夜が明け、凌統はいつも通りにの室を訪れた。
 つけておいたはずの護衛兵の姿が見えず、凌統は血相を変えて室に飛び込む。
 異変こそなかったが、奥に人の気配を感じる。
 ではない。
 武人独特の気配に、凌統は腰に下げた波濤に手を遣った。
「そう殺気立つな」
 のんびりとした口調に、凌統は別の意味で血相を変えた。
 飛び込んでいいものかどうか悩んでいると、向こうから呼びつけられる。
 嫌々という態で奥に進むと、予想に反して人影は一つだった。
「護衛兵は俺が帰した。叱ってやるなよ」
「それは構いませんが……一体何をしておいでです」
 問われ、肩をすくめたのは孫堅だった。
「見ての通りだ。どうやら、すっぽかされたらしい」
「すっぽかされたって」
 よくよく見遣れば屏風の影に湯浴み用と思しき盥が置かれ、微かに香油が香ってくる。萎れかけた椿が静かに浮かんでいるのが奇妙だった。
 が湯浴みに香油を使っているなど聞いたことがなかったから、用意させたのは別の者だろう。
「俺ではないぞ」
 面倒そうに先手を打ってきた孫堅に、凌統は鼻白む。
「そこまで短慮でなし……まぁ、本音を言えばそうあっても良かったが。昨夜は、単に話に来ただけだ」
 孫堅の足元には空になった酒壷が置かれ、横倒しに倒れている。
 一晩中ここで待っていたというのだろうか。
「誰かが気を回して貢物代わりと策を練ったのであろうな。物品の類は喜ばぬ女と知れているから、考えたのだろう。だが、何と言うか、間が悪い」
 かったるそうに立ち上がると、孫堅は凌統の肩を叩いた。
「……この室は、夜になると存外冷える。湯桶のせいやもしれんがな。炭を熾してやれ」
 変に気を回すのは、不機嫌の表れに感じた。肩に置かれた手が妙に強張っていたから、そう感じるのかもしれない。
 が戻ったら俺の所へ来るように伝えてくれ、と言い残し、孫堅は室を出て行く。
 何が何やらわからぬまま、凌統はともかくを探そうと続けて室を後にした。

 が目覚めると、見知らぬ天井が目に映った。
 あれ、と周囲に目を遣ると、傍らに周泰が立っている。
 ぼやけた意識が一気に覚醒し、は牀の上で跳ね上がった。
「こっ」
「……孫権様の……室だ……」
 ただ一音での疑問に的確に答えると、周泰は身を屈めて来た。
 ぎょっとして身を引きかけるが、周泰はの襟元を合わせてくれただけだった。胸の谷間まで露出していたのに気付いていなかったは、頬を赤くして俯いた。
 と、昨夜のことを思い出す。
 夢か現か判然としないが、孫策に抱かれていたような気がする。
 思い切って周泰に問うが、やはり孫策は戻っていないという。
 じゃあ誰だ、と考えるが、肌はさらさらとしていてそんな気配もない。寒かったのか、寝汗をかいた様子もない。
 夢?
 それにしてはやたらと生々しい。
 まさか、と思うが、それはない、と思うが……。
「……あ、の、孫権様って……」
 恐る恐る訊ねると、が目を覚まさないからそのまま執務に向かったという。寝かせておいてやれ、という命を受け、周泰が護衛がてらここに残ったのだそうだ。
「え、じゃあ孫権様の護衛って」
 誰も着いていない。だから早く仕度をしろと促され、は慌てて牀から滑り降りた。
 の装束は、良く乾くようにと行火の近くに置かれていたのを周泰が持ってきてくれた。
 ほんのりと温かい。
「有難うございます」
 頭を下げると、周泰はそのまま隣室に出て行った。
 借りていた夜着を脱ぎ捨て、装束に袖を通す。
 ブラが少したくし上がっていたが、寝相のせいと言えなくもない。ショーツも濡れてこそいたが、淫夢のせいととれなくもなく、何より吐き出されたはずの精を感じない。
 やはり夢だったかと恥ずかしくなった。

 周泰に連れられ室に戻る途中、孫権にお礼を言いたいとが請うと、周泰は珍しく難しい顔を見せた。
「……孫権様は……お忙しい……」
 周泰が言うのであれば、よほど忙しいに違いない。
 そう言えば、昨夜も相当遅い時間に通り掛かったのだ。
 そんな時間に押しかけた非礼を、しかも牀まで奪ってぐーすか寝ていたのだからせめて何か一言なり伝えたかった。
「……お礼状書いたら、読んでもらえますかね?」
 それぐらいなら大丈夫だろうと許しを得、は戻ったら早速書こうと心に決めた。
「ぉあ、居たよ」
 声に振り返れば、凌統が小走りに駆けてきた。
 と並ぶ周泰に、訝しげな視線を送る。
「……昨夜は、どこに行ってたんだよ」
 の腕を引き、小声で訊ねるとの顔が赤くなる。
 相手が孫堅でないと思ったら今度は周泰かと、凌統は眉を吊り上げた。
 しかし。
「う、孫権様に保護されて、呑み潰れてた」
 の『恥ずかしい』は凌統の考えていたそれとは少し趣を違えていた。
 意表を突かれて肩の力を抜く凌統に、周泰は目礼を送って背を向ける。
 留め置こうにも何を訊ねていいかもわからない。
 とりあえず、首をすくめて凌統の機嫌を伺っている馬鹿女を引っ立てることにした。

 室の奥に椿の浮いた湯桶が残されているのを見て、の眉が顰められる。
「それ、孫堅様が用意したんじゃないとさ」
 凌統が横から口を出すと、弾けるようにが凌統を振り仰ぐ。
 てき面だと笑いたくなるのを堪え、凌統は孫堅との会話をかいつまんで話してやった。
 の顔が赤くなったり青くなったりする。
 話し終えると、は頭を抱え、次いで凌統に泣きついてきた。
「うわぁ、どうしよう〜!」
「知るか、馬鹿」
 素っ気なく言い捨てると、凌統はの頭に拳をぐりぐりと押し付けた。
「な・ん・で・言わなかった、この馬鹿」
「わ、忘れてたもん、しょーがないじゃない〜!」
「思い出してからでも十分間に合っただろうが、何とでもしようがあるっつの」
 戦のことならまだしも、男と女の仲など崩そうと思えば何とでもなる。相手が如何に孫堅とは言え、強姦しようとでも言うのでない限りは手の打ちようはあるのだ。
「妙に気ぃ回さないで、言えっつの」
 呻いているの頭をぐりぐりし続けつつ、凌統は溜息を吐いた。
 こうは言っているが、似たようなことがあればまた言わずに置くに違いない。
 の内には壁がある。
 脆いように見えて、どこまでも分厚い壁がある。
 崩したと思って安心していると中から補修されて、気が付けば相対距離は変わっていないのだ。
 孫策が如何な手でその壁を突破したかは定かでないが、それも極最近のことだ。出足が遅れた凌統が孫策に並ぶには、並々ならぬ努力が必要となるに違いない。
 更に言えば、凌統はを抱いてないのだ。熱を分かち合うことはすべてではないが、曝け出すことが生み出す絆を凌統は軽視していない。
 犯ればいいってぇもんでもないけどねぇ。
 想像が出来なかった。
 頭を軽く叩いて鬱憤晴らしを終わりにすると、凌統は牀に腰掛ける。
「それにしても、よく孫権様が拾って下さったね」
 孫権は、に好意を抱いてはいても素直になれない気質だと見ている。
 兄孫策が大事にしている女とは言え、大喬のように己の立場も周囲の納得も得ていないを、どう扱っていいか思いあぐねているようなところがあった。
「うーむ、パニくっていたので、庭の木の下に隠れていたのが同情を誘ったのやも知れませぬな」
「はぁ!?」
 昨夜は雪が降っていたはずだ。よりにもよってそんな夜に、庭木の下に隠れていた神経がわからない。
 呆れ返る凌統に、は恥ずかしそうに袖口を摘んだり離したりしている。
「だ、だって、見つかったらマズイし、そうなんだって思い込んじゃったら、何かおっかなくて」
 うじうじとつまらないことを言い募るに、凌統は来い来いと手招きをする。
 首を傾げてトコトコとやってきたに安堵を覚えつつ、凌統は今一度そのこめかみに拳を押し付けてやった。

 護衛兵が書状を携え入ってきた。
 からの礼状だった。
 迷惑をかけたこと、世話をかけたことに対しての詫びと礼がつらつらと書き付けられている。
 素直で誠実な言葉の羅列からは、淫らがましさは欠片も感じられない。
 孫権は、広げた竹簡を何度も読み返した。
 溜息を吐いて卓に放り出すと、頬杖を突いて物思いに耽る。
 今朝から執務が手に付かない。
 思い返すのは、昨夜の契りの様ばかりだった。
 目覚め、腕の中で深い眠りに就くの姿態に驚愕した。
 酔っていたとは言え、兄の愛する女に手を付けた罪悪感に苛まれる。
 許しは得ているとは言え、考えているのと本当にするのとでは雲泥の差だろう。
 このことを孫策が知った時、孫策は一体どう思いどういう態度に出るのか。
 責められることは恐ろしくなかったが、敬愛する兄が変わってしまうことが恐ろしかった。
 そっと牀を抜け、隣室に出ると、気配を察したらしい周泰が室に入ってきた。護衛兵の代わりに、廊下に居たものらしい。
「幼平」
 その字を呼び、孫権はそれきり口を閉ざした。
「……後悔……なさっておいでですか……」
 周泰の言葉に、孫権は虚空を見詰め考え込んだ。
 答えは、否、だった。
 抱いた感触が皮膚に焼き付いている。更に愛しくなった、と思えた。
 だが、が受け入れたのはあくまで孫策であり、それに乗じた自分の姑息さが孫権を苛んでいた。
 自分だと理解して受け入れてくれたなら、こんな苦い思いはしなかっただろう。
 なかったことには出来ないからこそ、孫権はどうするべきか悩み苦しんでいた。
 周泰は牀に眠るを見に行き、足早に戻ってくると後は任せるように孫権に申し出た。執務室で休むようにと請われ、後は追い出すように送り出されてしまった。
 後から執務室に顔を出した周泰に、は夢を見たと思い込んでいる、と告げられても孫権には信じられなかった。
 だが、届けられた礼状を読む限り、確かには孫権との契りを『なかったこと』と思っているらしい。筆跡にもそれらしい乱れは感じられない。
 喜ばしいことのはずだった。
 だが、孫権の憂鬱は意に反して更に深まるばかりだった。
 確かにこの手に抱いた。それを、なかったことにされる。
 予想外の煩悶が湧き上がり、孫権を責めていた。

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