が孫堅の室を後にすると、廊下を曲がったすぐに凌統が待っていた。
「結構時間食ったな……何だって」
 凌統は何事もないように振舞っているが、口調の端々にイラついたものが滲む。
 は困ったように首を傾げ、凌統に先立ち歩き始める。おいでおいでをしているから、話をするつもりはあるのだろう。
 廊下の隅で話すような内容じゃあないってことか?
 心臓に針で突かれたような痛みが走った。
 そう言えば、の装束がわずかに乱れているような気がする。
 まさかと思うが、悪寒は止まらなかった。

 の室に入ると、凌統は扉を閉めるのもそこそこにの手を引き奥に引っ張り込む。
「何」
 対面など構っている場合ではない。
 孫堅が遂にに手を出したとなれば、呉の中の何かがおかしくなる。
 根拠はないが、凌統はそれと察知してに詰め寄った。
「何、されたって」
 焦る凌統とは裏腹に、は何処かぼんやりとしている。
 廊下で見せた苦笑を再度浮かべると、凌統を制して椅子に腰掛けさせた。
「されたっていうか……まぁ、されたけど」
「な」
 何を、と問いかけようとした凌統に、は機先を制して先に口を開いた。
「たぶん、凌統殿が考えてるようなことじゃないよ」
 からかわれた拍子に酷くむせたこと、それを鎮めるのに水を飲まされることを話すと、凌統の眉が深い皺を刻む。
「口移しで?」
「口移しで」
 今回が初めてではないと告げると、凌統の顔はますます渋くなった。
「あの人にとっては、何てことないみたいだね。気にしてるとこっちが馬鹿を見る感じ」
 やめて欲しいには違いないが、とは憂鬱そうに溜息を吐いた。
「……それだけ?」
「……私が悪いんじゃないもん」
 息が止まって、苦し紛れに孫堅の腹に蹴りをくれたことを白状すると、凌統の目が点になる。
「あんたなぁ」
「だって、だって仕方なかったんだもん、勝手に体が動いちゃったんだもん、謝ったし、その後またからかわれるし、もうこれでとんとんかそれ以上だと思うよ!?」
 凌統は言葉もなく、あんたなぁ、と繰り返した挙句に深い溜息を吐いて口を噤んだ。
「あと」
「まだ何かあるのか」
 うんざりとした凌統がそれでも続きを促すと、は少し悲しそうな顔をした。
 少なくともそう見えて、確かめるように凝視すると、はまた苦く笑った。
「名前をね」
「名前」
「……子供に、名前をもらった」
 お茶を淹れると言って立ち上がったの後姿を、凌統は何とも言えない気持ちで見詰めた。
 やっと忘れかけた頃だろうに、波の静まりかけた水面に石をぶちこむような真似をする孫堅に怒りに似た感情が湧く。
 あってはならないことだと自制しつつも、凌統は自然に歯を噛み締めていた。

 の話では、子供の名は『虎』と付けられたという。
 孫の姓を名乗ることも許されたが、これはの方で辞退した。
 孫呉を象徴する虎を名として与え、更に『孫虎』と名乗らせようとする辺り、孫堅が如何にの子に、否、自身に執着しているかを示していよう。
 本来であれば生まれてもこなかった子に名を与えるというのが異例だ。体なきところに魂は留められないのだから、それが『人』として認められようはずもない。
 突き詰めても何にもならないから、凌統は吐き出したい怒りを封じ込めた。
 が何故ぼんやりとしていたのがわかった気がした。
 名を与えられたことにより、霧散していた子供への感情が形を取りつつあるのだろう。
「男の名前だよねぇ」
 茶碗を覗き込みながら、がぽつりと漏らした。
 やはり、と思うと同時に惑いが生じた。
 何と言っていいのだろう。
 言葉が見つからなかった。
 凌統は手を伸ばし、の手に重ねた。
 突然暖かくなった手に、が凌統を見遣る。
 凌統は下を向いたまま、視線を背けている。噛んだ唇が白くまた赤く染まっていて、凌統の複雑な胸の内を示しているかのようだ。
 重なった手を外し、繋ぎ直してから力を篭める。
 胡乱な目を向ける凌統に、はおどけたように肩を竦めて微笑んだ。
 凌統もまた、手に微かに力を篭めて握り返す。
 変な感じだと思ったが、繋いだ手の温かさに張り詰めた心がゆるゆると緩んでくる気がした。
 二人とも同じように感じたのか、口元にぎこちない笑みが浮く。
 外してもいいけど。
 初々しい恋人達のように、二人はただ手を繋いでいた。

 凌統を見送ると、しばらくして湯浴みの為の湯が運ばれてきた。
 これはほぼ毎日のことで、風呂好きのの好みを慮っての待遇であるから何も今日に限った特別なことではない。有り難いと思うことはあっても、嫌悪を抱くことではないのだ。
 けれど、今日は違っていた。
 盥に揺らめく湯から、馨しい薫りが漂う。香油が垂らされているのだろうその湯には、何故か椿が浮かべられていた。
 いつもはただの白湯だ。
 違和感がに記憶の再生を促す。
 去り際、孫堅がの子に名を贈り、次いで告げられた声が蘇った。
 今宵、お前の元に行く。
 子供のことで頭が一杯だったは、その言葉の持つ意味に気付けなかった。
 あまりにもそのまま過ぎて、理解できなかったのかもしれない。
 今宵、ということは夜、お前の元、つまりの室にやってくる、ということは。
 理解した、そう覚った瞬間、は酷く狼狽した。辺りを見回すと、用意をしてくれた家人は既に立ち去っていた。
 春花ならいざ知らず、ぼうっとして立ち尽くしているを不思議には思っても、何ぞ世話をやいてやろうとは思わなかったのだろう。
「これって」
 誰も居ない室の中で、は誰かに答えを求めるように呟いた。
 答える者などありはしない。
 それでも、はただうろたえて辺りを見回す。
 湯の表面には香油が薄く刷かれ虹色に輝いている。この薫りを身に纏えということだろうか、纏っておとなしく待っていろと言うことだろうか。
 椿の花弁は赤く、何故か淫蕩さを感じさせる。
 ふと見遣った寝台の上に、の物ではない夜着が用意されているのが見えた。
 粘りつくような鈍い白い夜着は、恐らく絹で作られているのだろうがやはり色の清楚さを材質が裏切っているかのように卑猥だ。
 は、ふと凌統を思い出した。
 何かあったら、言えよ。
 見返りを求めない誠実な声は、に安堵を与えてくれた。
 だが。
 凌統の繊細な優しさをは良く知っている。
 誰もがを理解しかねていた時、凌統一人がを受け入れ、認めてくれた。
 また、減らず口は叩いても、その忠義が本物だということも知っている。
 凌統にとって、呉は父から受け継いだ宝同然なのだ。
 その凌統に、君主の命に逆らうような真似をさせていいわけがない。
 甘寧もまた然りだ。
 流転の果てにようやく安住の地を見つけた甘寧に、呉の君主を裏切らせるわけには行かない。
 どうしよう、とうろたえる。
 歯がかちかちと鳴り始めた。
 とりあえず、とは深く息を吸った。そう、とりあえず、何時孫堅が来るかわからない。今の内に室を出て、とりあえず頭を冷やして、とりあえず。
 想定しなかったわけではないのに、いざ事が起こった瞬間狼狽する自分が情けない。
 震える手で乱れた髪を掻き上げると、冷たい汗をかいているのがわかった。
 頭を冷やそうって、思った。
 いちいち自分の行動を確認しなければならないほど、うろたえている。
 扉を開くと、薄闇に白いものがちらちらと混じるのが見えた。

 孫権が軍議を終えたのは、夜警の兵以外は眠りに着いている時間だった。
 それでも視界が明るいのは、夕刻を過ぎてから降り始めた雪のせいだろう。
 既に止んではいたが、薄く積もった雪に月光が反射して幻想的な淡い光を放っていた。
 息は闇を切り取るが如くに白い。
 寒さに身を震わせるが、しんと静まり返った世界は孫権の遊び心を誘った。
 まだ誰も降り立っていない雪の上に、足を下ろした。
 きゅ、と雪が鳴る。
 足の裏からしんしんと寒さが染み込んできて、孫権は足を上げた。下ろす。雪が鳴る。また上げる。下ろす。雪が鳴る。
 たったそれだけのことが面白く、孫権は少し遠回りになるが庭を突っ切ることにした。今の時期は椿や山茶花が見事だ。それらが夜にどんな風に咲いているのか、興味があった。
 一際寒い、と感じると、庭木の列が切れて池に出た。
 真っ黒な表面がわずかに光っている。凍っているのかもしれない。
 屈み込んだ孫権の視線の先に、庭木とは違う緑が揺れた気がした。今は花を落とした空木の下に、誰かいる。
 組んだ手に額を押し付けているから顔は見えないが、に違いなかった。

 何の感動もなくその名を呼ぶ。目の錯覚かと思ったからかもしれない。こんな時間のこんな場所にがいるわけがないからだ。
 けれど、名前を呼ばれたはぎくりと身を強張らせ、孫権の姿を認めると慌てたように立ち上がった。
 ふらつく足が絡まり、空木にしがみつくに異変を感じる。
 足早に駆け寄ると、は足を滑らせて雪の上に落ちた。
「どうした」
 手を差し出すと、迷った末におずおずと手を伸ばす。様子がおかしいと眉を顰めた瞬間、の指が孫権の手に触れた。
 氷のように冷たい。
 比喩でなく本当に冷え切ったその手を、孫権は握り締めて強く引いた。
 よろめくの体が孫権の腕の中に納まり、冷たいのは指だけでないと知れた。
「……何をしていた!」
 短気を起こして怒鳴りつけるが、の唇は戦慄くばかりで一向に言葉を為さない。
 体を冷やし過ぎたのだと気付き、孫権は我知らず舌打ちをした。
 が怯え竦むのを敢えて無視し、横抱きに抱え上げてしまう。
 とにかく、今は暖めなければならない。
「……あ、の、いい、です……」
 何を言っているのか判らない。腐り落ちるほど寒くはないだろうが、真っ赤になった指先がやけに痛々しく、孫権は哀れみを覚えた。
「あの、ほんと、に……」
 唇は凍えて、歯が鳴らすかちかちという音がひっきりなしに響く。
 にも関わらず必死に孫権から逃れようとするに、腹の底に苦いものを感じた。
 こんなになっているというのに、些細な親切が何故受け入れられないのか。
 相手が、自分だからか。
「今、室に、戻るのは……」
 の言葉に、孫権は暗鬱とした胸の内が下らないやっかみだと気付く。
 すぐ拗ねる自分が恥ずかしくなり、顔が赤くなるのを感じた。
「……室に、戻りたくない理由でもあるのか」
「も、戻りたくない、と、言うか」
 愚図愚図と言い募るを、孫権は軽く抱え直して歩みを進めた。
「ならば、私の室にでも居るといい」
 氷漬けにして蜀に返すわけにはいくまい、と軽口を叩くと、迷っていたらしいも諦めたようで、こくりと小さく頷いた。すいません、と呟いて、孫権の肩にもたれる。
 冷たく冷え切った耳朶に、更に冷たいの髪が触れる。
 その冷たさに、孫権はにいったい何時から、何故あんなところにと問い質したい気持ちを必死に抑えた。

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