凌統が宿屋を出た辺りに話は遡る。
 人通りも少なくなってきた道を、凌統は駆けていた。
 急がなくてもいいと思うのだが、万に一つの可能性もある。あの宿の作りはしっかりしているから、例えば油を撒いて火でも掛けない限りが襲われて命を落とすことはない。宿の主も、今でこそ幾つかの商売を手広く商う商人だったが、かつては父親と肩を並べて戦に赴いていた男である。
 だからこそ頼みこんで、今の間だけ宿に居てもらっているのだ。
 そうでなければ、忙し過ぎて宿屋の留守居など勤められる男ではない。
 あの宿屋に居る限りは敵の手に掛かることはない……そう思いながらも、凌統の足は止まる気配を見せなかった。
 目当ての場所は、宿屋からそう遠くはない。
 しばらく行くと、軒下に吊り下げられた古びた板が見えてくる。『医工 李霍』と記してあるのが辛うじて読めるが、凌統の目当てはまさしく此処だった。
 宿屋の主と同じく懇意にしている李霍医師は、それこそ凌統の幼い頃からの付き合いになる。凌家の主治医と言ってもいい。
 扉を叩くと、顔馴染みの下男が現れ、どうぞと奥へ誘った。
 書机に向かい何かの書付をしていた白髪の男は、凌統の顔を見るとにんまりと笑った。
「これは若様、お懐かしゅう。この李霍に何の御用ですかな」
「突然押しかけて申し訳ない。実は、ちょっと見てもらいたいものがあってね」
 腰に下げた袋から、小さな包みを取り出す。
 李霍の前に差し出すと、李霍は恭しく包みを手に取る。
 包みを開ける前に匂いを嗅ぎ、不思議そうに凌統を見上げた。
「……これが何だか、わかるかい?」
「大体は。しかし……」
 李霍は包みを広げ、中の物を確認する。
 繁々と眺め、小指の先に取って舐める。ぴちゃぴちゃと舌を鳴らして味覚で確認すると、李霍は首を傾げた。
「わからないのか?」
 李霍の態度が如何にも解せない。凌統は徐々に焦れ始めていた。
「いや、わかりますわかります。しかし……」
「御託はいいんだ、それが毒でないなら問題ない」
 包みの中身は、が飲んでいた粉茶だ。
 念の為、と街に下りるついでに確認しようと思って此処にやって来たのだが、いつもははっきり物を言う男が今日に限って何故か愚図愚図している。
「毒と申さば毒ですし……」
 凌統の顔がさっと青褪める。
「薬と申さば、薬ですなぁ」
「何だ、妙な言い回しはやめてくれないか。はっきり言ってくれ、はっきり」
 いい加減にイラついて、口も刺々しくなってくる。
 そんな凌統を、李霍は困ったように見詰めた。
「……若様、これを何処の女子にお使いで?」
 李霍の言葉に、凌統は目を丸くした。

 粉茶に含まれていた物の正体の説明を受けている時に、下男が泡を食って飛び込んできた。
 宿屋の主人が、凌統に至急会いたがっているという。
 よく行先がわかったと思ったが、何のことはない、凌統を探している内にここに行き着き、人手を借りようと飛び込んだだけだった。
 凌統が顔を出すと、宿屋の主は血相を変えて凌統に飛びついた。
 あまりの慌てように、凌統は面食らうばかりだ。
「何だ、敵の襲撃でもあったのかい」
 軽口は、もし本当にそうなら主がここに居るわけがないという安心感からだ。本当ならば、主は今頃得意の剣を取り敵と戦っているだろう。
「いえ、いえ敵ではありませんが」
 主が口にした名前に、凌統の眉が跳ね上がる。
 嫌悪も露に戸口に向かう凌統は、振り向きざま主に吐き捨てた。
「そいつはな、」
 凌統の姿が四角く切り取られた外界に飛び出すと同時に、凌統の声だけが主に残される。
「敵なんだよ!」
 未だ許せずに居られるのだ、と主は青褪めた。
 慌てて追おうとした主の肩に、ぽんと手が置かれる。
「まぁま、茶でも飲んでいくといい」
 いい薬茶が手に入ったからな、と背を向ける李霍に、主は何のことやらわからず立ち尽くした。

 凌統が錦帆賊の溜り場になっている酒場に赴くと、怪訝な顔をした男達が奥を覗き込んでいるところだった。
 襲撃があった形跡は既に綺麗に拭われて、天井に残された刀傷だけが辛うじてそれとわかる程度だ。懐かしさは一瞬で、すぐに向けられる冷たい視線に引き戻された。
 凌統の顔は、錦帆賊ならば誰でも見知っている。
 戦場の掟に従わぬ、青臭い小僧だ。
 好意を持てと言うのがそも無理な相手の登場に、錦帆賊の男達は一様に殺気立つ。
 好かれようとも思わないが、と凌統は内心吐き捨てた。
「盗っていったものを返してもらおうか」
「何を」
 いきなり盗人呼ばわりされ、短気な荒くれ達の頭に血が上る。特に気の短い者は、既に剣を抜いている有様だ。
 しかし、凌統もまた殺気立っていた。圧し込もうとする錦帆賊の殺気を一人で押し返せるほど、それは強烈な殺気だった。
「返してもらうっつってんだっつの」
 腰に下げた怒涛の鎖が、じゃらんと重々しい音を立てた。
 凌統が一歩進めば、錦帆賊は一歩退く。
 気合で言うなら、完全に凌統が勝っていた。
「お待ち下され、凌将軍」
 奥から厳しい男が立ち上がる。
 周りの男が一斉に頭を下げ道を開けるのを見ると、この男達の中でもかなりの実力者なのだと知れた。
 凌統が静かに観察していると、男は頭を下げた。
「こいつらの無礼を許してやって下され。皆、殿を貴方に取られたと思っております故な」
「はっ?」
 思い掛けない言葉に、凌統の殺気が薄れる。
 脇から飛び出してきた男が、凌統を睨めつけながら叫んだ。
「とぼけたって駄目だ、宿屋の鳴花から聞いてるんだ! お、お前が、姐さんを、姐さんを……っ!」
 凌統は足元が崩れそうなほどの脱力感を感じた。
 手下がこう言うのだから、きっと大将の甘寧もそのガセを信じてを攫ったに違いない。
 馬鹿馬鹿しくて肩から力が抜けた凌統を、錦帆賊の男達は歯噛みしながら睨めつける。
「……そのご様子じゃ、どうも行き違いがあったようですな」
「行き違いも行き違いだね。俺はあの女の護衛に過ぎないし、あの女に何ぞあれば首を飛ばすって脅しが掛かってる身の上だ。別に、愁嘆場よろしく決死の覚悟で飛び込んできたわけじゃない。……居るんなら出してくれないか。あんたらもまさか、こんな小汚い場所にあの女泊まらせる気じゃあるまいね」
 凌統の軽口に再び殺気が満ちるが、上の者と思しき幾人かに宥められてそれぞれの卓に散って行った。
「ご案内はしますがね、お頭も今日は妙にご機嫌が悪い。あんまりそのさえずり口を開かないようにお願いしたいものですな」
 身分が上の者に聞く口でもないと思ったが、凌統は敢えて流した。
 とにかく、の無事を確認したかった。
 今日の昼前までは飲み続けていたらしいから、効果が切れているとは言い難い。
 機嫌が悪い甘寧云々はともかく、ややこしい事態になるのは避けたかった。
 そして副頭目を名乗る男が案内する室に向かい、待機するも待ちきれず中をひょいと覗き込み、椅子を振り上げるとそれを押さえる甘寧というなんとも奇妙な光景に出くわしたのだった。

 椅子を三つに増やし、正三角形を作って凌統の話を聞き入っていたがばったりと倒れ伏した。
「……大丈夫か」
 最早疲労も極みといった態の甘寧が、おざなりにの身を案じた。
 凌統も、できればだけに話したかったのだが、甘寧がしつこく粘るので仕方なくこの三人のみでなら、と譲歩したのだ。
 凌統が話していたのは、が飲んでいた粉茶に含まれていた物の正体だ。
「……そんなもの、いったい誰が」
「だから、それをちょっと調べといた方がいいって言ってんだっつの」
 恨みがましい目を虚空に向けるに、しかし凌統は同情を禁じ得ない。
 粉茶と一緒に混ぜ込まれていたのは、催淫薬の一種だという。特徴的な甘い香りと味は、その薬の特徴だそうだ。
 効果は微々たる物ながら、量と回数を重ねることにより人によっては絶大な効果を得られる。どちらかと言えば男よりも女に良く効き、この薬を使って悪さをする男が絶えないという。
「……まぁ、命に関わるようなもんじゃあないのは良かったけどさ」
 慰めともつかない言葉を掛けながら、凌統は考え込む。
 効果は微弱と言えど、効くには効くと定評のあるこの薬は、値段もそれなりに高いのだそうだ。
 だから、これを手に入れられると言うと、それなりに金を持っている人間に限られている。また、原料を手に入れる為の経路が安定しないことから、扱っている人間もたかが知れているだろうとのことだった。
 調べようと思えば簡単に調べられるのだ。
 だが、を欲情させて何になる。
 それで益を得られる人間を、凌統は一人しか思い浮かべることが出来ず、それで考え込んでいたのだった。
 もし、孫堅だとしたら。
 またも君主に歯向かわなければならなくなる気の重さに、凌統は思わず溜息を吐いた。
 がひょいと顔を上げる。
 どうした、と問いかけているようだ。
 苦笑して誤魔化し、視線を逸らすと、今度はをまじまじと見詰める甘寧に気が付いた。
「……よぉ、じゃ、それのせいなんじゃねぇのか」
「? 何が?」
 首を傾げるに、甘寧は凌統をちらりと盗み見た。
 そう言えば、あの阿呆な光景に至るまでの経緯を、凌統は未だ聞いてない。
「何か、俺が居ない間にあったのか」
 甘寧がに手を出そうとして……と考えなくもなかったが、甘寧の腕力でを組み敷けないわけがない。甘寧の疲れきった顔を思い出すに付け、がまたろくでもないことを言ったかやったかのどちらかだと思った。
「何もありまセン」
 妙に強張った顔をして、声まで強張らせるものだから『何かあった』と思わせるには充分だった。
 甘寧が口を開きかけ、が卓を叩く音に口を閉じる。
「でもよぉ、普通まん」
「ぎゃ――――――っ!!」
 再び、今度は素早く声を発した甘寧に、が女とは思えぬ奇声を発する。
 凌統は、の肩に手を置いた。怯えたような目で、恐る恐る凌統を見上げてくる。
「……言え」
 満面の笑みとは裏腹に、凌統の目は笑っていなかった。
 ふるふると首を振るは、しかし魅入られたように凌統の目から視線を外せなくなっていた。
「言わないと」
「い、言わないと?」
 凌統は答えない。代わりに、にっこりと微笑んだ。
「イヤ―――――――――ッ!!」
 頭を抱えて突っ伏すに、凌統は呆れ返る。
 卓に肘を突き、どうしたものかと考えていると、視線を感じた。甘寧が、ちょいちょいと指で招いている。
 耳を貸すのも腐りそうだったが、どんな情報もできる限り抑えておきたい。
 凌統は渋々甘寧の傍に身を乗り出した。
「たいしたことじゃねぇぞ?」
「あるわいっ!!」
 甘寧の小声が耳に入ったのか、顔を伏せていたはずのが椅子をひっくり返して喚き散らした。
「わ、待て、落ち着け」
「うわぁん、お頭殺して私も死ぬーっ!」
 前半はまだしも、後半は困る。
 凌統も仕方なくを抑えに掛かった。
 手首は甘寧が押さえていたので、凌統はの背後に回りその身を抱きとめる。
「ひぁ」
 甲高く艶めいた声が上がり、一瞬三人共が動きを止める。
 の顔がみるみる赤くなり、目尻に涙が浮かんだ。
「死ぬ――――――――――――っっっ!!」
 泣きながら暴れ始めたに、甘寧も凌統も為す術がない。
 椅子を振り回すのを避けるのは容易かったが、をどうやって落ち着かせたものかは考えが及ばない。

 副頭目が様子を伺いに顔を出すと、室の隅でおいおいと泣くと、疲れ切って座り込む甘寧と凌統の姿があった。
 何があったかわからないが、とりあえず酒の用意をするべく顔を引っ込めた。

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