主に、凌統は座り心地の悪い思いをする。その気がまったくないとは言わないが、今はまだ、と言う面白い女の傍らに在ればいいとだけ思っていた。
幾ら急いでいたとは言え、大事な女を連れて行くなどと書いた自分も悪いのだ。凌統の嫁になる女だと勘違いしたとしても、主を責められはしない。
「もういいから、ホントに。俺が頼まれてる蜀の文官なんだよ。よろしく頼む」
言い捨て、柱の影からこちらを伺っている女を見つけた。
年若の、小娘と言っていい年の女だ。
凌統と目が合うなり、きゃっと飛び上がって逃げていった。
年相応の娘らしい所作に、あれが敵の内応者のわけがないと気が抜けた。
「躾が行き届きませんで……」
重ねて詫びる主に、凌統は肩を竦めた。
「戦で親を亡くした子を雇ってやってるんだ。それだけで充分立派だと思うね」
言外に『気にするな』と匂わせ、凌統は気持ちを切り替え外に出る。
懐の品の正体によっては、またきな臭いことになりそうだった。
凌統が出て行ってしまうと、にやることはなくなってしまった。
現代での習慣が抜けきっていないのか、買い物に出るのに1日掛かりになるとも思ってなかった。
こうなるとわかっていれば竹簡の一つも持ってきたのだが、泊まりになるとは思いもよらないから何も用意していない。
室の中にある家具の配置を確認したり、備え付けられた箪笥の中を見たりしたが、それもすぐに飽きてしまった。
すぐ戻るとは言っていたが、どれぐらいで戻ってくるだろうか。
少なくとも、の『すぐ』よりはだいぶ長いだろうと見当はつく。
何気なく窓を開ける。
真下の庭には何もなく、低い潅木が点々と見えるぐらいだった。低いながらも立派な塀があり、その向こうに行きかう人々が見える。
辺りは早くも夕闇が引き連れてきた薄紫に包まれ、いずれ暗くなってしまうだろう。
凌統はこんな時間にいったい何処に行ったのだろうか。
ふと下を見遣ると、年若の女が男と話し込んでいるのが見えた。
珍しくもない光景に目を引かれたのは、ちょうど男がこちらを見上げたからだ。
表情はわからなかったが、女に二言三言言いつけると、さっさと駆け去っていってしまった。
女も、の視線に気がついたようでこそこそと走り去っていってしまう。すぐに塀の影に入り込んでしまったから、からは何も見えなくなった。
嫌な感じだったが、ここに居る限りは何もできないだろう。人通りもあるし、二階までよじ登る足場もない。
夜になれば凌統も戻るだろうから、今のことを報告するだけで足りるだろう。
気をつけなくちゃな、と早々に窓を閉めた。
さて、どうするか。
本格的にやることを見失って、は牀に赴いた。
何故か枕が二つもある。
どうせ陶枕だから、高さが違っていてもはどちらも使わない。片方を籐枕にしてくれれば良かったのだが、などとずれた感想を抱きつつ、落として割らないように牀の下に置く。
よじ登って横になると、馬に揺られた疲れもあってかすぐに眠くなった。
ちょっとだけ。
目を閉じたの耳に、小さな物音が響いた。戸を叩いているらしい。
凌統ではないだろうと思いつつ戸口前に立つと、また戸を叩かれた。
「……何でしょう」
用心の為扉を開けずに問い掛ける。女の声が、少し慌てたように応じた。
「あの、奥様にお会いしたいという方がいらっしゃってます」
奥様?
年相応の女に対しての呼びかけのつもりだろうか。生憎こちらは天下御免の独り者だったから、あまり嬉しくない。とは言え、突っ込んでも仕方ないから流すことにした。
「……どちら様ですか」
「いえ、あのぅ、奥様はお名前ご存じないかと……え、あ、何よ。しょうがないでしょ、だいたいあんたが……」
何だか知らないが、もう一人居るらしい。女は小声で喧嘩を始めた。
襲撃しようというにしては、間抜けな感じだ。
「あのー」
が声を掛けると、小さな声で喧嘩していたのがぴたりと止まった。
「何か御用でしたら、ここのご主人呼んでいただけますか。それ以外は絶対に入れるなと言われてますんで」
「そっ……それは、あの」
しどろもどろになる女の声に、どうも話が読めないとが首を傾げた時だった。
どかどかと荒い足音、必死に留まるように懇願する主の声が近付いてきた。
「あっ、お頭」
野太い男の声がした。女が短い悲鳴を上げ、複数の足音が入り乱れる。
お頭?
が疑問を持つと同時に、扉が派手に蹴られ閂がみしりと軋んだ。
しんと静まり返った扉の向こうから、聞き慣れた声が呼び掛けてくる。
「」
「お頭? 何でここに?」
甘寧だった。
「いいから開けろ」
不機嫌が滲み出ているような声だった。は閂を外そうとして、凌統の言いつけを思い出す。
「あ、う、ごめん、お頭。凌統殿に……」
がんっ、と騒音が沸き起こる。先程を遥かに上回る凄まじさだ。
「……開けろ」
「あ、いやだから、凌統殿が……」
がんっ、と扉が立てる音がの声を遮る。力いっぱい蹴り上げているのだろう、女の悲鳴と主のうろたえる声が聞こえてくる。
しゅうっ、と何かが擦れて甲高い音を立てた。
「お頭、そりゃ駄目だ、まずいって!」
男が慌てて諌める声と、金切り声を上げる女の悲鳴が重なった。
「ちょっとお頭……あの、今開ける、開けるから!」
慌てて閂を外し、扉を大きく引く。
そこに、覇海を抜き放った甘寧が立っていた。腰に見ない顔の男がしがみつき、必死に甘寧を押さえつけている。
「な」
あまりのことに言葉もない。
「何してる、か? そりゃあ、こっちの台詞だ」
低い、苛々とした声だった。
何をそんなに腹を立てることがあろうか。
が戸惑っていると、甘寧はつかつかと歩み寄りその肩にを担ぎ上げてしまった。
「もらってくぞ」
主に言い捨て、甘寧はもう用はないと言わんばかりにすたすたと階段を降りていく。
肩に担ぎ上げられたは、角やら柱やらに頭を打ちつけそうなのを体を固くして堪えた。何をするかと問いかけるどころではない。
門を出ると、歓声が上がった。錦帆賊の男達だと察しがつく。
「お頭」
ようやく声を発することができたが、甘寧は更に声を低くしてを睨めつける。
「うるせぇ、黙ってろ」
錦帆賊の男達も、甘寧の剣幕に怪訝な顔を見せる。歓声が次第にざわめきに変わり、終いには静まり返った。
「行くぞ」
無言の厳つい男達が、甘寧の後に続く。誰もが恐れ怯み、道を妨げることすらしない。
の目に、宿の主が門から転がり出て、こちらとは逆の方に走っていくのが見えた。凌統に報告に行ったのかもしれない。
ただお茶が欲しかっただけなんだけど。
は、思い掛けない災難に、冷や汗がじんわりと浮き出すのを感じていた。