の杯は、入れるそばからどんどん目嵩が減っていく。
 酌をしていた甘寧も、呆れてから酒瓶を取り上げた。
「私の、酒〜!」
 ふにゃふにゃしながら伸びてくる腕に、全身が酒漬けになっているのがよく示されていた。
 自棄酒なのだろうが、それにしたってここまで酔っ払うのは珍しい。
 初めて呉に来て孫堅の隣で呑んでいた、あの夜を髣髴とさせる。
 緊張が過ぎるか、あるいは逆に気を許した相手との酒席だとこうなるのだろう。今のは無防備にも程があった。
 を間に挟んでとは言え、まさか甘寧相手に酒を酌み交わすことになるとは思っていなかった凌統は、濁り酒をちびちびと啜りながら二人の様子を見ていた。
 甘寧がに好意を抱いているのは見え見えだった。
 宴の席でも、隠しもせずにひけらかす神経が信じられない。
 は呉の若殿、孫策が欲する女なのだ。
 とは言いつつも、君主孫堅自身がそれを無視して掛かっているのだからしようもない。
 だから、傍目から見れば、甘寧の行動は君主の命を忠実に守っていることになる。
 そんなつもりがないのは、凌統も重々承知の上だ。甘寧はただ、に触れたがっているに過ぎない。
 問題は、どういう根拠で触れたがっているかということだ。
 女子供のように、珍しい小動物にかまけているとも取れなくない。甘寧はガキ臭いところがあるから、そうだと言われれば納得もしよう。
 お頭、お頭と慕ってくるを、子分達と同じように可愛がっているつもりなのかもしれない。体力もないみそっかすの下っ端然としたは、お荷物ながらも気の置けない可愛い手下なのかもしれない。
 けれど、もし甘寧がを『女』として認識しているとしたら。
 ぞっとする。
 背筋の下の辺りが粒々と泡立つ。
 ただでさえ激しやすい男だから、呉の内部で争うことなど屁とも思わないに違いない。
 事実、そうしてねぐらを転々としてきた経緯がある。
 仇を討ついい機会じゃないか。
 そう誤魔化してみても、戦々恐々とした心は静まる気配がなかった。
「りょーとーどの」
 いつの間にかが足元にうずくまっている。
「呑まないなら、お酒、下さい」
「やるなよ」
 すかさず甘寧が突っ込み、に盛大に噛み付かれ始めた。喚き散らすに、指で耳栓して聞こえない振りをしている甘寧の姿を見て、凌統は今さっきまでの戦慄が嘘のように消え去っていくのを感じた。
 酒を呑むと、どうも悪い方へと考え込む癖がある。
 上手い酒の呑み方じゃないな、と苦笑いが零れた。
「少しだけだよ」
「おい」
 睨めつけてくる甘寧に、肩をすくめて答える。
 は子供のようににこにこしながら、凌統の酌を受けた。
 傾けた酒瓶から、ちょろり、と音を立てて酒が零れ落ちる。
「……はい、お終い」
 今度は凌統に派手に噛み付き始めるの声を、凌統は顔を逸らして無視した。
 甘寧が吹き出し、凌統がそれに釣られて、二人が声を上げて笑い始めると、も釣られて一緒に笑い始める。
「……あのう、お頭」
 扉の外から、恐る恐る声を掛けてくる者がある。
 甘寧が入室を促すと、盆に酒肴と酒瓶を下げている。
 それを見たが目を輝かせて受け取りに行こうとするので、凌統は慌てて抑えた。
 まだそれほど時間も経っていないというのに、は既に瓶を一つ空にしている。甘寧の分も、半分はが平らげているのだ。呑ますにしても、もう少しゆっくり呑ませなければ体に差し支える。
 凌統の胸の内など知る由もない男は、『姐さん』に触れる不埒な凌統に怒りの目を向けた。
「……突っ立ってねぇで、置いてけ」
 甘寧が指図すると、男は慌てて卓に酒肴を並べた。
「あ、あのぅ、お頭」
 すっかり並べて、もう用はないはずの男は盆を抱えて甘寧の顔色を伺う。
 無言を守りつつも男にちらりと目をやった甘寧に、男は勢い込んだ。
「あのう、あのうお頭。姐さんに、歌ってもらうわけには参りやせんかね」
「いいよぅ」
 甘寧が答える前に、陽気に手を上げたが応じた。
「そっち行けばいいのかなぁ?」
「き、来ていただけるんで!?」
 止める間もない。
 はすくっと立ち上がり、鼻歌など歌いながら戸口へ向かう。
 顔を真っ赤にした男がの後に続き、ご丁寧に頭を下げて扉を閉めてしまう。
 追うに追えず、中途半端に腰を浮かした凌統に、甘寧も渋面を作って同意する。
「……まぁ、下手な真似はしねぇと思うがな」
「わかるもんか、あんたの手下だろう」
 二人の間で殺気が交差し火花を散らす。
 が居なくなった途端にこうだ。
 我に返った凌統が後ろめたくなって甘寧を見遣ると、甘寧も苦笑いして後ろ頭を掻いた。
 とにもかくにも、凌統としても甘寧としても、慌てての後を追ったのでは立場がなさ過ぎる。
 イラつきながらも我慢して、頃合を見て出て行くしか仕方がないかと諦め掛けた時だった。
「……お頭、ちっといいですかい」
 副頭目が顔を出し、頭を下げながら入ってくる。
「姐さんが、お二人はどうしたのかと気になさっておいでで。戻ろうとなさるもんで、若ぇ連中がぐだぐだ言ってしょうがありませんや。二、三発どついて黙らせてやってもいいんだが、姐さんが気になすってもいけねぇ。ここはあっしに免じて、お頭もお客人も一つ出張ってもらえやしませんか」
 二人は顔を見合わせ、頷きあった。
 副頭目が敢えて泥を被ってくれるものを、意固地になって拒絶しても意味がない。
 鷹揚に頷き、席を立つと如何にも仕方ないというように歩き出す。
 甘寧が小走りに副頭目に駆け寄り、何か耳打ちをする。副頭目の口元に微かに笑みが浮かんだのを、凌統は垣間見た。
 甘寧よりも一回りは上の男だが、甘寧に心酔しきっているのが見て取れる。
 俺に、あんな手下がいるだろうか。
 何となく惨めな気になって、凌統は気持ちがわずかに沈むのを感じていた。

「お頭ー、凌統殿ー」
 が大きく手を振る。
 周りを囲んでいた錦帆賊の一人にその手がぶち当たって、は椅子から飛び降りるとその男に必死に頭を下げる。
 殴られた男はへらへらと頬を緩ませてに気にしないよう声を掛け、周りの男達はその男にやっかみの視線を送る。
「で、でも、痛くないですかっ! ここ、思い切りぶつけましたよね、私!」
 無精ひげの小汚い面を撫で回すので、男の顔が真っ赤に染まる。
「よぉし、俺達が見てやる」
「水で冷やしとこうな、井戸行ってな!」
 二三人に引き擦られて男が攫われていく。
「わ、私も」
 慌てて後を追おうとしたを、他の錦帆賊の男が引き止める。
「まぁま、姐さん。あいつなら大丈夫ですよ、何せ一緒に行った兄ぃ達は治すのが上手いんで」
「で、でも」
 押し問答の弾みで、の胸に男の手首が押し付けられた。が気にせず前に進もうとするので、更に強く押し付けることになり、男は焦って手を外した。
 その手が、取り押さえられる。
「おお、どうした、顔が赤ぇぞ」
「熱でもあるんじゃねぇのか、井戸行ってこような」
 また二三人の男が攫っていくのを、も再び追おうとする。
 茶番だ。
 呆れ返って見ている凌統に、甘寧は鼻の頭を掻きつつを引き止める。
「お前ぇは座ってろ」
「え、でも」
 じたじたとするに、副頭目が優しげに諭した。
「姐さんがうろうろすると、それだけで井戸に連れてかれる奴が増えちまいますからね。そこでおとなしくなさってて下さいよ。今、酒をお持ちしますから」
 親しんだ甘寧でも凌統でもなく、顔見知りと言うだけの副頭目に宥められたのが効を奏したのか、はおとなしく椅子に座り直した。
 騒ぎで酔いも醒めたのか、心配そうに甘寧に耳打ちしてくる。
「あのぅ、あの人達、ホントに大丈夫?」
 さすがに『治療しに行った』ようには見えなかったのだろう、男達が去った方をちらちらと見詰めている。
「……まぁ、大丈夫だろ」
 保障はしかねたが、二三発どつかれた程度でくたばるタマは手下には加えていないつもりだ。
「それよか姐さん、歌を歌って下さいよ」
「おお、歌だ、歌だ!」
 はまだ心配そうに戸口を見詰めている。
 甘寧は仕方なく、新しく用意された杯に酒を注いでに渡してやった。
「……お前ぇが歌ってりゃ、すぐ連中も戻ってくるって」
「……そうかな」
 凌統も設えられた席に腰掛け、視線を向けてくるに苦笑して応える。の気持ちは何となく察しが着いた。
 噂には聞いていたが、錦帆賊達のこの熱の入れようには呆れるばかりだ。お互いはともかく、頭領たる甘寧がに手を出しても厄介ごとになりそうなほどである。
 これなら大丈夫かと凌統が酒を煽ると、その杯を再び満たす者がいた。
 甘寧だった。
 何の気なしの行動に違いなかった。事実、甘寧の表情に特別なものは何もない。
 しかし、凌統の中の何かを揺さ振るのには充分足り得た。
 顔に朱が走るのを、凌統は手で覆い隠して小走りに外に出る。
 も驚いて凌統の後姿を追おうとするが、錦帆賊の男達の無為な好意に阻まれ叶わなかった。
 甘寧もまた驚きはしたが、凌統の意図などさっぱり読み込めない。大の大人がすることに口出すつもりは毛頭なく、だから敢えて追いかけもしなかった。

 凌統が外に出ると、辺りは夜の冷気に満ちていた。
 火照った頬が、あっという間に冷まされていく。
 相手にされないことが悔しいのではなく、いつまでもこだわっている自分が悔しいのだ。そうわかっていながら、行動に移せない自分が更に苛立たしい。
 情けないことに、この点においては甘寧の方がよほど大人なのだ。あんな馬鹿で直情的な男に、この点でのみ敗北感を禁じ得ないのがたまらなく嫌だった。
 深呼吸を繰り返していると、沸き上がった感情も徐々に落ち着いてくる。
 と、口汚く罵っている怒声が聞こえてきた。
 姐さんがどうこう、俺達でお守りどうこう言っているから、錦帆賊の男達に違いない。
 何の気なしに近付くと、二人の男が仲間に囲まれており、必死に弁解しているところだった。
「おーい」
 凌統が声を掛けると、錦帆賊の男達が跳ね上がる勢いで振り返る。
「その姐さんが、あんたら大丈夫かって心配してるぜ。そろそろ戻った方がいいんじゃないか」
 顔を見合わせていたが、頷き合うと酒場に引き返していく。
 一番後ろに焼きを入れられていた二人が続くのを、凌統が引き止めた。
「……あーぁ、結構きついのもらったもんだ」
 その頬骨の辺りが腫れ上がっている。二人は、凌統の顔を見上げて不安そうに視線を揺らした。
「ちょっと時間おいて戻った方がいいだろ? ついでに頼まれてくれないか」
 凌統が、宿の主へ今夜は戻らないことを伝言してほしいと言うと、二人は頓狂な顔をした。をこんなところに泊める気かと吐き捨てていたのを、覚えていたのである。
「泊まりゃしないよ、そも、寝る気がなさそうだからね」
 早く行って戻って来いと言うと、二人は転がるように走り始めた。
 その滑稽な様に、凌統は思わず笑みを零す。
 まぁ、いいか、との独り言は、闇に溶けて誰の耳にも触れなかった。

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