が遅い目覚めを迎えると、星彩が傍らに腰掛けていた。
 姿勢良く背筋を伸ばして座っている。面接でも受けている受験生のように思えた。
「……何してんの、星彩」
 しかしここは面接会場ではなくの寝室だ。
 室は以前とは打って変わって広いものが用意された。荷を置いておけるようにと小さな納戸のような室まで付いている。恐らく、以前見舞いの品で室の半分以上が埋まったことを覚えられていたのだろう。
 その豪奢な室に慣れられず、疲れているにも拘らず眠れずに居たのだ。
 寝坊を責めに来るような星彩ではないが、寝顔を見にくることはしそうだ。
 だから、は寝そべったまま星彩の顔を見上げるような無作法を平気でした。
 星彩は柔らかく微笑むと、腰掛けていた椅子を片し、横たわるの傍に膝を着いた。
「お姉さま、おはようございます。少しは休めましたか?」
 枕元には湯を張っているらしい桶が置かれ、星彩は手巾を濡らして固く絞ると、の顔を優しく拭い始めた。
 どこのお大臣かと恥ずかしくなり、起き上がろうとするが星彩が許してくれない。
 そのまま押さえつけられるように顔を拭かれ、ようやく解放された。
 起き上がるのも星彩が背中に手を回して寄越す。
「か、介護老人じゃないんだから」
 泡を食ったがうろたえつつも抗議するが、星彩にはよくわからなかったようだ。きょとんとしている。
 夜着も星彩が脱がし、が服を着ようとするとまたも押し留められる。
 嬉しそうにに装束を着付けていく様子は、小さな子供が着せ替え人形をしているようだ。
 こちらでは貴人は皆こんな扱いらしいが、正真正銘平民育ちのには戸惑うばかりだ。船の中では星彩自身が忙しかったせいもあり、ここまで至れり尽くせりではなかったので油断していた。
 着替え終わると、星彩はの周りをぐるりと周った。
「おかしなところはないと思いますが……」
 武官志望の星彩は、文官の装束に関してはイマイチ知識が足りないのだと言う。張飛の娘として特別扱いを当たり前にされてきたこともあり、他の者の着付けを手伝ったことがないのだそうだ。
「でも、そんなことまでしなくても」
 にはよくわからなかったが、星彩は首を振った。
「皆、そうして礼儀や作法を学んでいくのです。それに、私もいつかは一軍を率いて戦場に立つことを望んでいる身ですから、部下になる兵士達と同じことをして、できるだけ彼らの親身になりたい」
 本当は一兵卒として軍に入りたかったのだが、張飛が頑として許さなかったらしい。張飛がその気になれば星彩の邪魔をすることなど容易く、事実諸葛亮や関羽にそんなことを漏らしていたそうだ。あの張飛ともあろう者が、呆れるほどの溺愛ぶりだ。
 これではうかうか止めさせることもできない、とは溜息を吐いた。
 状況が悪いと思ったわけでもなかろうが、星彩がふと思い出したように口を開いた。
「……そう言えばお姉さま。孫策様がお見えです」
「伯符が」
 何の用だろうと続き間に当たる隣室に足を向ける。
「……伯符、いつ頃来たの?」
 自分が目覚めたのはつい先程で、しかも星彩は孫策が来たと起こしに来たわけではない。何となく嫌な予感がした。
「さぁ……夜明け前には、室の前に居られましたから」
 は飛び跳ねるように隣室に駆け込んだ。

 ぶすくれている孫策の正面で、は居心地悪さから肩をすくめていた。
 あまりに待たせ過ぎた。
 星彩は何に付け至上主義と化してしまったから何とも思うまいが、待っているとは知らないからのんびり身支度をしてしまったは居た堪れない。ひょっとしたら、きゃっきゃと悪ふざけしてはしゃいでいる声まで聞かれたかもしれないと思うと胃が縮まる。
 どうにもばつが悪い。
 口を閉ざしたままの孫策に早く用事を言えと催促するのすら、何とはなしにはばかられた。
「何の御用なんです」
 ところが、星彩はまったく容赦がない。待たせたという感覚が皆無なのか、孫策相手にぴしゃりと言ってのける。
 本当のところは、単にまだるっこしいのが嫌いなだけかもしれない。何せあの張飛の娘だ。有り得る。
 単刀直入な星彩の言葉に、孫策は不機嫌そうに唸り声を上げるが、星彩はびくともしない。常の冷静な顔で、じっと孫策を見詰めている。
 しばらく星彩と睨み合っていた孫策だが、不意にを振り返ると真正面から向き直る。
「俺ぁ、しばらくの間、国境荒らしてる山賊退治に行かなくちゃならなくなった」
「え」
 は息を飲んだ。
 頭の中が真っ白になり、何も考えられなくなった。
 孫策の顔がくしゃっと歪む。
「……そんな顔すんなよ。ちょっと行って、ぱぱっと片してくるからよ」
 ただ、場所が場所だけに少し遠い。行って戻ってくるだけで、相当時間を食いそうなのだ。
「俺はいねぇけど、せーさいが居るから大丈夫だよな?」
 孫策が星彩を振り返ると、星彩の顔が曇る。
 あん、と眉を顰めた孫策に、は言いにくそうに頬を掻いた。
「……言ってなかったっけ。星彩、私を送り届けに来ただけで、船の準備ができたら蜀に帰ることになってるんだよ」
 本人は未だ軽輩とは言え、あの張飛の娘である。同盟国だとしても、所詮は他国の呉に長く置くことは、傍から見れば人質と何ら変わらず外聞は甚だ悪い。
 尚武を尊ぶ呉としてもそんな不名誉は御免被りたいらしく、帰りの船の仕度は着いた時点で始まっている。
 劉備が尚香を娶り、が孫堅の望みどおり呉の外交官に着任したことで、両国の誠意は通じあった。それ以上は不要であり悪戯に均衡を崩すのみだ。
 孫策にそれを説いても意味はないから、はそれ以上の言明は避けた。口にするだけ寂しい、これが今の両国の現状だった。
「……そうか」
 わかっているのかいないのか、孫策も難しい顔をする。
 だが、すぐに気を取り直したように顔を上げた。
「まっ、でもアレだ、大喬が居るから大丈夫だよな!」
 周瑜も居るし、権もな、よく言っておくからと孫策は笑顔で続けるが、は半ば上の空で聞いていた。
 昨夜、宴の間で大喬に避けられた視線の苦さが蘇る。
 場がとりあえず和んだのを見計らい、いの一番に大喬の元に向かおうとしたが、大喬はそれすら拒絶するように退室してしまっていた。
 孫策が勝手に蜀に来てしまったのが気に入らなかったに違いない、とは考えていた。
 どんなに懐の広い女だとしても、旦那になる男が愛人候補の女を追っかけて行ったとなれば落ち着けるものではなかろうし、しかも孫策は大喬に何も告げずに来てしまったのだ。許せることではないだろう。
 が謝るのもおかしな話だから、は大喬にどう接触していいか思いあぐねていた。
「……いつ、発つの」
 それまでに大喬と仲直りできればいいが、と訊ねると、孫策は少し困ったように目を細めた。
「……今日、昼にな」
 無理だ。
 は、出発直前までこの室に留まっている孫策に、そんな男を想っているだろう大喬の悲しみに困惑した。

 見送らないよ、と室の前で告げると、孫策はこくりと頷きに口付けを落とした。
「行ってくるからな」
 軽く片手を掲げて立ち去る孫策を見送り、扉を閉めようとすると、孫策が去った方向とは反対側の廊下に大喬の姿があった。
 一瞬驚きで声が出ない。
 大喬はにこりと微笑んだが、転瞬その笑みは崩れ、それを見られるのを嫌うようにさっと身を翻して駆けて行ってしまった。
 急ぎ追いかけたが、が息せき切って角を曲がった時には大喬の姿は既に気配すらもなかった。
 それでも尚うろうろと辺りを探すが、やはり見つからない。
「……いてて」
 腹の辺りがずきりと痛んだ。
 一番悪いのは孫策だ。けれど、気が回らない自分にも責任はある。
 恐らく長い間、扉の前でどうしたものかと悩み立ち尽くしていただろう大喬の気持ちを考えると、申し訳なさで泣きたくなってくる。
 胃痛がするのも無理からぬことだ。
 ストレス性胃潰瘍かもしれない。
 今日一日は休んでいいと言われているし、どうせ夜には宴か何かに引っ張り出されるのだろう。
 星彩が居てくれる今の内に、同性同士でちょっと相談に乗ってもらうのがいいかもしれない。
 何せ、星彩の意見はストレートで時々とんでもなく的を射ているから。
 自分の事でもないのに口が緩む。
 慌てて頬を叩いてにやけを押さえ、室に戻ろうと踵を返す。
 歩きながら、あんな綺麗な子と、キスしてしまったんだなぁと思い起こした。
 倒錯だなぁ、と一人で照れていると、突然腹の内側から激痛が沸き起こった。
 痛いなどと言う生温いものではない、腹の中にエイリアンが居て、食い破って出てきそうなとんでもない激痛だった。
「……っ!!」
 唇を噛み締めて耐えていると、しばらくしてようやく痛みが治まった。
 脂汗が体中に染み出ている。ぬるぬるとして気持ち悪かった。
 やばい、早く戻ろうと足を踏み出す。
 今度は世界が急速に周りだした。
 遠心分離機にでも掛けられているかのような勢いに、は天と地の区別も見失い倒れた。
 何だ、地震か!?
 大きな地震が起こると、立っていられなくなると聞いたことがある。
 激しい揺れに吐き気が込み上げる。
 いけない、と口元を押さえた瞬間、世界が暗転した。

 戻らないを案じて外に出た星彩が、廊下で倒れているを見つけたのはそのすぐ後の話である。

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