甘寧の肩に担がれてしばらくした頃だった。
 は、冷や汗が脂汗に変わってきたのを自覚した。
――こ、これはマズイ。
 体がじっとりと汗をかいてきている。
 二つに折られた状態で担がれているから、の腿の辺りを甘寧が抑えているのだが、それが歩くたびに揺すぶられて微妙な刺激になってしまう。
 だらりとさせているのも落ち着かず、甘寧の背中に手を当てて体を支えているのもまた、妙に気恥ずかしくてたまらない。今更手を変えたものだかと、考えれば考えるほど混乱して熱まで出てきた気がする。
――う、うーっとえーっと……。
「お、お頭、あの」
「うるせぇ」
 やはり機嫌が悪いままの甘寧は、の呼びかけにも応じるつもりもないらしい。
 けれども必死だ。このままでは、何かの拍子でおかしな声を上げる羽目にもなりかねない。
 事実、甘寧が角を曲がった拍子に大きく揺すぶられ、思わずびくんと足が跳ね上がった。
 甘寧は気がつかなかったようだが、このままではいずれ耐えられなくなるに違いない。
「あの、私、自分で歩くよ」
「黙ってろ」
 の前(つまり甘寧の後ろ)に付き従う錦帆賊の男の一人が、に黙っていた方がいいと目配せしてくる。
 泣きたくなってきた。
 体がこんなでなければ勿論我慢するのだ。甘寧が何を怒っているかは知らないが、どうせ誤解だろう。黙って言う通りにして、甘寧が腹を立てた理由を聞きだせるようになるまで待てばいい。そうしたら、誤解はあっという間に晴れるはずだ。
 だが、体の熱はそうはいかない。
 触れ合っているだけで(認めたくはないが)抱かれたい、組み伏されたいと訴えている。
 甘寧相手に犯らないか、などと持ちかける訳にも行かず、せめて煽る原因だけでも何とかしなければ爆発してしまいそうだ。
 爆発してどうなるかは考えたくもない。
「お頭……ホントに、歩くから……」
「…………」
 返事すらしなくなった。
 の心が読み取れずとも、普段の甘寧であれば何がしかの異変には気付いただろう。よっぽど腹に据えかねているらしい。
――泣いていいですか、泣きたいです、むしろ泣く。
 目の前も心なしか霞んできて、は熱が高くなってきたのを感じた。
「わ、わぁっ、お頭、姐さんが!」
 錦帆賊の男の一人が、の異常に気が付き喚きだした。連鎖するように皆が騒ぎ出し、甘寧は舌打ちしながら後ろを振り返る。
 腰の辺りにぽたり、と濡れたものが当たる感触があり、怪訝に思いつつを降ろすと、鼻血を出して気絶していた。

 濡れた布が顔に当てられる。
 何処か泥臭い匂いがしたが、その冷たさはには有り難かった。
「ふいまへ……」
「何言ってっかわかんねぇよ」
 呆れ顔の甘寧からは、すっかり険がこそげ落ちていた。
 いつもの酒場の、いつもの奥の室だ。
 久し振りにも関わらず、懐かしいという感じはしなかった。
 甘寧は椅子を引き摺って寝台そばに持ってくると、の前に陣取るように腰掛けた。
 ドラマで、刑事に尋問されるような感じだった。
 実際その心積もりなのだろう、甘寧は背もたれに顎を掛けつつの目を覗き込んだ。
「何で、ここに居る」
 甘寧が連れて来たからだろう、と答え掛けるが、そういうことではあるまい。下手なことを言うと取り返しがつかなくなりそうで、は考えながら答えることにした。
「……買い物……しに」
 甘寧の眉がぴくりと跳ねる。
「凌統の野郎とか?」
 頷くと、ますます甘寧の眉間に皺が寄る。正直に話しているのだが、何が怒りに油を注いでいるのか見当が着かない。
 甘寧はしばらく唇を尖らせて黙っていたが、再び口を開いた。
「誰に、許しを得て降りたんだよ。許しがなきゃあ、門は潜れねぇだろ」
「……周瑜殿って」
 聞いたけど、と続けかけたの前で、椅子が盛大な音を立てて引っくり返った。
 足早に扉に向かう甘寧に、は考える余裕もなく飛びついた。
「ちょっと、お頭何処に行くの!」
「離せ、あの野郎、俺の時は駄目だっつったくせに!」
 俺の時は。
 は、甘寧が周瑜に『を街に連れて行く』と言っていたことを思い出した。
 それでか。
 全身の力を篭めてしがみついているのに、甘寧は容易く扉に行き着いてしまう。
「お頭、違うの、私、私がね、頼んだから」
 もう聞く耳もたんとばかりに腕を振り払われる。呆気なく素っ飛んだは、床の上を転がって無造作に置かれた卓にぶつかり、悲鳴を上げる。
 あまりに軽く飛ぶに、甘寧は一瞬虚を突かれた。
「お頭、どうなさったんで!」
 開かれた扉から声が漏れたらしい、悲鳴を聞きつけた錦帆賊が慌てて駆けつけてくる。
「止めて!」
 甘寧も錦帆賊の数人の男達も、ぎょっとして振り返る。
 頭を押さえ、涙目になったが甘寧を指差していた。
「姐さん命令! 全員、お頭取り押さえて!」
 命じられた男達が、突然のことにうろたえ挙動不審に陥る。
、手前ぇ、こいつらは俺の手下だぞ!」
「だってお頭全然話聞いてくれないんだもん!」
 わぁわぁ喚き散らし始めた二人に、男達は雁首並べて呆ける以外なかった。

 全部わかるように話すから。
 の譲渡で、ようやく甘寧が引いた。
 駆けつけた錦帆賊の男達を酒場に帰らせると、は卓と椅子をセッティングし始める。
「……何してんだ、お前ぇ」
「こういうのはね、形から入らないと駄目なの!」
 ぷりぷりしながら卓を挟んで椅子を二つ並べ、甘寧を呼び寄せて掛ける。
「じゃあね、お頭が何で怒ってるのかってとこから始めましょう」
 軍議みてぇになってきやがった、と甘寧は内心複雑だ。話し合いの類は好きではない。
「……もっとちゃっちゃと手短にやろうぜ」
「ちゃっちゃと手短にしたら、お頭キレて飛び出そうとしたじゃないのよ」
 たんこぶ痛ぇよ、とが喚く。まさかアレほど容易く素っ飛ぶとは思っていなかったのだが、そう言えば女だからと言うにも非力過ぎる女だったと思い出した。
 押し倒したら、速攻犯せるな。
 下らない妄想が過ぎるのを振り払う。
「……あー、だから、アレだ……とりあえず……」
 おかしなことになってきたと思いつつ、しかし睨めつけてくるを上手くかわす自信もない。鼻血とたんこぶのせいで、どうにも分が悪かった。
 どうせ教えてくれるというなら、洗いざらい聞き出すのも悪くないと開き直る。
「……周泰と、何があったよ」
 順番は逆だが、そも甘寧が一番気になるのはそこのところだった。
「……それはちょっと」
「おい」
 初っ端から躓くのかとキレかける。
 は顔を真っ赤にして、卓の上に伏せた。
「イヤ、ホントにそれまずい。言いたくない。つか、言ったらお頭怒るか見捨てるかだもん。ヤダ」
 駄目駄目駄目と繰り返している。
 怒るのはともかく、見捨てられるというのは解せない。
 孫策の目を盗んで浮気をしたというなら、であれば青褪めて言葉を失う、という方が自然な感じがする。
 甘寧も卓に顎をつけ、顔を伏せるを覗き込むようにして追い討ちを掛けた。
「言え」
 でなければ、と匂わせると、は顔を上げた。目が潤んでいる。
「……イヤほんっとに言いたくないんだけど!」
 が卓を叩く音を皮切りに沈黙が落ち、耐えかねたは卓の上をのた打ち回る。
「……言わなきゃ駄目……?」
「駄目だな」
 簡潔に言い返すと、はまたしばらくじたじたしていたが、不意に自棄になったように飛び起きた。
 姿勢を正し、卓の上で固く手を組み甘寧に向き直る。
「お頭、張形って知ってる」
 知ってはいるが、ここでその言葉を聞くとも思わなかった。
 予想だにしないろくでもない単語が飛び出し、甘寧は呆気に取られる。
「……それをー」
「それを?」
「は、はめてたのをー」
「は」
「……抜かれました」
 言葉もない。
 は顔を赤らめて、再び意味不明な言葉を呟きながらのたうち始めた。
 甘寧には状況がまったく読めない。
「……お、ちょっと待て。な、何でお前そんなもん」
 持っているのか。
 はめて、ということは使っていたのだろう。
 張形を使って自らを慰めている現場を、周泰に押さえられたということか。
 だが、甘寧苦肉の、もっともらしい状況はあっさり否定される。
「いや、星彩が」
「あ?」
 また突拍子もない名前が出て、甘寧は固まった。
「……ホントに、入るのかって言うから」
「……張形が、か?」
「……イヤ、つか、男の……ナニが」
 頭が痛くなってきた。
「するってぇと何か、お前ぇ、あの娘っ子がまんこにちんこが入るの見たいって言いだして、そんで見せてやったってのか」
「……お頭くらいさばさば言ってくれると、逆にやらしく聞こえないよね……その通りだ、畜生」
 参ったか、と開き直るに、甘寧は呆れて物が言えなくなった。
 しかしここで留めては、肝心の周泰の話にどう繋がるのかわからず仕舞いになる。
「……そこを、周泰に見つかったワケか……?」
 多大な疲労を感じつつ話を続けると、完全に開き直ったは無駄に胸を張って答える。
「いんにゃ。そこに現れたのが周瑜殿と孫権様だ。参ったか」
「参らねぇよ、馬鹿」
 そこで思い当たった。
 甘寧が周瑜の元に押しかけた時、偶然来合わせた星彩が言っていたあんな夜更けに土足で云々という話、あれはその時のことだったのだ。
「……じゃあお前ぇ、まさかあの二人にも」
「いや、多分見られてはない。でも、咄嗟のことだったし……その、抜けなくなっちゃって」
 甘寧もそんな馬鹿な話は聞いたこともないから、抜けなくなるものかどうかまでは判然としない。
 だが。
「……じゃ、挿れたまんま……」
「まんまだよ、畜生。……そのまま孫権様の執務室言って、話して、居合わせた周泰殿が送ってくれて……帰りの途中で……」
 突然が卓に頭を叩き付けた。
 派手な音で、呆けていた甘寧が飛び上がる。
「うわぁん、思い出したーっ! お頭のせいだ、お頭の馬鹿ーっ!!」
「な、何で俺のせいだよ」
 せいと言われれば確かに甘寧のせいかもしれないが、卓をひっくり返すほど泣き喚かれる覚えはない。全部話すと持ちかけたのはだったし、甘寧はそれに乗っただけだ。
 だのに、何故か後ろめたさが先立ってを怒る気になれない。引き気味に怒り狂うを見守るだけだ。
「ちょ、待てお前ぇ、じゃあ、凌統の嫁ってな……」
 実を言えば宿屋で働く娘の一人が甘寧の手下と出来ているのだが、そこから『蜀の文官が泊まりに来る』『凌統が嫁に迎える女らしい』と情報が回ってきたのだ。
 周泰の次は寄りにも寄ってあの凌統か、とキレた甘寧が宿屋に向かったわけだが、どうも話がおかしい。
 ぽつりと呟いた言葉だったが、いつもは鈍いはずのは神算の如く読み取ってしまう。
「それであの騒ぎかっ! お頭の馬鹿、かば、阿呆めがーっ!」
 今度は椅子を振り上げるので、戦意を喪失している甘寧は逃げ惑うしかない。
「うわ、馬鹿、やめろって!」
「馬鹿はお頭だ、うわーん、馬鹿ーっ!」
 傍目から見ればとんだ茶番なのだが、甘寧は必死にから逃げ惑った。
「お頭……」
 入ってきた副頭目が、椅子を振り上げたとそれを押さえる甘寧の姿を見て唖然とする。
「ここかい」
 それを押し退けて入ってきた凌統も、同じく唖然として二人を見詰めた。
「……何、してんだ、あんたら」
 答えようもなく、未だ脳天に椅子を叩きつけようと暴れるを抑えながら、甘寧は眉間に皺を浮かべた。

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