延々と歌を歌っていただったが、歌っている最中に声が引っくり返って遂に根を上げた。
 一度蕩けるほどに酔ったわけだから、これでもかなり持った方だろう。
 子供のようにしつこく歌を強請る若い連中を、副頭目が文字通り蹴散らしてを連れ帰ってくる。
「つ、疲れた……」
 ぐったりと卓に突っ伏すに、凌統はおざなりにお疲れ、と声を掛けた。
 の為に新しい杯と酒が運ばれてきた。
 先程井戸に連れて行かれた二人だ。
 いい目を見た手前、の傍には近寄れず酒場の隅に引っ込んでいたのだが、副頭目の計らいでこうして使いぱしりとしてやってこれたのだ。
 殴られた分は量刑から差っ引かれないのが、錦帆賊の流儀らしい。いかにも、だった。
「……痛いです?」
 あからさまに殴られたとわかる痣は、ある意味見せしめなのだろう。荒くれ故に女を軽んじ、快楽のみの為に命を奪うことも辞さない、それが本来の『賊』としての姿だ。
 心肝から甘寧に惚れ込んだ古株ならともかく、血気盛んな若い連中はともすれば暴走しがちだ。憧れから、それを穢す快楽を得たいと捩れる可能性もないではない。悪い芽は早めに摘むのが定石だ。
 突き詰めれば、それだけは大切にされているということだろう。
 凌統が素直になれないのも、そこら辺が原因かもしれない。
 万事天邪鬼にできているこの男にとって、ちやほやされている女の取り巻きに敢えて自分も加わってやろうなどという酔狂は耐え難い。
 まして対抗しなくてはならない相手が次期君主に現君主とあっては、やる気どころか手も足も出ない。自分が首を突っ込むなど、有り得べからぬ事例なのだ。
 やっぱ、やめとくべきだったかねぇ。
 侍女も連れずにやってきたに、恐らく前回の侍女誘拐の件がばれたかどうかして、それで一人で来たものだとばかり思い込んでいた。
 自分も当事者の一人だったから、の気概が後ろめたさを煽り、俺が、俺ならと護衛に名乗りを上げた次第だ。に頼られているという自負もあった。
 下心がないわけではない。
 凌統も健康な男子であるわけだし、あの孫策趙雲が夢中になって追い掛け回す女(というと少々語弊もあるが)が、どれだけ『どう』なのか興味を持つなという方が無理だ。
 けれど、言い訳がましくはあっても凌統の善意に微塵も嘘はない。
 なかったはずなのだが、どうも自信がなくなってきた。
 宿屋で言われた『いってらっしゃい』の一言に、凌統は訳もなく動揺したことを思い返す。
 愛の告白でも艶っぽい誘惑でもない。ただの何の気なしの挨拶に、心臓が跳ね上がるほど驚愕したのだ。
 あほか。
 凌統は自嘲し、自ら酒を注ぐ。
 と、傾けた酒瓶が留められた。
「手酌は出世しないぞ!」
 錦帆賊の若いのと話し込んでいたはずのが、いつの間にか凌統の脇に回りこんでいた。
 凌統の手から酒瓶を取り上げると、にこにこして酌をしようとする。
 まったく、こっちの気もしらないで。
 やっぱり俺はこの戦列に参加するのはご遠慮したい、と凌統は溜息を吐いた。

 夜明けも近い頃になると、いい加減に潰れる者も出始める。
 猛者ぞろいの錦帆賊だから、それでも元気に酒を呑み続けている者もいたが、が来てはしゃいでいたこともあってか酒場のそこここにマグロのように横たわる姿が目立ち始めた。
 も御多分に漏れない。
 卓に突っ伏してぴくりともしなくなったので、凌統が牀に運ぼうと肩に手を掛けると、寝惚けているのか身を捻って嫌がる。
「こんなとこで寝たら風邪ひくだろ、おい」
 凌統が言って聞かせても、いやいやをするばかりで言うことを聞こうとしない。
「おいって」
「……一人で行くから……ほっといて……」
「つって寝るんじゃないっつの、おい!」
 肩を揺さ振る凌統の手を掴み、は顔を上げると指で凌統を呼びつける。
 何なんだこの女、とぶつくさ言いつつも顔を寄せると、がろくでもないことを言い出した。
「は?」
 自分の耳が信じられず、思わず聞き返したがは眠ってしまったのか目も閉じてしまっている。
 頭の中で反芻するが、どうしてもそれ以外のことには理解しようがない。
「何だってよ」
 あまりに挙動不審な凌統に、それまで黙って酒を呑んでいた甘寧が口を挟む。
「あ、いや……」
 この動揺を、甘寧とではあっても他者と共有できるならとは思うが、いかんせん口に出すのもはばかられる内容なのだ。
 口篭る凌統に焦れたのか、今度は甘寧がを起こしに掛かる。

 甘寧の手を振り払うように伸びた手が、触れた瞬間ぽてりと沈む。
 口元が微かに蠢いているのに気が付いて、甘寧が耳を寄せると辛うじて聞き取れた。
「…………」
 微妙な面持ちで顔を上げた甘寧は、凌統を見遣るとまたを見下ろす。
「……したくなるから触るなっつったか、こいつ」
 甘寧は躊躇いもなく凌統に問い掛けた。
 凌統が聞いた言葉はもう少し赤裸々で、『触られると濡れちゃうから触んないで』だったが、意味としてはそれほど変わらないので黙って頷いた。
 甘寧はを見下ろしていたが、人差し指を一本立てるとおもむろにの耳を撫で上げた。
「ひゃんっ!」
 酔っていても感度は変わらないのか、素っ頓狂な声を上げてが飛び起きる。
 顔を真っ赤にして周囲を見回していたが、人差し指を立てたままの甘寧を見つけるに及び、キレたように喚いた。
 その声で眠っていた者も目を覚まし始めたが、はまったく気が付いた様子はない。
 甘寧は薄く笑うと、面白そうにを見下ろす。
「寝惚けて『抱いて』とか言うお前ぇが悪いんだろが」
 そんなこと言ってないだろう、と凌統が視線で突っ込みを入れるが、甘寧はやはり視線で黙ってろよ、と返してきた。
 趣味の悪さに凌統は見て見ぬ振りをしたが、そうとは知らないは顔を青褪めさせた。
「嘘」
「嘘言ってどうするよ」
 がく、と折れるように俯くに、甘寧はにやにやしっ放しだ。
「……凌統殿」
「あん?」
 ここで自分に振ってくるか、と凌統は眉を顰めたが、とりあえず黙っての言葉を待った。
「伯符、何時頃帰ってきますかね」
 突然孫策のことを訊ねられるとは思わず、凌統は虚を突かれ口篭る。
「当分は無理じゃねぇか。何か、はしっこい連中らしいからな」
 孫策が討伐を命じられた山賊は以前から呉軍の手を焼かせていたこともあり、孫策ならばと期待もされていたが油断は禁物だというのが大方の予想だった。
 事実、あの孫策にしてはなかなか戦果が上げられないらしい。旗色が悪いと見るや、自分達の庭とも言うべき山中に逃げ込んでしまうのだそうだ。
「そっか……じゃあ、当分無理か……」
「何がだよ」
 すかさず甘寧が突っ込み、は真っ赤になって俯いた。
 催淫薬の効果がまだ残っているのかもしれない。あるいは、投薬されていた間に昇華されなかった熱が、の中をじりじりと焼き焦がしているのかもしれない。
 辛いのだろうか、と凌統がいらぬ心配だと思いつつ気に病んでいると、甘寧がにすぅっと顔を寄せる。
「抱いてやろうか」
 悪ふざけを、と詰ろうとした凌統は、甘寧の目にわずかではあったが真剣な光を見たような気がして、気圧されるままに口を閉ざした。
「俺の、熱く固くしてお前の中に突っ込んでやろうか。……欲しいんだろ?」
 ひそひそと囁く言葉は、からかっているように聞こえなくはない。
 けれど、がうんと頷けば、そのままその身を引っさらっていってしまいそうな熱を感じた。
 遊び半分、本気半分。
 甘寧はどちらに転んでもいいのだ。
 ならば、薬で煽られたにとっては、かなり分が悪い賭けのように思えた。
「……お、お頭……」
「ん?」
 濃密な空気に、誰もが口を挟めずに居る。
 意味もなく鼓動が早くなる。視線は二人に釘付けだ。
「お頭、私……私ね……」
「ん」
 凌統は、貝のように閉じたままの口を必死に開けようともがいた。自分の口がこれほど重いとは、考えもしなかった。
 あの馬鹿女が馬鹿な返事をしてしまう前に、甘寧を一発ど突いてなかったことにしなければと足掻くのだが、機先を制するべく掛ける言葉が声にならない。
 の口がおずおずと開かれる。
 止めなければ、と凌統は焦って手を伸ばす。
「張形が欲しいんだけど、あれって何処で売ってるのかな」
 勢い余ってつんのめった凌統は、を巻き込んで盛大に転げた。
「にゃっ!?」
 頓狂な声を上げて転がるを、甘寧は呆れて見下ろす。
「お前ぇ、一個持ってんじゃなかったのかよ」
「あ、あれは、あうう、痛い……あれは、周泰殿に捨てられちゃったから〜……」
 飛び起きた凌統ではあったが、事情を知らない為に突然出された周泰の名に目を丸くする。事情を聞こうとを振り返るが、もう役立たず同然でろくに舌も回ってない。
「たんこぶとおなじとこ、うったぁ」
 痛いよぅ、と呻いていたが、不意に無言になる。
 凌統が恐る恐る覗き込むと、安らかな寝息を立てて眠っていた。目には涙が浮いたままだったが、痛みも眠気に勝てなかったのだろう。
 変に緊張していた分、どっと疲れて凌統は尻餅を着いた。
 甘寧は、やはり何事もなかったように酒を煽っている。
「……あんたな」
 甘寧は面白くもなさそうに凌統を見遣る。到底白状しそうにない。
「あんた、今、本気で言ってたろ」
 噛み付く寸前のような凌統の目に、甘寧は鼻を鳴らして笑った。
「さぁなぁ」
 澄ました横顔に、凌統は歯軋りをした。甘寧はくつくつと笑って凌統の方へと身を乗り出す。
「お前ぇ、こいつの買い物に付き合うんだろ? 頑張って、具合のいい奴探してやれや」
「じょっ……」
 冗談ではない。そもそも、そんな物が市場の何処で売られているというのだ。
「探しゃ、あるんじゃねぇか」
「当てずっぽうであほなこと言うなっつの」
 でも、欲しいって言ってるじゃねぇか、と甘寧は嘲笑して取り合わない。
 睨み付けていた凌統は、ふと甘寧の顔をまじまじと見詰めた。
「……あんた、結構マジで言ってたろ。そうなんだろ」
「うるせぇ」
 途端に澄ましていた顔が崩れ、不機嫌な表情が剥き出しになった。
 可笑しいような同情したいような、複雑な気持ちに陥る。
 説明しようがない感情を持て余した時は、とっとと逃げるに限ると決めていた。
 凌統はを抱きかかえると、牀のある奥の室へと向かう。直に夜明けだからあまり長くは寝かせてやれないが、床で寝るよりはマシだろうと思ったのだ。
 の手がするすると凌統の首に回る。
 おや、とに目を向けた瞬間だった。
「……伯約……子龍?」
 自分ではない誰かの字を呼ばれて、嬉しいはずもない。
 凌統は口をへの字にして奥へ向かった。

 翌朝、凌統に容赦なく叩き起こされたは、目をしょぼつかせながらよろよろと酒場を出た。
「姐さん!」
 錦帆賊の男達が見送りに出て、内の一人が何かの包みを押し頂くように差し出した。
「……う?」
 寝惚けたが差し出されるままに受け取ると、錦帆賊の男は頬を赤らめて一歩下がる。
「どんなのがお好みかわからなかったもんで……もしお気に召さなけりゃ、何時でも言って下さい!」
「……どうも、有難うございます……?」
 腰を90度以上曲げて頭を下げるに、錦帆賊の男達もそれに習った。
 手を振り、徐々に遠ざかっていく人影を振り返りながら歩く。角を曲がり、ようやく男達が見えなくなると、は手にした包みを上から見たり下から見たりし始めた。
「……これ、なんだろう……お土産かな……?」
「……城に帰って、自室に戻ったら開けな。ここでは開けるなよ」
 十中八九はアレなのだが、は気付く気配もない。
 かなり酔っていたから、ひょっとしたら言ったことも覚えてないかもしれないと思ったが、説明するにはあまりに面倒で馬鹿馬鹿しかった。

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