はここ最近不機嫌だ。
 むっつりと黙り込んだまま下を向いて歩くので、通りすがりの武官文官もなかなか声が掛けられないでいる。
 宴でようやく手に入れた伝手も、これでは何の意味もない。
「なぁ」
 凌統が声を掛けると、鋭い視線がぎぬりと向けられる。
 城に戻ったが、錦帆賊の『お土産』の包みを開けた瞬間の顔を、凌統は当分忘れられないだろう。
 それだけ、何と言うか味わい深い顔だった。
 ど畜生、と言うなり凌統に投げつけてきたのは何だったが。
 案の定は自分が喚いたことなど露ほども覚えておらず、買い物も茶葉に茶菓に干果、自分用にすると言って湯飲みを一つ、気を利かせたのか凌統の分も一つ、要するにそんな細々としたものばかり手に入れて嬉しそうに笑っていた。
 仮に覚えていたとして、凌統もまさか張形買うのに付き添う気もしなかったし、そもそも店を探すのも御免被りたかったので錦帆賊には感謝したいくらいだ。
 しかし、あの男達も大枚叩いたのだろうに、よもやこんな粗雑な扱いを受けているとは思ってもみなかったろう。
 動物の角を丹念に削って磨いた後、やはりよくなめした動物の皮が男の印を模して貼り付けられている。ちょっと見は本当に男のものかと思うほど精密な出来で、何と裏筋まで丁寧に掘り込まれていた。
「いい出来に見えるけどねぇ」
 茶化してやると、突っ伏していたのをがばりと飛び起き、『そんな人外魔境な物が入るかーっ!』と吠えた。
 何処かで聞いたような口振りだったのはともかく、入るの入らないのと男女の会話だとは到底思えない。
 これが割りない仲ならば話は別だろうが、凌統とはただの他国の文官とそれに宛がわれた武官に過ぎない。
 考えてみれば、ちょっとした講談のネタにも使える立場な訳で、もう少し色っぽい話になってもよさそうなものだが、自分で言うのもなんだが気配もなかった。
 最近の記憶を辿るだけでも虚しくなってきて、凌統が溜息を吐くとの目の険が少し和らいだ。
「仕事、他にもあるんじゃないの? 私、屋敷の中うろうろしてるだけだから、その間に仕事してきてもいいよ?」
 すっかり敬語を使わなくなったに、それだけ親密に思われているのだと凌統は感じた。
 それはいいとして、親密の内容にあまりにも艶がない。親密になればなるほど、まるで男同士の友情を深め合っているような錯覚を覚える。
「別に疲れてる訳じゃないよ。ただ、あんたがもう少し色っぽかったら俺も張りがあるんだけどなぁって思っただけでね」
「ああ、それ無理」
 腹も立てずにあっさりと流し、はまた廊下を歩き出す。
 別に何の意図もなく歩き回っているわけではなく、恐らくは長逗留になるだろうから、屋敷内の配置を覚えてしまおうと歩いているのだ。
 入ってはいけない場所には護衛兵が立っていたし、元々ざっくばらんな気質だけにがうろついていてもあまり咎め立てる者はいない。
 戦になった時のことを考えれば非常に無用心とも思えるが、ここを攻め込まれるようでは呉ももうお終いだ。
 絶対に攻め込ませぬ、という余裕を見せているのだとは思っていたが、実際はそうでないことを凌統は知っている。
 死ぬまでこの地で暮らす、それを前提にしているからこそは気ままにうろついていられるのだ。
 言ってやった方がいいのかどうか、凌統は時折悩むことがある。
 世の中には、知らないことがあってもいいのだ。
 例えば、大嫌いで顔も見たくないはずの奴が、実は少しいい奴なのか思ったりすることだ。
「おぅ、こんなとこにいやがったか」
 廊下の端からずんずんと足音を響かせて甘寧がやってくる。
 肩を怒らせ、まるきりちんぴらと変わらない、と凌統はこっそり考えていた。
「大殿がお呼びだぜ」
「孫堅様が?」
 顔を引き攣らせたに、何かあったのかと訊ねるが答えようとしない。
 ここに来て、皆が皆それぞれでに関わろうとしているようだ。動きが複雑過ぎて、凌統にさえ判然としない。
 逆らうことは論外なので、は不平不満を漏らしつつも甘寧の後を追う。
「なぁ」
 凌統がに声がけると、あどけなく見詰めてくる。
 その目に何の不信も不安もない。主を信用しきった犬のような目だ。
「何かあったら、言えよ」
 凌統の言葉に、は嬉しそうに微笑み、大きく頷いた。
 その笑顔を見て凌統も、まぁいいか、と思うことにした。

 孫堅の室に入ると、案の定凌統も甘寧も追っ払われてしまった。
 四の五の言わせない雰囲気が孫堅にはあり、二人は未だにそれに歯向かえずにいる。年季の違いと言う奴かもしれないが、あまり嬉しいことでもない。
 見るからに不満そうに去っていく二人に、は頼もしさを感じる反面、取り残される一抹の不安に揺れた。
「少し早いが、食事に付き合ってくれ」
 言うなり、孫堅はの手を取り奥へと誘う。
 強引だが嫌悪を抱くほど強くは引かない。この絶妙な力加減が、孫堅という人となりの恐ろしさをよく示しているような気がした。
 椅子に腰掛け、対峙する。
 孫堅の目がを見詰める。どこまでも見抜かれそうな目だ。は合わせられなくなり、ふっと逸らした。
「どうした」
 低い声は、特に何の表情も伺えないにも関わらず射抜かれるような衝撃を伴う。
「あの……」
 何でもないというのは芸がないし、本当のことでもない。
 どうしようかと考えたが、考えても先手を取られるのはいつものことだ。正直に申告する。
「別に、何もないので……」
 孫堅の目がわずかに細められた。
「と言うか、えぇと、何て言えばいいですかね。私、ホントに持ち合わせがないもんで……あんまりまじまじと覗き込まれると、その、やっぱり底の浅いのが恥ずかしくなってくるんで……」
 もうちょっと深くなるまで見ないようにしてくれ。
 続けた言葉に、孫堅は一瞬唖然とし、次いで声をたてて笑い始めた。
 そんなに可笑しいことを言っただろうか、との頬が赤くなる。孫堅相手に策を弄しても仕方がないと思って正直に言ったのに、笑われるとは思わなかった。
「本音か。本音だろうな」
 孫堅の目が、優しく和んだ。
 包まれるような錯覚に陥り、ははっと我に返る。
 真性のタラシオーラを感じる!
 これは何と言うオーラの強さだ、目が焼かれるぅーと内心で茶化していると、何となく落ち着いた。
「……何かおかしなことを考えていたろう」
「……考えてました」
 内容を問われたが、怒られるから言いませんと言い返したに、孫堅は頓狂な顔をした。
「言うようになったな」
「蜀の手先ですからっ!」
 蜀っかーですからとも言ったが、孫堅は呆れたように肩を竦めただけだった。
 ERがついて蜀に関係する人という意味なんです、と心の中で主張した。孫堅に言ってもどうせ通じない。
「まぁ、おとなしいよりは戯言をほざいている方がお前らしい」
「……それ、褒めてもらってるんでしょうか」
「褒めているぞ」
 やりあっている内に食事の支度が整えられ、家人達は風のように去っていく。
 ちらっとしか顔を見られないのだが、仕えている女達はいずれも劣らぬ美女揃いだ。顔で選んでいるのかと邪推したくもなる。
 の頭を覗き見でもしたのか、孫堅は苦笑を漏らした。
「美人はな、」
 タメを作る孫堅に、が首を傾げる。
「三日で飽きる」
「うわ」
 言いやがったよ、の一言はさすがに我慢して飲み込んだが、孫堅が言うと説得力があってなおかつ嫌味の度合いが増す。
 更に、性格は見た目ではわからないから、せいぜい美人を集めておくのだとまで言い切った。
「うわ」
 最低、の一言は絶対に言ってはならないので我慢した。
 飲み込んだ言葉に目を白黒させているを、孫堅は面白そうに眺めた。
「お前が手元にあれば、さぞ退屈しないだろうな」
 行儀悪く食膳に肘を突くのが気になったが、は敢えて無視した。
 今日こそは孫堅のペースに巻き込まれてはならない、と固く誓っていたのだ。
 未熟が仕事の言い訳にならないことをは長の勤めで学んでいる。自分のプライドを守りたいなら、自分を磨くしかないことも思い知らされていた。
 特に最後は劣悪と言っていい環境で仕事をしていたから、却って良かったとさえ思っている。命の遣り取りこそなかったが、理由なき悪意に晒される体験を直にできたのは貴重だった。
 が動じないのを見て、孫堅はやや詰まらなそうな顔をした。
 勝った、と思った。
 からかうだけの存在から、半歩にも満たないだろうが前進できただろうか。
「夜もそんなか」
 飲み込みかけたスープが行く先を間違えて気管に入る。
 盛大にむせているに、孫堅はにやりと笑った。
「違うらしいな、いや安心した」
 何が安心だ畜生めーっ!
 むせていなかったらとっくに怒鳴りつけているだろうが、スープの塩気で喉が焼け付いて何も言えなかった。
 体を丸めて延々とむせ苦しむに、さすがの孫堅も罪悪感を感じたのか、席を立っての背を撫で始めた。
 焼け石に水と言うか、そんなことをしてもらっても苦しいのは一向に止まらない。
 何事か考え込む孫堅が、杯に満たされた水をくっと煽った。
 背を向けるの顔を力尽くで自分に向けさせると、口に含んだ水を直接流し込む。
 恥じらいではなく呼吸を奪われる苦しさに、は孫堅を蹴りつけて逃れた。
 孫堅は、椅子から転がり落ちてげふげふむせているに、蹴られた腹を撫でながら冷たい視線を送る。幾らなんでもさすがに腹に据えかねた。
 面白いの域を超えた振る舞いに、如何してくれようとを観察していた孫堅だったが、ふと己の異変に気が着いた。
 顔を赤く染め、涙を零さんばかりに潤った目は、最中の様を余儀なく連想させる。
 飲み込ませたはずの水が口の端から零れ、指の隙間から滴り落ちていて、薄く粘るそれに強烈な雄の本能を刺激される。
 抱こう。
 今まで曖昧だった思考が、急激に縒り集められて像を結んだ。
 策が居ない、ならば俺がこの女を抱こう。
 理屈に合わないにも関わらず、孫堅の中ではすとんと収まりがついた。
 いつ抱く。
 今か。
 いや、今はまずい。
 孫堅の中で思考が目まぐるしく渦を巻いた。
 とにかく、抱こうと決め、決まった。
 後をどうするか、とりあえず今決めるべきはそれだな、と孫堅は一人頷く。
 ようやく落ち着いたが謝罪すべく孫堅を見上げるが、その頷きに何故か鳥肌が立って、何も言えなくなってしまった。

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